世界が自分なら
とある猫好き
第1話
「パタンッ」という本の世界から現実世界に連れ戻される音。その音は物語から自分を切り離すのに十分な音だった。
机の上にある時計は23時を指そうとしている。
静寂だった世界がだんだんと色づき、やがて環境音と蝉の鳴き声がせめぎ合ったいつもの自室に戻った。
どこか遠くで自転車がギコギコと戦歌を奏でている。どこか遠くでハイヒールが火花を散らしている。そしてどこか遠くで産声に負けない歌声が星に届こうとしている。
世界が春に誕生したのなら、生命は夏に誕生したのだろう。
重い腰を持ち上げ、読み終わった本を隙間だらけの本棚に戻す。
さて、読んでないのは残り数冊といったところか。
白を基調とした部屋の中で凛々しく佇むこの茶色い本棚は、幼い頃に亡くなってしまった父のお下がりだ。不自然な隙間を多く持ち、さながらピアノの鍵盤を六つ縦に積み上げたようなこの本棚を、父は「歌うモノリス」と呼んでいた。
本棚には詩集からSFまで、まるで全てのジャンルの本を備えているかのようだ。その数、およそ800冊。隙間を数えたら1600冊、いやもしかしたら2000冊の文庫本は入るほどの大きさを持つ。この数の本、一体どこから取り寄せたのだろうか。
そうして本棚は一つの音を取り戻し、私は毛布にくるまりながら、夢の中で朝雲雀を待つ。
翌朝、本棚から一冊の本が落ちた。
「誰かそこにいるのか?」
時は止まった。息も止まった。音も止まった。
夏の風物詩であるはずの蝉の鳴き声が聞こえなくなり、辺りが静寂に包まれる。心臓の鼓動だけが聞こえる中、全神経が床に落ちるはずのない一冊の本を凝視した。
誰もいるはずがない。誰もいるわけがない。だが事実、長年孤高を貫いてきたこの空間が脅かされている。
背筋が凍る。額が引き攣る。まるで世界滅亡の寸前のような静けさに包まれる。
───本棚、ドア、窓、床。視線は止まることを知らない。
数多の可能性が脳裏に浮かび、その都度否定される。
───カーテン、壁、ベッド、棚。
どれほどの時間が経ったか。
やがて時が動き出し、世界に重力が戻る。
寝巻きの重さに安堵し、大きく息を吐く。
少なくとも人の仕業ではなさそうだ。
床にひれ伏した本に目をやる。
紫を基調としたシンプルなデザインを持ったソフトカバーの本だ。表紙にはイラストもなければタイトルもない。そうなってくると日記や詩集の類いなのだろうか。
そう思いながら、ゆっくりとベッドから立ち上がり、そっと本に向かって手を伸ばす。
それにしてもどこから落ちたのか。
本棚を見るが、隙間が多すぎて見当もつかない。この本棚は父が使っていた時も隙間だらけだった。昔、父にこの隙間のことを聞いたが、うまくはぐらかされたような。それでもなるべくこのままにしておきたい。
これも一つの父との繋がりだからだ。
そんなこんなで本を拾い上げる。本の背には僅かなシワが入っている。誰かに読まれたことがある証拠だ。
本を開ける。
そこには一文。
「私を覚えていますか?」
夜の帳が上り、戻るはずだったいつもの夏が消える。
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