参 昭和四十二年

一粒種

 息子が、また家出をしたらしい。


 妻の話では、ランドセルを放り投げて遊んでいるのを叱ったところ、ヘソを曲げて家を出て行ってしまったとの事。


 仕事上がりで疲れた体を引きずりながら、俺は再び車に乗り込む。


 どうせ行き先は分かっている。黄泉小径だ。


 息子は拗ねると、何故かあのうすら気味が悪い場所へ逃避をする。


 もちろん、実際にあの竹藪の中に入っていく訳ではない。息子もその辺はわきまえていて、藪の入り口辺りでウロウロしたり座り込んだりするのみだ。あそこに関わる恐ろしい言い伝えは、あいつもよく知っている。万が一にも、あの中に入ったりはしないだろう。


「あー、やっぱりいたー」


 息子を見つけた俺は車から降り、大声で言った。


 どうやらやつの機嫌はまだ直っていない。あからさまに聞こえないふりをしている。


「弘一、帰るぞ」


 名前を呼ばれて肩が動く。どうせ無視は下手なんだからやらなきゃ良いのに、と思う。


 しばらく聞かん坊を通していた弘一だったが、腹が減ったのか、ほどなく帰ると言い出した。


 車の中で、息子と話す。


「家に戻ったら、母ちゃんにごめんなさいって言おうな」


「うん」


「あのランドセル、6年間使わないといけないんだから、もっと大事にしないといかんぞ」


「うん」


「……母ちゃんに何か言われたら『はい』な」


「うん……あ、ハイ」


 甘やかして育てた覚えはないのだが、一人っ子なのが良くないのか、非常に気ままな成長を見せている。


 ある意味男の子らしくて個人的には嫌いじゃないが、妻はかなり手を焼いていて頻繁に愚痴をもらす。


 確かに、もう少し聞き分けが良くなって欲しいのは本音だ。が、これがウチの子なのだから、あまり無理をせずに育てていこうと思っている。


 それにしても。

 何故、叱られて逃げ込む先が黄泉小径なのか、そこが気になる。


 今はまだ充分にこの時間でも日が高いから問題無いが、秋冬になって同じことをされると結構厄介だ。


 今のうちに、行くのをやめるように言っておこうか……と思いつつ、俺はそれを切り出せないでいた。


       *


「お疲れ様です」


「おう、お疲れ」


 一日の仕事を終え、工業用油にまみれたつなぎを更衣室で脱ぐ。


 隣では珍しく部門長がこの時間に着替えをしている。いつもは俺よりも1~2時間は残業していくのに。


「博君の息子も、やっぱり明日から夏休みか?」


 その部門長が、俺に声をかけてきた。ちなみに博(ヒロシ)と下の名前で呼ぶのは、ここの職場に鈴木姓が二人いるからだ。


「はい。明日からは一日中うるさくなります」


「小学生になったばかりだったな。まだ色々と大変なんじゃないか?」


「私よりも、妻が悲鳴をあげてます」


「ハハハ。そりゃそうだ。おっ母の方が間違いなく大変だな」


 部門長は朗々と笑うと、ロッカーを閉めた。


「じゃ、お疲れさん。気をつけて帰れよ」


「はい、お疲れ様です」


 手早く背広姿になった部門長は、颯爽とこの場を後にした。


「……さてと。帰るか」


 少し遅れて、スラックスとワイシャツに身を包んだ俺も更衣室を出る。


 ここから家まで、約1時間の道のりだ。


 山をひとつ越えるのだから、それくらいは仕方がない。


 俺は気合いを入れて、車の鍵を回した。

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