どこから見ても、愛らしい

彩月あいす

プロローグ


 勇敢さの不足のせいで、あるいはタイミングを失したせいで、またあるいは希望を諦めきれないせいで。自分のなかで澱のように溜まっていった言葉たち。それらを丁寧に、ある時には乱暴に、またある時はふざけ倒して――いずれにせよ意志を以てノートや原稿用紙、ノートパソコンに書き連ねることで心が回復すると気づいたのは2013年の夏、つまりは僕が高校2年生だった時のことだ。


 そのことに気づいた僕は、所謂日記というモノをつけはじめた。いや、あれが正確に日記と呼べるシロモノだったのかはわからない。その日の日付と天気ははじめに記していた――そして書くのは専ら夜が多かった――けれど、特に「今日は何をした」、「こんなイベントがあった」というような記録をしていたわけではなかったからだ。ただ来る日も来る日も何かに取り憑かれたかのように思いつくまま言葉を並べていただけだった。具体的に何が起きたのかは問題ではなく、心の在りようを立ちあげるという営為が僕にとっては必要だった。そういった意味合いにおいても当時の綴りは回復に向けた治癒の試みそのモノである。刀傷を負った患者が運ばれてくれば外科医は傷口の状態をよく観察し、消毒をしてから縫い合わせる。誰に、何を用いて負わされた傷なのかというのは治療を行う者にとってたいした問題ではない。時折その痕の経過を見て「大変だったね」と労うくらいのものだ。そんな僕の凶器も動機もわからなくなった文章、それを殴り書かれたノートは、ただの愚痴や過剰な自意識の詰まったモノと言われるかもしれない。美しい言い方をするのなら独白であるとかエッセイであるとかそういう言い方をするのかもしれない。しかし、なんでもない、どこに辿り着きようもないただの言葉の羅列でしかなかったから、その集積の名前だってどうでもいいような気もする。世間には名前も使い途もよくわからないけれど、たしかに存在しているモノというのが無数にあるのだ。2015年の夏にその習慣はやめてしまったが、その2年あまりの間に12冊のノートを僕は書き潰した。しかしそれらはぜんぶ同じ年、師走の晦の大掃除の際に棄ててしまった。いとも容易く、僕のどこにも行けない言葉たちは文字通り灰燼に帰したわけだ。


 ともあれ。


 何かに急き立てられるように書き殴りはじめて10年が経ち、またそれをやめてから8年が経った今、僕は26歳になった。僕のなかにはやはり、言葉が溜まっている。吐き出したい言葉、吐き出さないわけにはいかない言葉、吐き出されるのを今かと待っている言葉。それらは僕のなかに日々産まれ、躊躇したり駆けずり回ったり成長したりしている。まるで僕という生命がひとつの国家であり、言葉たちは旅に出ようとしている――あるいは旅に出ることを余儀なくされている――人たちみたいだ。そのように国外に出た者と国外から来る者と双方が存在していることに依って目に見えないスピードで、しかし確実に国家とは反映していく。隔絶された国とは廃れていくのが世の常なのだ。おそらくは人間もまたそうであると僕は信じているし、どこかの文献にそう記してあってもおかしくはないはずである。


 だから今、僕は綴ろうと思う。


 やはりあくまでも純粋で個人的な回復行為として、言葉を連ねようと思う。もしもかつてのノートと見較べることができたなら、なんらかの進歩や進化――少なくともいささかの変化は見出せるのかもしれない。しかしそれは叶わない。失ったモノの必要性とはいつも取り返しがつかなくなってから気づく。そういうモノだ。


 言葉とはつまり、心の動きが翻訳されたカタチのひとつにすぎない。何の取り柄もない中肉中背青年の心なんぞに興味はない――そう思われる方も数多おられるであろうし、そういった方は重力加速度の参考書か通販のカタログでも開いていた方がよほど賢明である。それでなくても綴っている本人にさえ、何の意味があるのか、どこに向かうのか、またこれがどういった種類の文章と定義されるのかさえもわかっていないのだ。


 でも、と僕は思う。


 こんな僕の心、言葉たちが描く放物線。それを辿っていった先にいささかばかりでも何かの教訓が見つけられるのなら嬉しい。誰彼構わず、自分なりの意味をくっつけてくれたのなら、それに勝る歓びはなかろう。僕はそういう類の種を蒔きたい。そしてささやかに、水を撒きたいと思うのだ。

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