第2話 サラリーマンの男


PM 21:00 繁華街

「ねぇ、ゆめちゃんいいよね〜?」

『ん〜、今日はご飯までにしよぉ〜?その代わり、次会う時はたっぷり時間空けとくから、ね?❤︎』


くりんと巻いた毛先から甘い匂いを振り撒きながら、桃色の唇を尖らしたゆめちゃんは腕を組んできて、懐かしい柔らかい感触が私の肘あたりを刺激した。


「んも〜分かったよ。次は逃さないぞぉ。じゃあこれ、今日の分ねぇ」


私はゆめちゃんに白い縦長の封筒を差し出した。ゆめちゃんは「ありがとぉ❤︎」と受け取り、石のついた爪先で封筒の中身を開き確認すると、すぐに鞄の奥へと沈めた。


『さとるんっ、今日も楽しかったよぉ〜❤︎』

「お肉美味しかったねぇ。また行こうねぇ」

『やったぁ〜!ゆめお仕事頑張っちゃう❤︎』


白いワンピースに犬の散歩用かと間違うほど小さなバッグ、控えめであるがたしかな輝きを放つブレスレット。歩きにくいヒールのおかげで、彼女のか細い指が私の二の腕に吸い付いてくる。イヤリングを落とししゃがむと、白く美しい桃谷がちらりとのぞいた。

『やだぁ〜。さとるんがくれた大事なものなのに』と、ついた汚れをフーと吹き飛ばした。いつかその息を私の耳の中にも吹きかけてほしい。

『じゃあ〜またねぇ〜❤︎』

そう言うと、夜を街を舞う蝶のように、ひらひらと手を振り繁華街の奥へ消えていった。

私は次に会うときのことを想像していた。頭の中では、ゆめちゃんは柔らかい色のレースに身を包み、貝殻のベッドの上で寄り添うふたりが、幸せそうに笑っていた。




PM 22:30 帰宅

マンションのエントランスでポストの中を覗くと、絶対に開けてくださいと主張をする黄色の封筒が見えた。私は隙間に手を差し込んで指先で封筒を摘んで取り出した。このマンションに暮らし始めて2年。ポストの暗証番号を忘れてしまい、いつもこのように郵送物を取り出している。


管理人は無愛想なバツイチ子持ちの年配女性で、少しでも触れようもんならすぐ破裂してしまう風船のように鬱憤がパンパンに溜まっており、常に高圧的な態度なので到底話す気にはならない。まぁ、容姿も良くない、バツイチ、そのうえ子供は昨年大学受験に失敗して鬱になってしまったとか。噂によると離婚の原因は夫の不倫だったらしい。信じていた人の1番の存在にもなれない、なんとも惨めで可哀想な人生であるので、そうなってしまうのも無理はないと思う。申し訳ないが他人事であるし、私にとってゆめちゃん以外はどうだっていい。


部屋に入り、封筒を指で破り開いた。入っていたのは二つ折りにされた手紙と写真だった。裏返った3枚の写真をひっくり返した瞬間、私の全身が誰かに掴まれたように固まり、額にはじんわりと水滴が浮かび、そのうちの一雫が、たらりとこめかみあたりを通過した。次第に背中にも広がり、油の混じったような嫌な汗が、脂肪を蓄えた肉体を伝っていくのが分かった。


「‥‥なんだこれは」


写真の中の私とゆめちゃんは、まるでドラマのワンシーンのように顔を見合わせ、その姿は恋人そのものであった。写真にうっとり見惚れていた私は、ハッと正気を取り戻し残りの2枚を確認した。

白いワンピースに小さなバッグ、写真の私がつけているネクタイと、今私がつけているネクタイは同じものである。つまりこれは、つい先ほどの写真である。誰かが盗撮し現像し、そのままポストに投函したということだろう。何が目的なのか。考えなくても、犯人がこの写真をどのように利用する気なのか、嫌な予感がひとつ、私の目の前を通り過ぎていった。

そして手紙を開くと、その予感は確信へと変わったのであった。



"ナニモノニモナレナイオマエ へ


コノヒミツヲバラサレタクナケレバ

オマエヲクルシメルダレカヲコロセ

コロシタサイニハカナラズ shoot by 3トノコセ

ソウスレバオマエハナニモノカニナレルダロウ"



プツンと何かが切れたように膝の力が抜け、その場に座り込んだ。この犯人は、私が誰かを殺さないとこの秘密をばらすという。全く意味の分からない一方的な文章に憤りを感じたが、それは一瞬のことで、すぐに私の頭の中は、この写真が会社に撒かれでもしたらどうしようという不安でいっぱいになった。

写真と手紙を眺めながら、何ひとつ解決策は思い浮かばず、気づけば外では太陽とスズメが朝を告げていた。私は全身にまとわりつく油と不安感を洗い流すようにシャワーを浴び、脳みそに黒い膜を張ったまま、スーツに身を包み会社へと向かった。




AM 8:00 出社

会社の前にある自動販売機で缶コーヒーを買った。オフィスに入り、パソコンを開いてメールを確認しながらコーヒーを口へ運ぶ。これがいつものルーティンであるが、いつもと違うのは今もなお、とんでもない不安感が私の脳みそを覆っているということだ。残念なことに、こんな状態で仕事を上手く進められるはずもなかった。



『おい、山本!ちょっとこい!!』

「‥‥はい」

『お前、なんだよこの企画書。締切ギリギリに出してきてこのザマかよ。T大をでたことだけが誇りなんだろ?期待通りの仕事してくださいよ、頼みますよT大卒さん』


部長が企画書を投げ、紙はハラハラハラと私の周りを舞った。


「‥‥はい、申し訳ございません」

『ほんっと、なんでこんなのをうちの部署によこしたんだか。使えねーな、デブだし』

「本当に、申し訳ございません」

『もういいや。佐々木ぃ、この資料午後までに直してぇ』

『はい!』


佐々木は軽快なステップで部長の隣へ行き、『部長ぉ〜、今日どおっすか?』と、指をクイっと上げた。

『いいねぇ〜。んじゃ定時に上がるかぁ。あの企画書テキトーでいいわ。頼んだ』

『了解っす〜』




PM 12:00 昼休憩

社食で、サバの味噌煮定食をチマチマとほじくりながら食べていると、佐々木が声をかけてきた。


『山本さんっ。お疲れっす〜』

「あぁお疲れ。先ほどは資料の件すまなかった。仕事を増やしてしまって」

『あ〜、んもぉ全然っすよ。にしても部長あたり強いっすよねぇ。僻んでるんっすよ。山本さんT大卒で、部長はFランだから。ま、真に受けないで、機嫌悪いんだなぁくらいに思っておいた方がいいっすよ』

「あ、ありがとう‥‥」


どうせ嫌味のひとつでも吐いてくるのだろうと思っていたから意外だった。佐々木は後からうちの部署に入ってきた。年齢は私のひとつ後輩だが、人から好かれる能力が異様に高く、部長にも気に入られ、周りを上手に頼りながら今ではこの部署のエースとなった。


『お互い気楽に行きましょう』


そう言って私の方をポンっと叩いた佐々木が僕にはアメリカ映画に出てくるヒーローに見えて、不覚にも少し感動してしまった。




PM 12:50 男子トイレ

佐々木のおかげで半分気持ちを立て直した私は、腹に溜まっていた消化物を便器の中に排出し、すっきりとした気持ちだった。深呼吸をし、扉を開けようとしたその瞬間、集団がトイレに入ってきた。


『いやぁ、あれやばいわ』

『誰?あー、お前んとこにいるあの人?』

『そうそう。さっき慰めてやったら、キラキラした目で俺のこと見つめてきてさ。後輩から慰められるって、ほぼ侮辱と同じってこと気づいてないのかな』

『40手前にしてT大卒しか誇れることがないのはイタイよなぁ』

『何者にもなれないとそうなるんじゃない?気をつけよーっと』


いくつかの声の中、ひとつ聞こえたそれは紛れもなく佐々木の声だった。

初めは味方だと思っていたヒーローが本当は敵だったという、映画のような展開に私は、やっぱりお前もかと絶望し、胸が詰まり吐き気をもよおした。


「お"ぇ"〜〜」


━━━ コンコン


『大丈夫っすか?』


「お"ぇ"ぇ"〜」





PM 20:00 残業&帰宅

部長と佐々木は定時ぴったりに肩を組みながら帰って行った。私の机にはまだいくつかのファイルが積まれている。私はゆめちゃんに連絡した。



ゆめチャンおつかれさま‼️

次いつ会えるかな⁉️

はやく会いたいな〜(o^^o)


          さとるんおつかれさま!

          来週とかどうかな??


私たちは1週間後に会う約束をした。今日は文字通り最悪の1日だったけれど、ゆめちゃんのことを考えたらなんだってできる気がする。帰り道、気づけば私は小さくスキップをしていた。




AM 9:00

『お前どんだけ仕事おせーんだよ。無能』

AM 10:00

「部長、頼まれていた企画書です」

『あぁ、佐々木に作ってもらったからもういいわ。シュレッダーかけといて』

AM 11:00

『やる気あんの?まじ無能だな』

PM 13:00

『無能』

PM 16:00

『無能』

PM 18:00

『無能』


むのう‥‥。無能、無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能無能。





PM 20:00 帰り道。

雨が強く降っていた。こんな日でも世界はお構いなく雨を降らす。雨音はまるで、ひとりぼっちの私を嘲笑っているかのようだった。


「はぁ‥‥」

『山本さーーん!』


まさかと思い、聞きなれた悪魔の声に振り向くと、傘をさした佐々木が手を振りながらこちらに走って近づいてきた。


「何の用だ‥‥」

『そんな、ひどいっすね〜。慰めようと思っただけなのに』


ニヤニヤと笑う佐々木の頭にはツノが生え、お尻からは矢印型の尻尾が生え、持っている傘は槍に見えた。


「わ、私はな‥‥お前の正体を知っているぞ‥‥」

『は?なんのことですか?』

「お、お前が影で私の悪口を言っていること全部知ってる」

『あー、それ、悪口っていうか、事実?』


佐々木は悪びれる様子もなく、『そわな怒んないでくださいよ。ジョーダンですから』と私の前を歩いた。その背中にはたしかに黒い翼が生えていた。

呆然と立ち尽くす私の視線の先には粗大ゴミ置き場があり、捨てられたパイプ椅子が目に入った。


「shoot by 3 ‥‥いや、撃ってはいないから、hitかな‥‥」

『なーに、ぶつぶつ言っ』

━━━ ガンッ




PM 20:15

月に照らされたアスファルトが、ゆっくりと赤黒く染まっていく。


「はぁはぁ‥‥やってやったぞ。私は、私はついに3になったんだ。はぁはぁ」


私はペンケースから油性ペンを取り出し、佐々木の手の甲に"hit by 3"と書いた。

それだけでは物足りなかった私は、佐々木の鞄から財布を取り出した。無駄にでかい横長のブランド財布だった。そして震える手で入っていた札を抜き取りポケットにつっこんだ。


私は雨の中傘もささず、真っ暗な帰り道を全速力で駆け抜けた。

今まで味わったことのない、脳みそが解放され、全身の細胞という細胞が蘇り、遠くどこまでも飛んでいけそうな気分だった。

いつもは見るのも嫌になる赤いタワーは、私をおめでとうと祝福する一本のロウソクのように見えた。




1週間後のPM 20:00

「ねぇ〜ゆめちゃ〜ん、前に約束したはずだよ〜」

『えぇ〜?そぉ〜だっけぇ??でもなぁ〜』

「今日はさ、追加でこれだけ持ってきたんだ」


私はゆめちゃんに、別の封筒に入れた20万を見せた。


『え!!?さとるん、すごぉ〜い!!❤︎いいの?こんなにもらって❤︎』

「行ってくれたらね」

『いくいくぅ❤︎もちろん!』


ゆめちゃんは、私の肘に柔らかいものを擦り付けてきた。


『さとるん、だぁ〜いすき!いっちばんすき!』

「ははは」


漂う空気までもピンク色に染まったネオン街、私はホテルの一室でシャワーを浴び終え、バスローブを巻いて洗面所を出た。先にシャワーを浴び終えたゆめちゃんは、出てきた私に気づいていないようで、濡れた髪のまま携帯をぴこぴこ触っていた。


『ん〜、ささきっちどうしたんだろ』

「ん?何か言った?」

『わっ!びっくりした。なんでもないよんっ❤︎』

「そっか」


私は、パチンと部屋の明かりを消した。






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