ドミノ

かまつち

ドミノ

 この日は雨が降っていました。ザーザーと音を立て、水が落下していました。空は真っ黒で、地表の我々に、陽の光を見せないようにするかのような、意地の悪さを感じさせる、とても質量というものを感じさせる暗雲が広がっていたのです。


 私はこの頃、自身の人生の立ち行かないところにうんざりし、また、気を重くしていたのです。自分の将来、そのことに対する不安を募らせ、晴れることのないそれに、焦りを感じていました。何か、このストレスを解消する方法を探していました。


 丁度良い時にと言うべきなのか、私の一番上の方の弟が、携帯電話で、酒を飲もうと誘ってきたのです。私はこれだと思い、すぐにその誘いを受けました。


 近頃は、どうにも、胸の重みが増していくばかりの日々で、辟易としていたので、縛りのようなものからやっと解放されるのだと思うと、少し嬉しく思い、身支度をして、この日の酒飲みの場となる店へ行きました。




 店に辿り着くまでの道中、生憎の天気に、心の中で嫌味を言いながら、傘をさして、時折、水溜まりを踏んで、ピシャ、ピシャという音を立てて、歩いて行きました。しかし、このような、雨に対する不満とは別に、これから、久々に弟と酒を飲めることに胸を躍らせていました。弟とは、酒が飲めるようになるまでは、関係が微妙だったのですが、成人してからは、よく一緒に酒を飲むようになったことで、仲が良かったのです。




 目的である店に着き、入り口の引き戸を動かして、中へ入りました。店へ入ると、店主が「いらっしゃい」と快活な声をかけてきた後に、私は先に弟が席を取っていると、携帯を通して教えてくれていたので、席をどうするか聞かれ、店主に先に席を取ってくれている人がいると言い、弟の姿を見つけようとしました。弟は座布団の敷かれた席にいて、こちらが弟を見つけた時、すでにこちらを向いていて、手を上げてきました。


 私は、そちらへ行き、靴を脱いで、座りました。この店は、何度かきたことのある居酒屋で、弟とも何度か来たことがありました。特に、変わった品物があるというわけも、特別美味しい物があるというわけでもありませんが、店の雰囲気が、言葉にしにくいのですが、そういったものに、馴染みやすさというものを感じていたので、ここら辺りの居酒屋では、私はここが一番好きでした。ひょっとすると、店主との、近すぎず、遠すぎずの関係が良かったのかもしれません。


 私と弟は、まず、メニュー表を見て、自分たちの、食べたいものを決め、店主にそれを注文しました。まず最初に、注文したビールが運ばれてきました。ビールには、液体の上に泡が立っており、炭酸が液体の中を、泳いでいるのが見え、また、ビールの入った瓶はとても冷えていて、最近の猛暑もあって、とても美味しそうで、今すぐにも飲んでしまいたくなりました。しかし、なんとかその衝動をこらえ、私は弟と乾杯をしたのです。


 弟とは、他愛もない話をしていました。例えば、最近起きた、事件のことや、私たちの地元に関してのことについて、また、親戚周りの話などをしたはずです。弟とのこのような会話は、酒の力ということもあったにはあったのでしょうが、やはり、私が持っていた、苦悩というものを、どうでも良いものと思わせてくれたり、または、忘れさせてくれたのです。




 ですが、唐突に弟はなんだか、深刻そうな顔をして、話を始めました。話の内容というのは、私にとっては嫌なもので、現在、私の心を苦しめている者のうちの一つに関することでありました。というのも、私は、一般的な社会人とは違い、安定した職という職に就いていなかったのです。


 実を言いますと、この時の私は、半年前ぐらいに、元々働かせてもらっていた企業に解雇されていたのです。会社から解雇通知を与えられたのは、突然のことで、予算削減を理由とした、大規模なリストラに、巻き込まれたのです。私は会社を辞めさせられてからは、アルバイトを始め、正規雇用のために、再就職するということは一度もなかったのです。


 そのことに関して、弟から、正規雇用を求めた方が良いという旨の、話を告げられたのです。


 私は、言葉を濁しました。というのも、私は元々働いていた企業の、あのリストラを私を含める、社員たちへの裏切りと捉えており、トラウマとなっていたのです。


 このようなトラウマのために、私は再び、別の会社で働くことに抵抗を感じ、今の、アルバイトとして生きることで、妥協しようとしていたのです。


 それからの、弟の会話は、私にとって、とても窮屈なものに感じました。私から話を始めるということは、もはやなくなり、ただ、私は弟の言葉に対して、適当に返事をするようになっていました。


 弟が先ほどの話と全く関係ないことを話している時でさえ、彼が、会話のどこかで再び、その話を始めるのではないかと思いました。とても楽しかった、会話というものが、窮屈なものに感じました。その上、酒の肴を食べても、酒を飲んでも、その窮屈さというのはなくならなかったのです。


 私は、弟が次には、私に再び、あの話をするのではないか、もしくはもう少し後にでも、するのではないかと、怯えていました。心臓の鼓動は少し速くなり、胸は、あの、ギュウと、ゆっくりと少しづつ、締め付けられていくような、苦しみを感じていました。そして、私の動きは少しぎこちなくなりました。しかし、なんとかこれらの感情を、私が隠そうとしたからか、弟は、多少の違和感を感じつつも、私の様子の変化に気づいていないようでした。




 いくらか時間が経ってきた頃の時です。私は弟の話を少しオドオドとした感じで聞いていたように思います。話を聞きながら、心を落ち着かせるために、酒に手を伸ばした時のことです。ついうっかりと、手を滑らせて、瓶を倒してしまったのです。瓶の横側に手の甲が触れ、カラン、カランと、瓶は音を、響かせたのです。


 不幸中の幸いというべきか、瓶は割れませんでしたが、中身が漏れ出てしまいました。店主とは別の店員がタオルを持ってきて、その、こぼした跡を拭いていきました。


 私は、何度も、謝りました。恥という恥を感じながらも、謝りました。自分が泣き出してしまわないか、心配な程、気持ちは沈んでいきました。


 店員が去っていった後、弟は苦笑いしながらも、私に、そんな時もあるさと言いました。しかし、その言葉は、あまり、慰めにはならなかったのです。


 これでは、いけないと、私は気を取り直して、再び、弟との会話を始めました。しかし、先ほどのことが、頭から離れず、私は再び、瓶を倒してしまわないか、心配でした。ぎこちなかった動きは、さらに度を増していきました。


 そして、次に、箸を落としてしまうまでに、時間はかかりませんでした。もう一度、店員の力を借りることに、躊躇いがあった私は、箸を何事もなかったように、使おうとしたのですが、箸を落とした音を聞いたのか、店員がやって来て、箸を取り替えていきました。


 店員は、一度目の時も、二度目の時も、笑顔で、優しく、親切に、対応してくれました。しかし、その優しさが、かえって、私の心を抉っていったのでした。


 私が、この店に、感じていた、安らぎというものは、とうになくなり、私は、一刻もこの店から出たいということを、考えていました。また、弟の話すことに対する、恐れというものも、どんどん強くなっていき、私はただ、時間の過ぎていくのを、待っていたのでした。


 弟が、満足して、会計をしようと言った時、私は、すぐに同意して、店員に会計をしてもらい、店主と店員に、ご馳走様を言い、店を出ました。


 店を出てすぐ、弟とも別れ、ただ、私は、家への道を、早歩きで、そそくさと、傘をさしながら、歩いていきました。


 帰り道の光景は、全てが全て、真夜中の曇りということも相まってか、色褪せたように見え、ただ、私の耳には、雨がザーザーと激しく降り、傘に水が、ガラガラと当たり、水溜まりを、バチャバチャと鳴らす音が、響くのみでした。

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ドミノ かまつち @Awolf

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