夜明けのマーメード
帆尊歩
第1話 先生
「ねえ先生。この海に、人魚がいるって本当だと思う」
あの日私は、この夜の明け切らない岸壁で先生に尋ねた。
私は制服姿で、膝を抱えて座っていた。
先生はその後ろ十メートルくらいのところに、スーツ姿で立っていた。
「どこ情報だよ」
「中原中也」
「あれは人魚ではないのです。だろ、人魚の存在を否定しているんだよ」
「そうか。この海に飛び込んだら、人魚になれると思ったのにな」先生は何も言わない。
「でも、北海の海は、空を呪っているなんて、どこにそんな牙があるんだって感じよね」
「別に北陸の海だからって、いつも荒れているわけじゃない」
その時、夜が明けた。
「先生、日の出だよ」
私は、海を見つめる。
段々明るくなってゆく、でも朝日が昇らない。
私の戸惑いを先生は見逃さなかった。
「まさか太陽が海から上がるとか考えていないか」
「違うの?」
「ここをどこだと思っているんだ、自分で北海の海って言っただろう。北を向いているんだから、太陽はどこから上るんだ」
「ひがし?」
「東、どっちだ」斜め後ろの当たりの山の上に太陽が出ていた。
私は、引きつったような笑みを浮かべた。
すると先生は小馬鹿にしたように、笑っていた。
「海から出た太陽を、夜明けのマーメードって名付けようと思っていたのにな」
「先生にとっては、お前が夜明けのマーメードだよ」
「ええー」
「お前を探して、やっとここで見つけた。見つけたときは、夜明けのマーメードと思ったよ。朝日に照らされて、泡になって空に飛んでいったらどうしょうって」
「それは、担任の教師として、それとも・・・・」
「言わない」
「じゃあ、あたしが一緒に死んで、と言ったら?」
「それも良いかもしれないな。一緒に泡になるか」
その時、太陽は完全に上がっていた。
あの時、十七才のあたしに先生は付き合ってくれた。
今思えばどこまで本気だったか分からない。
先生のことも。
家出のことも。
そして命を絶とうとしたことも。
私は勝手に先生に恋をして、勝手に振られたと思って、自ら命を絶とうとした。
捕まったのはこの岸壁だ。
ここから私は海に飛び込もうとしていた。
家出の原因は先生で、その先生に捕まって、思いとどまらされた。
思いとどまったのは、先生の前で泡になって消えたくなかったからだ。
後の笑い話でその事を言うと、本気で先生は困ったような顔をした。
私が勝手に好きになっただけで、先生は全く預かり知らないことだった。
と言うことにした。
それが先生を守る唯一方法でもあった。
先生と心のつながりは、永遠に二人だけの秘密になった。
全く恐ろしいことに、あの時の私は、死ぬと言うことが、どういうことか分かっていなかった。
どこか甘美な、美しい昇天、という認識。
子供特有の思い込み、そんな物に付き合わされた先生は、不幸としか言いようがない。
でもそのおかげ私は生きている。
あれから恋をして、結婚をして、子供があの時の私と同じ年になり、あの時の親の気持ちが分かるようになった。
死ななくて良かった。
今は本当にそう思う。
先生がいなかったら、死んでいたか、と言われれば、よくわからない。
でも先生のおかげで、今の生活が成り立っていると思えば、感謝しかない。
先生が死んだ。
二十年を経て、またしても女生徒が、心を病み家出をした。
学校中の先生と親たちが町中を探し回り、やっと見つけたのは、あのときと同じこの岸壁だった。
その親たちの中に私もいた。
二十年前と全く同じ状態に、私の娘は何の関係もないのに、私は冷静ではいられなかった。
先生を始め、何人かの大人が駆けつけて、岸壁に立つ女生徒に説得を試みた。
岸壁にいる女生徒は、あの時の私だ。
だからこそ分かった。
あの時は確かに私が人魚だった。先生は私を泡にさせないようにしてくれた。
今、先生の人魚はあの子なんだ。
そして泡にさせないのでは無く、自らも泡になろうとした。
そして人魚は海に帰る、泡になるために。
私は、先生の顔を見た。
その視線に先生は気付いたのか、私を見つめると、私だけに聞こえるような声でゴメンと言った。
そして先生も何の躊躇もなく飛び込んだ。
そして、二人は朝日の中、泡になって空へと消えた。
翌日の新聞には、女生徒が亡くなったことよりも、大きく見出しが躍った。
教え子を助けようとした高校教師が、力尽きて亡くなる。
それは美談と言うより、あまりに悲しい結末になったが、そのせいで、先生は身を挺して教え子を救おうとしたとされ、教師の鏡のような扱いになった。
岸壁には、先生の石碑を建てようという動きまであった。
先生はあの子を助けようなんて微塵も思っていなかった。
一人で泡になって空になんて行かせられない。
だから一緒に行ったに違いない。
いったい二人の間に何があったのだろう。
私は助かった、そして幸せである。
あの子は先生と共に泡になった。
どちらが幸せなんだろう。
でも私は、ちょっとだけ羨ましくもあった。
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