ヒポクラテスに誓って俺はお前を好きじゃない

第1話



 真っ白い床、真っ白い天井、清潔な蛍光灯。バリアフリーの床は誰にでも歩きやすい。この巨大な大学病院で、知り合いとすれ違ったところでせいぜい軽い会釈をするくらいだ。同級生、先輩に後輩、いるっちゃいるけどそんなん数えてたらキリがねえだろ。

 正面から歩いてくる人影を認めて、俺は歩みを止めた。抱えているパンとペットボトルを落としそうになって屈んだ。その拍子に胸ポケットからPHSが落ち、カタン、と大きな音が響く。

――やべ。

 そいつの注目を浴びたくないと思っていたからだ。ちらっと視線だけ向けると、彼はやっぱり俺を見つけて歩みを止めていた。

「……華岡?」

 めんどくせえ。落とした色んなものを抱え直しながら、俺はそいつを正面から見据えた。

「よお。元気か」

「ああ、元気だとも。君こそ、今日もシケたツラして麗しいじゃないか」

「うるせえよ」

 ぶっ殺すぞ、と言いかけて大人としてそういう言葉はどうなのかと口をつぐんだ。冗談を交わし終えて、その男は「水臭いじゃないか」と俺の肩を叩いた。

「ねえ、また話そうよ。ああ、今週末空いてる? 僕空いてる」

「空いてるけどオンコール」

「誰かに代わってもらいな。はい、ぐるナビで予約完了」

「お、おい……!」

 悪友に絡まれるとこうなる。

 四月、勤務先が大学になって、大学病院へ戻ってきてから、この男藤瀬も勤務していることを知った。

 嫌いなわけじゃない。良いやつだし、大切な友人だ。

 でも俺、もういい歳なんだ。青春時代の沼からは足を洗わなきゃいけない。だから藤瀬と関わって、思い出に浸ることが怖かったのだ。



 俺たちが大学3回生だった時のことだ。

「なあ華岡」

「あ?」

 我ながら物騒な声が出た。タバコ臭い。クラブボックスの中で吸うなっつってんだろこのボケが。

「この試験が終わったら……抱かせてやるよ」

「あ?」

 暑さで藤瀬のやつ頭おかしくなったんか。言ったきり虚空を見つめる藤瀬を見捨て、俺はシケタイ資料に向き直った。

 もう八月も末。夕立の気配のせいで日が翳る。雨が吹き込んではたまらないと。あーあ、立ち上がるのもめんどくせえよ。



 話は、俺たちが学生だった頃から始めなきゃいけない。

 大学生の頭ン中は、単位のことや将来のことなんかより、恋愛とかバイトとか金とかギャンブルとか風俗とか、そういう石っころみたいなものが詰まっている。ところが俺ときたらどうだ、空虚さは深海のごとく。「何者にもなれない」と半ば突きつけられ、乾いた笑みを浮かべている。

 それに比べてこいつは、なーんにも考えてねえくせに幸せそうなんだよな。

 学年は100人くらいいるはずなのに、教室にいるのは20人かそこらだった。俺は階段教室の前から三列目に座っている。スマホを触りたいけど触れない、だけどサボろうと思えば内職もできる微妙な場所だ。

『代筆お願い』

「またかよ……」

 スマホに届いたメッセージに俺は秒でスタンプを返した。藤瀬だった。

『お前は学校に来い』

 送ったらスタンプがまた帰ってきた。うさぎが屁をこいてるスタンプだった。続けてうんこが送られてくる。そして物凄い勢いで爆撃が始まった。

『代筆止めるぞ』

『これどうぞ http://云々』

「げ……」

 サムネイルがエッチな動画だ。お礼のつもりかよ。

「じゃあ今日はこれで」

 スライドが最終ページになり、今日のまとめが示される。回されてきた出席用紙を数枚取った。何を隠そう、俺は合計4人から出席の代筆を頼まれている。人望が厚いので。

 藤瀬晶

 アイツの名前を書き込んで、提出しておしまい。

『出しといたぞ』

『あんがと』

『プリントいるか?』

『いらない』

 いらんのかい。

 勤勉な俺とは違って、藤瀬はわかりやすく怠惰な学生だ。学校には来ず、バイトに明け暮れているかと思えば実家は開業医で億単位の年収があるため金には困っておらず、そして勉強するわけでもないので試験には落ちまくる。


 医学部の授業は全てが必修科目だ。したがって、一科目でも落とせば留年する。藤瀬は二回生になる時全ての科目を落とし追試を受けまくった。一回目の追試を落とし、追追試へ。二回目すらおち、そして通称ファイナルと呼ばれる最終試験へコマを進めた。学年の皆が固唾を飲んで見守る中、掲示板に発表された成績。可か、不可か。いや良も優も期待してないから。

『…………!!!!』

『どうなんだ』

 藤瀬は振り返ってブイサインを作った。

『進級です♡』

 歓声が上がった。


 そんなことも、ありました。結局それでも藤瀬は心を入れ替えることなく、むしろ余計に授業をナメるようになった。数々の悪行と怠惰に比して、幸運が彼に訪れるのは、よほどの徳を前世で積んでいるのだろう。ちょっとだけ羨ましいと思うが、アイツに女がいないことで溜飲を下げた。

 代筆してる俺がいるからお前は進級できるんだぞ。そう思うが、藤瀬は俺がいなくなっても俺以外の誰かに代筆を頼むのだろう。そのことが少し、悔しかった。

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