2−2

 志穂は明け方まで寝付くことができず、三〇分ほどうつらうつらしただけだった。頭の中の霧は晴れず、薄ぼんやりした意識のまま制服に着替えて食卓に着いた。


「志穂、具合でも悪いの?」

 生気のない志穂の顔を見て心配した母親が訊いてくる。いじめを受けている子供は親にそのことを言い出せず、一人で抱え込んでしまうと聞いたことがある。両親との関係は良好だと自信を持って言える志穂には理解のできないことだった。自分だったらすぐに親に相談して助けてもらうだろうと思っていた。

 しかし実際にこのような境遇になってみると、抱え込んでしまう子供の気持ちがよく分かった。親に心配かけたくないという気持ちもあるが、それよりも自分がいじめを受けるような駄目で弱い人間だと自分で認めたくないのだ。


「宿題が難しくて、あれこれ調べてたら寝るのが遅くなっちゃった」

 ほとんど頭が働いていないというのに、こういうとき何故か言い訳のでまかせはスラスラと出てくるものだ。

「そう。ならいいけど。早く食べないと遅刻しますよ」

 志穂は無理矢理トーストを口に押し込んで、喉の奥に牛乳で流し込んだ。


        * * *


 学校までのいつもの通学路がやけに長く感じられる。足取りも重い。できれば休みたい。しかし気軽にズル休みできるほど志穂はオトナではなかった。学校が近づくにつれて周りを歩く人間は郷庄南中学の生徒ばかりになってくる。そのうち志穂のクラスメイトにも会うだろう。どんな顔して話せばいいのか。知らない振りをして今までと変わらないように振る舞うのが一番よいのだろうと思うが、志穂にそんなことが出来るのだろうか……


 そんなことをぼんやりした頭で途切れ途切れに考えていたら、いきなり背中を強くはたかれた。


「志穂! なんで無視するの?」

 志穂が振り向くと、小学生のときから一番仲の良い凛が怖い顔をして立っていた。

「無視……?」

「さっきから名前呼んでたのに、全然無視だったじゃん」

「……そう、呼んでたの……ごめんね、全然気づかなかった」

「嘘! あんなに大きな声で呼んでたのに」

「……考え事してて……」

「なんだか元気ないね。暗い顔して。困ったこと?」


 凛はあのサイトのこと知っているのだろうか? 凛まで志穂の悪口書き込んでいるとは思いたくない。

「凛、ウチのクラスの学級サイトがあるのって知ってる?」

 志穂は凛の表情を注意深く観察する。

「学級サイト? 知らない。そんなものがあるの? クラスのお知らせとか載せるんでしょ?」

「掲示板だけみたいなんだけど。誰かに聞いたような気がするの。誰からだったか思い出せないんだけど」

「志穂はそのサイト見たの?」

 志穂は一瞬言葉に詰まったが、悟られないように平静を装う。

「見たことないよ。勘違いかな」

「アタシも全く聞いたことないから多分ね。あったとしても内輪の何人かでやってるだけなんじゃないの?」

「やっぱり、そうだよね」


 表情を見ている限り凛が嘘をついているようには思えなかった。何かを隠しているようにも見えない。「嘘ついてるんじゃないの?」としつこく追求するのも変だ。なにより、実は凛も学級サイトを使って志穂の悪口を書き込んでいるなどと告白でもされようものなら、とても立ち直れそうにない。それが怖くてそれ以上追求することができなかった。大丈夫。凛がそんなことするはずがない。志穂は自分にそう言い聞かせた。


        * * *


「宮本、おはよお」

 教室に入って自分の席に着いたら、隣の席の坂上がいつものように朝の挨拶をしてきた。志穂に対して悪意を持っているようには見えない。しかしクラスメイトのほとんどが掲示板に書き込みしていて、そのうちの少なからぬ数のアカウントが志穂の悪口を書き込んでいるのだから、坂上が悪口を書き込んでいる可能性だって低くはない。のどかな顔の下に不審なものが現れていないか探ろうと、志穂は坂上の顔を凝視してしまう。

「そんな睨みつけてどうしたんだよ? 俺の顔に何か付いてるか?」

 坂上に言われて首を振る。

「ごめん……なんでもない」

 やはり見ただけでは誰が志穂の悪口を書き込んでいるかなど判りそうにない。そうなるとクラスメイト全員を疑わざるを得ない。そう思って教室を見回すと、誰もが志穂に対して悪意を隠しているように見えてくる。志穂が見ている前ではなんでもないような顔をして、志穂の視線が外れた途端にみんな嘲笑の目を志穂の背中に投げるのだ。知らなければ平気でいられたのに。


 いったんは坂上との会話を打ち切った志穂だったが、こみ上げる疑念を抑えられずに思い切って訊いてみることにした。

「ねえ、坂上はやっぱり文化祭でメイド喫茶やりたかった?」

「別に。高校とか大学ならまだしも、中学でメイド喫茶は無理だろ、たぶん」

「そっか、そうだよね」

 ほんの少しだけ心が軽くなった気がする。坂上は悪口を書き込んだりしていない。志穂はそう思うことにした。


        * * *


 午前中の授業が全部終わり昼休みになった。昨日となにも変わらないはずなのに、志穂の目に映る光景は全く違うものになってしまった。匿名の悪意に取り囲まれていることを意識せずにはいられない。

 今だって凛を含むいつものメンバーで机を寄せ合って給食を食べているが、この中にも悪口を書き込んだ子がいるかもしれない。表面では仲良しの顔をしているが、裏では舌を出しているかもしれないのだ。もう誰のことも無邪気に友だちだなんて思えなくなってしまった。


 食べることに集中して会話は聞き流すようにしていたので、給食はなんとかみんなと済ませることができた。しかし昼休みの間ずっと、悪意を抱いているかもしれない人間と会話を楽しむなんてできそうもない。志穂は具合が悪いからと言って保健室に逃げることにした。実際、顔色も悪く朝から明らかに元気のない様子の志穂だったので、凛たちに疑われることなく教室を脱出することができた。


 昼休みの保健室に保健師の御園先生は不在だった。その代わりスクールカウンセラーの真帆先生が一人で給食を食べていた。

「具合が悪いの? お昼休みが終わったら御園先生戻るから。しんどかったらベッドで寝てて」

 保健室の引き戸を開けて覗き込んだ志穂を見て真帆先生が声をかけてくれた。

「先生ひとり?」

「うん。職員室だと落ち着かなくてね」

 真帆先生はペロッと舌を出した。

「スクールカウンセラーは正規の教員じゃないから職員室にいづらいんだ」

 生徒にそんなこと聞かせるのは如何なものかと思うが、そういうところがこっち側の人間なんだと感じさせるのだろう。生徒には人気があった。志穂の周りにも、なにかあっても親や先生に相談する気にはならないけど真帆先生は別、という子は多かった。


 これまで志穂は特に真帆先生を意識したことはなかったが、真帆先生になら今の状況について相談してもいいと思えた。

「先生、聞いて欲しいことがあるの」

「私に?」

「はい」

「分かった。これ急いで食べちゃうから少しだけ待ってね」

 そう言い終わらないうちに真帆先生は大口開けて皿の上の給食をかきこみ始めた。真帆先生、綺麗なのにお嫁に行けないわけだ。


「まずはクラスと名前を教えてね」

「二年B組の宮本志穂です」

「宮本さん。話したいことはどんなこと?」

「あの……」

 いざとなると話すことに抵抗感が出てきた。やっぱり自分の恥をさらすような感じがしてしまう。そのまま俯いてしまった志穂のことを、真帆先生は急かしたりせずに黙って見つめている。気まずくて顔を上げた志穂の目が真帆先生の目と合った。真帆先生がゆっくり頷いた。


「ネットいじめ……」

 真帆先生は黙って志穂の次の言葉を待っている。

「クラスの掲示板があるんです」

「掲示板て、ネットに?」

「はい。ボク……わたし最近までそんな掲示板のこと知らなくて」

 真帆先生が志穂の話を遮った。

「宮本さんはボクっ娘なんだね。無理にわたしって言わなくていいよ。一人称は大事なアイデンティティだからね」

「ありかとう。そんなこと言ってくれる先生いないから……それでボク、全然知らなくて。誰も教えてくれなかったから」

「誰も教えてくれなかったっていうことは、クラスの他の子たちはみんな知ってたの?」

「みんなかどうか分からないけど、二〇人くらい書き込みしてるアカウントがあったから、クラスのほとんどの子が知ってるんだと思う」

「それでアナタはクラスで仲間外れにされたと思ったのね?」

 志穂は頷いた。

「学校でも仲間外れにされたりいじめられたりしてるの?」

 今度は首を横に振る。

「学校ではみんな普通に話します。仲の良い子も何人かいます。いじめられたりもしていません」

「掲示板のことを知らせてもらえなかったにせよ、はっきりと仲間外れにされたり、いじめられたりはしていない。でも私に話すくらいだから、それだけじゃないんでしょ?」

 志穂は黙って頷いた。やっぱり自分がいじめに遭っていると認めるのは抵抗がある。それでもここまで話したのだ。今更なんでもありませんと言ったからって、真帆先生がすんなり引き下がるとは思えない。引き下がって欲しくない。


「掲示板にボクの悪口がいっぱい書き込まれてるんです。他の子の悪口なんて一個も無いのに」

「アナタが悪いわけじゃないから原因とは言わないけど、きっかけになったようなことに心当たりはあるの?」

「文化祭の出し物、メイド喫茶にしたいって子がたくさんいたんだけど、ボクが田代先生に言って環境破壊に関する展示に変えてもらったんです。その前から悪口の書き込みはあったから、それだけじゃないとは思いますけど」

「ああ、田代先生言ってた。生徒がメイド喫茶やりたいって言い出して困ったって。自分が強権で潰すのもよくないしって思ってたら、生徒の一人が環境破壊に関する展示にしましょうと言ってくれたから助かったって。もしそれがきっかけなら完全に的外れね。アナタが言わなくてもメイド喫茶はないから」

「田代先生、そんなこと言ってたんですか? そうなんだ……」

 志穂は少し嬉しくなった。

「でもそのことでアナタが嫌な目に遭ってるんだったら田代先生からみんなにちゃんと説明してもらうか……いや、たぶん逆効果ね。オトナが頭ごなしに言っても反発するだけでしょうから。宮本さん、田代先生に言ったほうがよければそうするけど」

「言わないでください」

「そうだよね。ああ、でも誤解しないでね。いじめを受けていることは決してカッコ悪いことじゃないから。引け目に感じることないよ」

 真帆先生には志穂の気持ちが筒抜けみたいだ。


「なんにしても書き込みを確認しないとね。問題のサイトは開ける?」

「はい」

 志穂はスカートのポケットに突っ込んでおいたスマホを引っ張り出した。電源を入れ、ブラウザを立ち上げて閲覧履歴を表示させた。

「あれ? 履歴が出てこない。間違って消しちゃったのかな? 違うな。他の履歴は残ってるもん」

 志穂は検索ウィンドウに『郷庄南中学校二年B組の部屋』と打ち込んでタップした。

 頭に表示されたのは郷庄南中学校の公式ホームページだった。それに続いて市役所からのお知らせや、卒業生の同窓会サイトなどが続く。延々とスクロールしていっても二年B組の学級サイトは出てこなかった。


「先生! 嘘じゃないの! 本当に昨日はあったの! ボク見たんだ!」

「落ち着いて。大丈夫、アナタのこと嘘つきだなんて思ってないから。サイト名が違ってるとか、サイトが消されたとか、なにか理由があるんだよ。現物が見られない状態じゃ何ともしようがないけど、学校で直接いじめられるようになったとか、サイトが復活したとか、何かあったら……ううん、何にもなくても、単に気分が落ち込むとかでもいいから、いつでも私のところへ来て。今日はこの後の授業、受けられる? 帰るなら私から他の先生に伝えておくよ」


 志穂はもう午後の授業を受ける気力はなかった。後は真帆先生がうまくやってくれるだろう。志穂はカバンを取りに教室に寄り、心配げに近づいてきた凛に早退すると告げて教室を出た。

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