第8話 説明
理性が戻ってきたのは榊原を喰い殺し、彼の下から這い出た後だった。
喰った虫が完全に胃に落ち、満腹中枢が刺激され、腹の虫がようやく落ち着いた。
新の身体もいつのまにか人間のそれに戻っていた。
「は、腹の……虫……?」
理性を失っただけで記憶を失ったわけではない。
本能のままに従った行動それ自体は新の脳裏に鮮明に焼き付いていた。
才に一連の行動の理由――新に『腹の虫』が寄生したから――という説明を受けたが、それだけでは理解も納得もできない。
新は自分の腹を摩ると、
「あの薬が……虫の卵だって?」
冷や汗を垂らしながら恐る恐る才に聞いた。
才と榊原の話からある程度の事情は読めた。
自分が飲んだ薬というのが虫の卵だったという事実。
それ以上にその虫による暴走。
まるで自分が自分じゃないかのような動き、思考、身体。
――そして満たされた時のあの
それら全てが腹の中にいる虫が原因で、自分の身体がその虫によって変えられてしまっている。
その感触があって何とも気持ちが落ち着かない。
詳しく聞かないことには整理がつかない。
いや、聞いたとしてもできないかもしれないが。
「察しが良いわね。その通りよ」
と才は冷静な表情でそう肯定する。
「新くんが誤って飲んだのは欲の虫の卵。
その卵が孵化した結果、新くんに寄生した。
大抵は寄生されたらその増幅された欲に耐えきれず死ぬんだけれど、運良く――それとも悪くかな――生き残る人間が一定数はいる。
そういう人を私たちは『摂取者』と呼んでいるわ。
腹の虫は、その名の通り、食欲を増幅させ人間を空腹状態にする虫。
本来ならご飯を食べて食欲を満たせば良いだけなのだけど、新くんは特別だった。
ご飯が食べられないのでしょう?」
才の発言に新は目を丸くする。才は当然、と言うように頷く。
「灰枝新。『灰枝家一家心中事件』の生き残り。
その事件以降、新くんはまともな食事ができなくなった。
公安に居れば嫌でも耳に入ってくる」
まさかこんなところで出会うとは思ってもみなかったけど、と才はため息を吐く。
「新くんの体質が原因で、『腹の虫』はエネルギーを摂取できない。
摂取できないからもっと食欲を増幅させるんだけれど、空腹状態は一向に解決しない。
だからもっと――というそういう悪循環を繰り返した結果、新くんは重度の飢餓状態になってしまったようね」
「…………」
「だけれど例外があった」
「欲の虫の卵……」
新は、正気を失い薬――今となっては虫の卵だが――を何粒も飲んでしまった昨夜のことを思い出した。
「欲の虫は案外カロリーが高いみたいね。
卵を飲んだ時、空腹は治ったんじゃないかしら?
結果、腹の虫は新くんが欲の虫しか食べないと学習した。
そして欲の虫を多く捕食するため、新くんの身体を変異させた。欲の虫の捕食に特化させた、ね」
(それが……あの姿……)
新は自身の両手を無意識に見つめた。
今は落ち着いているからか人間の姿のままであるが、あの時は本当に異形の姿をしていた。
人間に寄生する虫を捕食するには、確かにあれが一番適している姿なのかもしれない。
「俄かには信じられないけど、現実……なんですよね。
もし今日みたいに摂取者という方に出くわしたらまた変身するということですか?」
その質問に才は腕を組み無表情に新を見据えると、首を傾げる。
「正直わからない。
とにかく欲の虫が人間に及ぼす影響は未知数。
どんな風に変化するのかはその時にならないとわからないわ」
「じ、じゃあ次もどうなるかわからないってこと?」
「その通り。今日みたいな変化かもしれないしまた違った異形になるかもしれない。
けれど安心しなさい。
摂取者は基本的に榊原の属す組織――『アーク』にしかいない。
彼らに近づきさえしなければ、あの姿になることはないわ」
そんなことを言われても不安が募る一方だ。
組織の連中がどこにいるかなんてさっぱりだ。
榊原も見た目は普通のサラリーマン。
道端で会ったとしても、わからない。
それにもし仮にばったり遭遇してしまったら。
新が異形の姿になるのは避けられず、組織の人間に見つかってしまう。
榊原と同じように新を殺してくるはずだ。
いや、もしかしたら逆に新が暴走するかもしれない。
また人を殺してしまうかもしれない。
「……なんとかする方法はないんですか?」
「ないわね」
その即答に新は絶句する。
「寄生された時点でもう変化するのは避けられない。
摂取者だけに反応するだけでもまだマシと思いなさい。
普通だったら食事が出た時点で変化するのだから」
「け、けれど……」
未だ納得できずにいる新。
どうにかあの姿になるのを避けられないか、と言い淀んでいると、
「なら試してみる?」
と才は白衣の袖を捲った。
出てきたのは白い素肌。無意識に新の喉がゴクリと鳴った。
「あくまで可能性の話。運が良ければ、もしかしたら……ね」
どこかから出したナイフを手に取ると、才は腕にそのナイフを当て、腕を切った。
切れたところから血が噴き出してくる。
榊原の時よりも濃厚で芳醇な香りが新の鼻を刺激する。
腹の奥から本能が叫び、新は身体を捩った。
(クイタイ……クイタイ……)
「ど、どうして……?」
「気付いているんでしょう? 私も摂取者なの」
『グゥ―ッ!』
その瞬間、腹の虫が鳴き叫ぶ。
どうすることもできない苦しみ。
暴走するなと言い聞かせるが、新の爪は伸び、牙は生え、涎が大量に溢れてくる。
腹を抱えて苦しむ新を才は冷たく新を見下ろし、静かに口を開く。
「悪いとは思っているわ。けれど、あなたも摂取者。進化は避けられない」
「ガアアアァァァアア!!」
もう我慢ができない。
大きな口を開け新は本能のまま、才に襲い掛かろうとした。だが、
――パンッ!
すんでのところで、横からの発砲。
新の側頭部に銃弾が当たった。
腹の虫による強化のせいだろうか。
貫通はせず血は噴き出なかった。
だがその衝撃は脳を揺らし、新は吹き飛んだ。
「――摂取者はこの
最期に才がそう呟く声が聞こえ、新は意識を失った。
★★★
「――生きていたか」
新が気を失った直後、ひとりの男が拳銃を片手に倉庫内に入ってきた。
きっちりとした細身のスーツを着ているが鍛えられたとわかる体型だ。
「遅かったわね。榊原が来た直後にSOSを送ったはずだけど?」
「悪かったな。連絡が来た時にはもう死んでいると思ったぞ」
そうやって互いに憎まれ口を叩きつつ、男は倒れた新の前まで近づき銃を構えた。
「殺すか?」
だが、すぐに銃口の前に才の手のひらが出された。
「いいえ。殺すのはまだ。
彼はきっと私たちの役に立つはずよ」
「……目が覚めた瞬間に襲いかかってくるかもしれないぞ?」
「えぇ。でもそうなったらそうなったよ。
少なくとも彼が有益だとわかるまでは殺すのは保留にして頂戴」
「『して頂戴』って……仮にも俺はお前の上司だぞ?」
「お願い。兄さん」
その言葉を聞き、男は眉間に皺を寄せる。
だがすぐに銃のトリガーから手を離し上に上げた。
「はぁ。相変わらずわがままなやつだな。
わかったよ。連れて帰ろう」
「感謝するわ」
「勘違いするな。あくまで一時保留だ。
こいつの生殺は上の判断を仰いでからだ」
「それでもよ」
才が短くそう言うと、男は「ったく」とため息を吐く。
そして端末を取り出し連絡をするためにこの場を離れた。
上に掛け合い新を連れて帰るための調整をしているのだろう。
「それにしても……新くんが飲んだ
その間に才は新の顔を見ると、考えごとをするように眉間に皺を寄せた。
「あの中には下等な『欲の虫』しかいないと思っていたけれど」
そういうと灰枝新の処方箋の薬袋を見た。
「まさか三大欲求を司る三種の最強種のひとつ『腹の虫』が入っていたなんてね」
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