しおりんの複雑な気持ち

 穏やかな春の午後、栞の部屋で二人はいつものようにくつろいでいました。

 栞は複雑な数式が書かれたノートを眺め、扇華は窓辺で春の風を感じながらぼんやりとしています。


 突然、扇華が栞の方を向いて、思いもよらない質問を投げかけました。


「ねえ、しおりん。しおりんって恋したことある?」

「えっ!? 恋!?」


 栞は驚きのあまり、手に持っていたタブレットのペンを落としてしまいました。

 彼女の頬が急に赤くなり、困惑した表情で扇華を見つめます。


「な、何、突然……」


 栞が言葉を詰まらせる中、扇華はうっとりとした表情で続けました。


「あたし、今、恋してるんだ~」


 栞の返答を待たずに、扇華は夢見るような目で話し始めました。


「ね、聞いて聞いて! 最近ね、近所に素敵なお兄さんが引っ越してきたの。背が高くて、優しい笑顔で……」


 扇華の声は興奮と喜びに満ちていました。

 栞はぽかんとした表情で、その話を聞いています。


「そうなんだ……それは、良かったね……」


 栞は無理に笑顔を作りながら答えました。

 しかし、胸の中になにか違和感のようなものが広がっていきます。


(この気持ち、いったいなんだろう……)


 栞は自分の感情に戸惑いを覚えました。

 今まで経験したことのない、もやもやとした感覚。

 それは寂しさや不安、そして少しの嫉妬心が混ざったような複雑な感情でした。


 扇華は栞の様子に気づかず、うっとりと話し続けます。


「昨日なんてね、道でばったり会ったの。そしたら『おはよう』って声をかけてくれて……」


 栞は黙って聞きながら、自分の気持ちを整理しようとしていました。

 科学や数学なら得意なのに、こういう感情の問題になると途端に分からなくなってしまう。

 そんな自分にも少しだけイライラしてきました。


「扇華、その人のどこが好きなの?」


 栞は頑張ってそう尋ねました。

 扇華は少し驚いた様子でしたが、すぐに嬉しそうに答えます。


「うーん、やっぱり優しそうなところかな。それに、知的な雰囲気もあって……」


 扇華の言葉を聞きながら、栞は胸の奥でますます複雑な感情が渦巻くのを感じました。

(それなら僕だって、知的だよ……)


 そんな思いが頭をよぎります。しかし、すぐにそんな考えを振り払いました。


「そっか。扇華が幸せそうで良かった」


 栞は精一杯の笑顔を作って言いました。扇華は嬉しそうに頷きます。


「うん、ありがとう! しおりんにも素敵な人が見つかるといいね」


 その言葉を聞いて、栞はハッとしました。自分にとって大切な人、それはもう目の前にいるんじゃないか。そう気づいた瞬間、胸の奥のもやもやが少し晴れていくのを感じました。


「うん、僕は……今のままで十分幸せだよ」


 栞はそっと呟きました。扇華には聞こえていないようでしたが、モウモウだけがその言葉を聞き逃さなかったようです。


 その日の夕方、扇華が帰った後、栞は窓辺に座ってぼんやりと空を見つめていました。今日感じた不思議な感情について、まだ上手く説明することはできません。でも、それが大切な何かを教えてくれたような気がしました。



 翌日、栞が部屋で実験の準備をしていると、突然ドアをノックする音が聞こえました。


「はーい」


 栞が返事をすると、ドアが開き、げっそりとした表情の扇華が現れました。


「え? 扇華? どうしたの?」


 栞は驚いて尋ねます。

 扇華は部屋に入るなり、ベッドに倒れ込むようにして座りました。


「しおりん……あのね、あのお兄さん……」


 扇華は涙ぐんだ目で説明し始めました。

 なんでも、その素敵なお兄さんにはすでに結婚を前提として付き合っている彼女がいたとのこと。


「ひどい! あたしとは遊びだったのよ!」


 扇華は泣きわめきます。

 栞は戸惑いながらも、友達を慰めようと近づきました。


(遊びって……扇華、そのお兄さんとは付き合ってもいないんじゃ……)


 心の中でそう思う栞でしたが、どこかで安心している自分にも気づきます。

 そんな自分に少し罪悪感を覚えつつも、扇華の頭に手を置きました。


「大丈夫だよ、扇華。きっともっと素敵な人に出会えるよ」


 栞がそう言うと、扇華は突然立ち上がりました。


「ということで食べるわよ!」

「!?」


 扇華はテーブルに大量のお菓子を置くとすごい勢いでばくばくと食べ始めます。栞は呆気にとられながらも、心配そうに声をかけました。


「お、扇華、やけ食いは良くないよ!」

「いいの! 失恋した乙女は古今東西こうして傷ついた心を癒すことになってるの! ほら、しおりんも食べて食べて!」


 扇華は涙ながらにお菓子を口に詰め込みます。

 栞は困惑しながらも、渡されたクッキーを手に取りました。


「う、うん……」


 扇華の事を心配しながらもやはりどこかちょっとほっとしている自分に気がつく栞でした。そんな自分の気持ちに戸惑いつつも、友達の傷心を癒すため、一緒にお菓子を食べることにしました。


「ね、扇華。このクッキー、おいしいね」


 栞がそう言うと、扇華は涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を上げました。


「でしょ? これね、あのお兄さんが働いてるお菓子屋さんの……あっ!」


 扇華が再び泣き崩れそうになったので、栞はすかさず話題を変えました。


「あ、そういえば昨日、面白い量子力学の本を見つけたんだ。扇華も興味ある?」

「えっ? う、うん……」


 扇華は少し戸惑いながらも、栞の話に耳を傾け始めました。

 栞は一生懸命に量子力学の面白さを語り、少しずつ扇華の気を紛らわせていきます。


 そうして二人で過ごす時間の中で、栞は改めて扇華との友情の大切さを感じました。恋愛感情はまだよくわかりませんが、今この瞬間、大切な友達と一緒にいられることの幸せを噛みしめたのでした。


 夕暮れ時、扇華が帰る頃には、彼女の表情も少し明るくなっていました。


「ありがとう、しおりん。なんだか元気出てきたよ」


 扇華がそう言って笑顔を見せると、栞も心から嬉しくなりました。


「うん、いつでも話し相手になるからね」


 扇華が帰った後、栞は窓辺に座ってぼんやりと空を見つめます。今日一日で経験した様々な感情を思い返しながら、栞は小さくつぶやきました。


「恋って、やっぱり難しいんだね、モウモウ」


 モウモウは「にゃー」と鳴いて、栞の膝の上で丸くなりました。

 栞は優しくモウモウを撫でながら、またいつもと変わらない日常が戻ったことに静かな充足感を覚えていたのでしたた。

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