階段から落ちたのは

 子供のころに手痛い思いをした(前話参照)私も大人になった。

 そして、今度は私が小さい子の面倒を見ていたころの話だ。

 私の子供ではない。兄夫婦の子供だ。当時二歳くらいであったその子の名前は、甥くんとでもしようか。



 兄と義姉、日中に二人が甥くんをおいて家を出なければならないときは、近所に住む私と母が甥くんの面倒を見にいっていた。

 母は専業主婦を想像したとして、私は無職かと思った読者の方もいるだろう。残念だが(?)違う。このころの私は夜勤をしていた。それで日中の時間が空いていたわけだ。


 面倒を見ていたとしたが、それはおこがましい話だった。主に見ているのは母で、私は母が一時的に兄夫婦の家を離れるときなどの補助的な役割であったに過ぎない。面倒を見ていたというよりも、その間一緒に遊んでいたという方が正しいだろう。


 そして、私は大体が母と入れ違いの形で早くに退散する。そう、仕事のために寝なければいけないのだから。

 たまに夜勤に対して「日中は遊んでいるのでしょう」などと言われることもあるが、そんなことはない。日中働いている人が夜に寝ているように、夜働いている人も日中に寝る。夜勤者が日中に遊んでいるのを見ることがあるとするなら、日勤者が夜に遊んでいるようなものだ。そう、無理をしている(本人たちはそう思っていないかもしれないが)わけだ。


 私は、無理をしない。


 そんなわけで、この日も甥くんたちの家を後にする時間がやってきた。

 甥くんや母と一緒にいた二階のリビングから出て、階段へと向かう。名残惜しそうに甥くんが付いてきた。


 すまない、甥くん。今日はここまでだ。


 私は甥くんを気にしながら階段を下りていく。

 甥くんが付いてこないか心配だったが、甥くんは階段の上で止まっている。どうやら、名残惜しかったのではなくて、見送りに来てくれただけらしい。


 何が今日はここまでだ。甥くんが一番分かっているじゃないか。でも、最後に母がいるリビングに戻る姿は確認しなければな。


 私は階段を下りながら、階段上の甥くんと「また明日」と言わんばかりに手を振り合う。そして——。



 一方、そのころ。


 母がリビングで、何やら兄と電話をしていたその時だった。


 ダダダダダダダダッッ!


 それは、いかにも階段を落ちた音のようだった。


「お、甥くんが落ちた?」


 個人の疑問であると同時に、電話越しに兄に伝える言葉でもあった。


 母が階段へと向かう。もしかしたら、甥くんのように小さかったころの私が、階段から落ちて意識不明になったことが頭を過っていたのかもしれない。

 電話の向こうの兄も、自分の子供に何があったのか気が気でなかっただろう。



 そして、母は見た。


 階段上から心配そうに階段下を見る幼い甥くんの姿と、階段下でのたうち回っているいい大人である私の姿を。


 そう、落ちたのは私だった。


 私が住んでいる家は直階段なのだが、甥くんたちの家は回り階段であったのが原因だろうか。甥くんを気にしながら歩いたこともあってか、曲がるところで足に力を入れるタイミングを間違えて、カクッとバランスを崩したようだった。


「落ちたのは、淳司(私)だ」


 母が電話で兄にそう告げると、兄は笑っていたらしい。


 安堵か、甥くんが無事である安堵ということでいいんだよな、兄よ。私の失態を笑っていたわけじゃないよな。あなたの弟、痛みでもがいているけど。片腕が擦り剥けまくって、見るも無惨なことになっているけれど。


 ……これが、階段から落ちたの話だ。



 そして、後から当然こう言われた。


「なんで、お前が落ちるんだよ!」


 その時に言い返したかどうかは定かでないが、今なら決め顔でこう言うだろう。


「落ちたのが私で、よかったじゃあないか」


 ……どちらかが落ちなければならなかったなんてことはなく、私が勝手に落ちただけである。


 今日も暑いなぁ(遠い目)。

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