第15話 私の匂い
二十一時。
バイトを終え、菜乃花と共に店を出た。
冬でしかも日が完全に沈んだ夜。防寒具を着込んでもとても寒い。
繋がれた手は、凍えるほど冷たいけど、でもどこか温かい。
「あの、菜乃花?」
「ん?」
「その……飛鳥さんに変なこと言われなかった?」
「ううん、特に言われなかったよ」
「そう……。なんか悩んでるように見えたんだけど……」
俺がそう言うと、菜乃花は立ち止まって、真ん丸な目をして俺のことを見つめた。
「やっぱりなにか悩み?」
「玲くんは私のことなんでも気づいちゃうね」
「……聞いてもいいやつ?」
「んーとね、これからどーしよーかなぁって」
「……? どういう意味?」
「私たちの関係って普通じゃないでしょ? だからちゃんとしたいの」
俺たちの関係。言わずもがな、歪だ。寝取らせによって一夜だけ結ばれたクラスメイト。
その関係をちゃんとする。
それが示すことはつまり……俺たちの関係もここまで、ということか。
仕方ない。彼女には彼氏がいて、そもそも俺たちは交わるはずかなかったんだから。
仕方ない。仕方ない……。そういい聞かせても、この手の温もりを手放したくないと心が叫ぶ。
「菜乃花、俺は──」
俺はそれでも菜乃花と一緒にいたい。そんな身勝手な願いを言いきる前に、菜乃花が口を開いた。
「私、穣くんと別れる」
「へ……?」
「穣くんと別れて、私と玲くんのこの歪な関係を終わりにする。そして玲くんの好意に真っ直ぐ向き合えたと、そう心から思えたときに、改めて玲くんに伝えるの。私の気持ちを」
「菜乃花の、気持ち……?」
「うん。まだもう少し時間がかかると思うけど、そのときまで待っててくれる……? そのときまで私のこと、好きでいてくれる……?」
「……うん、待つよ。いつまででも」
「ありがと。玲くんならそういってくれると思ってた」
しばらく歩くと見えてきたのは俺の家。
「そういえば、菜乃花。借りてた服取ってきていい? ちょうどいいし、今返すよ」
「……私もついていっていい?」
「家に? 狭いし、特になにもないけど」
「うん。もっと、玲くんのこと知りたいから」
こういうことを面と向かって言われると、なんというか、すごく照れる。
菜乃花を家にいれる件については、特に断る理由もないので、頷いて了承。玄関に招く。
「すごいっ。玲くんの匂いがする!」
リビングに入って第一声。菜乃花は深呼吸するように大きく息を吸い込んで、そう言葉を発した。
「なんかはずい」
「え~、でもいい匂いだよ。私、玲くんの匂い好きだなぁ。すごく落ち着くの」
臭いと言われるよりも百億倍ましだけど、それはそうとめっちゃはずい。それに反応に困る。
俺は、とりあえず明日学校に行くときに忘れないように分かりやすいところに置いていた、菜乃花に借りた服の入った紙袋を手に取った。
「ねえねえ、玲くん知ってる? 匂いの相性がいいと、恋愛の相性もいいんだって。玲くんは私の匂いはお好き?」
玄関へと戻る廊下を歩いてる最中、菜乃花が上目遣いでそう尋ねてきた。
匂いの相性の話は俺もどこかで聞いたことがある。あまり覚えてないけど、遺伝子がどうのこうのとか、そういった話だった気がする。
菜乃花の匂い。
オレンジのような、爽やかな匂いの中に甘い香りも存在していて。
好きかどうかと聞かれれば──。
「……大好きです」
「~~~~っ!! じゃ、じゃあ、私たち相性抜群だ!」
お互い顔を真っ赤に染めながら、家を出た。
冬の夜風のお陰で、しばらく歩く頃にはすっかり冷めたけれど。
◇◆◇
電車に揺られて、二駅。
さすがに夜も遅いということで、今日は電車に乗った。
菜乃花の家の最寄駅について、改札を抜ける。
「ありがと、玲くん。お金はあとで返すね」
「いいよ、あれくらい」
「ううん、返す。こういうところからちゃんとしないと。私、玲くんに甘えてばかりだから」
どうやら菜乃花は俺の家まで手ぶらで歩いてきたらしく、財布は持っていなかった。
そのため、俺が菜乃花の切符代を払った。ちなみに喫茶店での珈琲も俺が払った。
ほんの数百円。菜乃花のためなら別にいいんだけど。それでも菜乃花は返したいらしい。
「そういうことなら」
「うん。ちゃんと受け取ってね」
菜乃花の家にむけて歩き出す。
菜乃花の家は駅からそれほど離れておらず、歩いて五分ほどの距離。
「そういえば、菜乃花の悩みって結局なんだったの? ほら、喫茶店から出てきたときの」
菜乃花はあのとき、鷺沼と別れると告げただけで、結局なにに悩んでいるのか話さなかった。
「あ~、えっとね。今朝玲くんにライムしたじゃん? これからの寝取らせ、全部玲くんとになったって」
「交渉で勝ち取ったってやつ?」
「そうそう。あれ、玲くんとのえっちの動画を穣くんに見せるときに出した交換条件なんだけどね。なんていうか、別れない前提みたいな条件じゃない? だからいきなり別れよなんて言ったらちょっと揉めるかもなぁって思って、どうしたら穏便に別れられるかなって考えてたの」
「揉めないように……。俺、あまり鷺沼と関わりないから分かんないんだけど、鷺沼ってそう言うとき、なんか言ってきたりする感じなの?」
「うーん、私も分かんない。喧嘩とかもしたことないし、というか私が避けてたんだけど。でも揉めないにこしたことはないでしょ? だから出来るだけ穏便に別れられる方法を考えてたの」
穏便な別れ方。世のカップルは別れるときどうしているのだろうか。
俺には経験がないから分からないけど、そんな、どこもかしこもで揉めているみたいな印象はない。
ということは多くの人々がうまく別れているのだろう。
とはいえ、菜乃花と鷺沼はお世辞にも普通の交際とはいえない。なら他のカップルは参考にならないのだろう。
「でも、これは私の問題だから。玲くんには頼らないでもちゃんと別れるから」
「俺としては頼ってほしいんだけど……」
「ううん、これはけじめなの。でも、本当にヤバくなったら助けてくれる?」
「……うん、そういうことなら。俺に出来ることならなんでも」
菜乃花の家の前にたどり着く。
時刻はだいたい二十一時半くらい。
菜乃花が玄関を開ける。
「玲くんちょっと待っててね! 私、玲くんの服取ってくるから! あと、お金!」
そう言い残して家の置くの方へと姿を消した菜乃花。
数分もすると、リビングから財布と服が入っているのだろう紙袋をもって戻ってきた。
紙袋を受け取り、切符代を受け取る。
「玲くんごめんね。今日はいきなり押し掛けちゃったりして」
「ううん。俺も菜乃花に会えて嬉しかった」
それから菜乃花は一歩前に踏み出し、俺のすぐ目の前にまで来たものの、なにかを我慢するように首を横に振った。
「どうしたの?」
「ハグ、我慢」
「ハグ? したいならしようよ。俺も菜乃花とハグしたい」
「だめ。ハグ我慢、キス禁止、手を繋ぐのもさっきので最後。こういうのはちゃんと付き合ってからって決めたの」
菜乃花が何度も言うちゃんとした関係。
確かにこういうところから直していくのが適切かもしれない。
菜乃花が決めたことなら俺からは特に言うことはない。
「わかった」
「すぐ出来るようになるように頑張るから。そのときはいっぱいいっぱい抱き締めてね」
「うん。そのときは菜乃花が嫌って言うまでずっと抱き締めるよ」
「ひひ、ごほうびが出来ちゃったからこれから頑張れるよ。ありがとね、玲くん」
「俺に出来ることならなんでも言って。……じゃあ、俺そろそろ帰るよ」
「うん、また明日」
「また明日」
踵を返し、菜乃花の家から立ち去る。
手には先ほどまでの温もりが感じられず、ひどく寂しい。
菜乃花はなにか覚悟を決めたらしい。それなら俺は、それを支えるまでだ。
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