第17話
龍ヶ崎市駅に着いた。目的地であり、僕の実家からの最寄り駅だ。ねこと手を繋いで電車を降りる。乗り降りする人は僕とねこを含めて5人ほどしかいない。都内の混み具合に慣れると、土日であっても「少ないな、空いてるな」と思うくらいの人口密度なのだ。平日の昼間ともなれば、こんなモノだろう。
「おなか空いてない?」僕はねこに訊ねた。
「ちょっと」
「コンビニのイートインか、ファストフードくらいしかないけど。あと居酒屋か」
「ファストフードでいいよ」
「マクドとナルド、どっちがいい?」
「つまんない」薪を割るような勢いでねこは言い放った。
ねこのセンスはずれてるから――僕は心のなかで呟く。これを世間では自己正当化という。
僕たちはハンバーガー・ショップに入り、注文カウンターに向かった。夕方は学生たちで混み合うのだが、昼間なので待ち時間はなく注文を取ってもらうことができた。店内の客も片手で数えられるほどしかいない。
僕はチーズバーガーとフィッシュ・フライバーガーを頼み、ねこはチキン・フライのバーガーと2段積みのハンバーガーを注文した。彼女は見た目の割にけっこう食べるのだ。あるいは「いっぱい食べると大きくなる」というのを24歳になった今でも強く信じているのかもしれない。それはともかく、彼女がジャンガリアンハムスターみたいに口いっぱいに食べモノを詰めこんでもりもり食べているところを見てると僕は幸せな気分になれる。それはたぶん、食事中のねこが幸福そのモノといった表情を見せてくれるからだろう。幸福とは人に伝播するモノなのだ。フライドポテト・Lサイズをひとつ注文し、それはふたりで分け合うことにした。
「この駅はね、僕が学生の頃、駅名が違ったんだよ」コーラをストローで吸いこみながら僕は言った。
「ふうん?」ねこは野菜ジュースを飲みながら相槌を打つ。彼女はファストフード店で炭酸飲料も珈琲も頼まない稀有な人種なのだ。ストローの先を噛みながら「なんて名前だったの?」と訊いてくる。
「前は佐貫って名前だったよ」
「サヌキ? あのうどんの?」
「ううん、それは四国でしょ。また違うところ」
「それが、変わっちゃったんだ」
「うん、僕としては前の名前の方が愛着があったんだけど」
「ふうん」ほとんど興味なさげにねこは言った。「好きなんだね、地元が」
僕が何か言葉を発する前に「ソフトクリーム買ってくる」と彼女は席を立った。
僕は今、どんな顔をしているのだろう。おそらく目尻は下がり、口角はいささか上がっているはずだ。そしてねこが言ったことは正しい。僕はこの町が好きだ。好きで、とても居心地がいい。人も空気も都内へのアクセスのよさも思い出のたつのこ山もすべてが僕の心にフィットしている。だから、僕は東京に出たのだ。遠い街で暮らしたら、違う僕に出逢える気がして。居心地のよさが、そこに甘えて駄目になっていくかもしれない自分の未来がこわくなって。けれど当時の僕の選択が正しかったかどうか、それはよくわからない。東京でひとり暮らしをはじめてから8年が経った今も僕はあの頃と変わらないままだからだ。臆病で、愚かなままの僕。何ひとつ成長もできないまま、居心地のいい場所にのこのこと足を踏み入れた僕はどんなにだらしのない顔をしているだろう。大きな窓からバス停が見える。少ない人通り。もしもそこにある景色が海であったなら、僕はきっと泣き出していただろう。
ねこがソフトクリームを食べている間、僕は店内を眺め回していた。彼女はそれこそ神経質なロシアンブルーがミルク皿を舐めるようなソフトクリームの食べ方をするからちょっとした時間を要する。モチロンその姿を凝視している手もあるのだけれど、それはねこが嫌がるので遠慮しておく。
僕の視線の先には主婦と思しき30歳ばかりの女性がふたり座っていた。片方の女性のすぐ脇にはベビーカーが置かれている。角度の問題に依ってそのなかは見えないが、冬眠前の雪兎みたいな顔をした赤子が寝ているはずだ。赤子にはおそらく幼稚園か保育園に通う兄が姉がいて、その子と同じクラスにベビーカーを置いていない方の女性の息子か娘がいるのだろう。僕たちが座る席からはいささかの距離があるので会話の内容は聞こえないが彼女たちの表情から察するに何かの――しかし決して深刻ではない――愚痴を言い合っているのだとわかる。「今度のお遊戯会のために旦那が10万もするビデオカメラ買っちゃって」とか「水泳とピアノのお稽古代が上がったから最近牛肉を食べられなくなった」とか言っているのだろう。あるいは「いらないって言ってるのにお義母さん、ダンボールいっぱいに柿送ってきちゃったのよ」とかかもしれない。いずれにせよ、彼女たちはとても幸せそうに見えた。
コーンを齧りはじめたねこに視線を向ける。
おそらく、あの女性たちにもねこのような時代があったに違いない。真剣に夢を追いかけ、あるいは破れ、さまざまな紆余曲折を経て今があるのだろう。そしてそれはつまり、ねこにだって彼女たちのようになる未来が10年足らずの間にあり得るということだ。その時にねこは彼女たちのように幸せそうな表情を浮かべていられるのだろうか?
「どっちが好みなの?」あからさまに憤りをこめた声でねこは言った。ソフトクリームのコーンを包んでいた紙を聞こえよがしにくしゃっ! と握りしめる。件の激しい嫉妬心が「13日の金曜日」に出てくるジェイソンみたいに殺意を以て顔を覗かせてきたのだ。
「あのさ」その3文字にありったけの抗議の思いをこめて僕は言った。「君が『じろじろ見られてると食べにくい』って言ったんじゃないか。このトレイにある『新鮮野菜の秘密』っていうのも2年前から変わっていないから見飽きちゃってるんだよ」
「……」沈黙。
「……ねこ?」
「そんなことより」と彼女は言う。そんなことより? 「一昨日送ったやつ、聴いた?」
僕はもうひとつ納得のいかないまま肯いた。
一昨日、ねこから音声ファイルが送られてきた。モチロン彼女が作った新曲だ。本人には伝えていないけれど、その曲は彼女の作品の「数少ない例外」に分類されると思った。つまり特有の難解さや風刺性は鳴りを潜めていたのだ。そして今日、彼女を誘ったのも、実はその曲を聴いたからである。
歌詞は次の通りだった。
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