024 姫と『蒼月』002
「こら、ビアンカ!なんだこの掃除の仕方は!」
施設管理長のマルムの声がエントランスホールいっぱいに響き渡った。
ああ、またかとビアンカは小さくため息をつく。
今日のお掃除係はビアンカだった。
とにかくビアンカが掃除担当の時にはマルムの叫び声が響いていた。
「もしかしたら、ユナ様がこちらに来られるのかもしれないのだぞ!」
マルムの顔は真剣だ。他で掃除している者たちも神妙な顔で作業と続けている。特に今日は、係であるも者もそうでない者も手が空いている者は全員で清掃に参加していた。
他の者たちは、特に上層部の者たちは慌ただしく動き回り何かと指示を飛ばしている。その言葉の端端に「ユナ様」という言葉が含まれており、『蒼月』において今日が重要な日であることがうかがえた。
【ユナ様】を迎え入れることは『蒼月』にとて悲願そのものと言っても過言ではない。
クラン『蒼月』の本拠地はかつてのアルザリア帝国の国境を守っていた砦ーー既に破壊され破棄されたものーーを修繕し活動拠点として活用していた。そのようにして鹵獲?した拠点が大陸中に何か所もあり、それぞれをヴェルの転移魔方陣でいつでも移動できるようにしていた。このことにより『蒼月』はクランでありながらも世界一の情報網と移動手段を保有した国家級の組織となったのだ。もちろん、それを快く思わない組織や国家もぞんざいしていたが、ヴェルが問題が発生するごとに【お願い】して回り、いつの間にか世界公認のクランとして登録、運営がなされるまでになった。『蒼月』はどの国家にも所属せず、またどの国王の命にも従う義務はない。構成員は様々な試験によって選抜され、たとえ平民であっても能力次第で採用されるのだ。もちろん、雇用均等を掲げ、希望すれば基礎学力や技能開発の学校も併設し、孤児であろうと貴族であろうと平等に学ぶことができるのだ。この思想は創設者の理念を反映させたものであり、『蒼月』だけでなく後の境域水準を底上げする大きな起爆剤となったのだ。
ビアンカは孤児院出身だった。親は厄災に巻き込まれ死亡し、ビアンカはヴェルに救助されてそのまま『蒼月』の運営する孤児院で育った。
ビアンカにとって『蒼月』は彼女の全てであり、ヴェルは育ての母であり、師であり、尊敬すべき女性であった。
(ああ、ヴェル様……)
ビアンカは今朝の出来事を思い出す。
それは、朝食会の時、『蒼月』では朝食と夕食はできる限り食堂に全員で集まって食べるという決まりがあった。それはこの拠点内の全員が集まるということで、特にこの拠点には学校と孤児院とが併設されているわけで、その席は自由に身分に関係なく座ることができた。
つまり、朝食と夕食はまさに【戦争】だ。まずは自分の食い扶持の確保、好きな主菜が出ていないか、パンなのかライスなのかそしてーーヴェルがどこに座るのか!これは『蒼月』において最重要課題だった。食堂の座席数は約一〇〇〇席、そしてヴェルは一人。確率は一/一〇〇〇!にもなり、両サイドと正面など周囲の席を合わせても五/一〇〇〇となる。とてもではないが一緒に食事をしたりおしゃべりをすることはかなり難しい。しかも、ヴェルは多忙の為なかなか食堂に顔を出すことはなかった。
そして、今朝はヴェルが数日前から拠点を訪れていたのだった。
(今日は、何としてもヴェル様と!)
そういった邪(?)な気持ちで朝食に臨む者は多い。ご丁寧にそれぞれが隣の席を空けて座るほどだ。長年の観察の結果、ヴェルは必ず人と人の間の席に座る。これは仮に隣の席が空いていた場合にその席の奪い合いとなり暴動に発展しかねないとの配慮からだった。
「今日はヴェル様とお話しできるかなぁ」
食事を盛り付けたトレーを長テーブルの上に置きながらトリアは呟く。
「無理無理!」
同室のジェシカは笑いながら一つ空けて隣の席に座った。この時間にヴェルが現れる確証はない。忙しく遅くなることや逆に早くなることもあった。全ては運次第。
「どうやらまだ来られてないみたいだね」
ビアンカは周囲を見渡す。もしも先にヴェルが来ていたのならみんな席を開けたりせずみっちりと座っているはずだし、仮に今来ているのなら食堂が静まり返っているはずだ。
そう、まるで今みたいにーー
「ん?」
食堂全体が時間が止まったかのように静まり返っていた。全員の動きが止まり立ち尽くすもの。飲みかけのカップを口につけたまま固まっている者……様々だ。そして「あ……あ……!」とトリアのように虚空を指さしたままうわごとのように声を上げる者……。
「どうしたの?」
トリアは目を大きく見開き口をパクパクさせながら硬直している。
「う、うしろ!」
トリアの指さす方向にビクトリアは振る向き「あ……あ……!」とトリアと同じになった。
そこには黒髪黒瞳の美しい女性がいた。
漆黒の聖女。神聖魔法は神官クラス、魔法の実力も魔導士をはるかに凌駕し、一説には精霊魔法をも操るとさえ言われている。魔法だけでなくあらゆる武器の扱いにも長け、剣、弓、馬術に関しても騎士団顔負けの実力だと言われている。嘘か真か『蒼月』の創業者とも縁があり、転移魔方陣を設置し、情報網を構築したのも彼女だと言われている。
それらすべては彼女が最も敬愛する者の為だともいわれていた。
ユルムンガンド教の熱心な信者といわれており、教会に足しげく通い神画に祈りを捧げている姿を見た者は多い。
「ヴ、ヴェル様!?」
ダン!
ビアンカは勢いよく立ち上がり、その勢いで椅子が倒れ派手な音を立てた。
「あちゃ~」
トリアが天を仰ぐ。
「ビアンカ、隣りに座っても?」
「ひ、ひゃい!どうじょ!」
ぎくしゃくとしながら倒れた椅子を起こしそこに座る。
ぎぎぎぎぎ!
ゆっくりと首を動かし隣りを確認する。漆黒の聖女は確かにビアンカの隣りにいた。
(ほ、ほんものだ!)
「トリアも元気にしてましたか?」
「は、はい。私はいつでも元気です!」
トリアの答えに「それはよかった」とヴェルは微笑んだ。
ヴェルは『蒼月』のメンバー全員の名前を覚えている。それどころか一度会った者の名前は決して忘れないとまで噂されていた。
(これが、漆黒の聖女、ヴェル様!!)
ビアンカはその笑顔に見惚れながら自分の食事を食べ始める。背中にひしひしと羨望と嫉妬の視線を感じながら一緒にいられる幸せをかみしめていた。
しかし、その幸せの時間はトリアの一言であっさりと崩壊する。
「そういえば、あのお手紙の件はどうなったんですか?」
(あっ!?)
ビアンカはハッとなる。
カタン!
しんと静まり返った食堂内にスプーンを取り落とす音が響いた。ヴェルがスプーンを落としたのだ
「ヴェル様!」
トリアが慌てて声を上げた。体調でも悪いのだろうか、ヴェルは顔面蒼白になりながら小さく震えていた。
「だ、大丈夫です」
「お水を取ってきましょうか」
ビアンカは立ち上がるがヴェルはそれを手で制した。
(もう、何んでその話題を今振るのかな!)
ビアンカはトリアを睨みつける。『蒼月』内では手紙の話は今現在タブーとなっていた。
数日前に『蒼月』のマスター宛てに一通の手紙が届けられた。
この時代手紙を届けることはかなり高額であり、危険な行為だった。厄災以降郵便物の輸送は主に冒険者や行商人頼りとなり魔物や野盗の襲撃等により無事に届かないことの方が多い。『蒼月』も転移魔法陣を用いた手紙の移送を行っているが、それも万全というには程遠かった。それでも手紙を送るということはよっぽど事態がひっ迫しているか『蒼月』にとって重要な案件なのかのどちらかだ。
しかし今回はそのどちらでもなかった。
「ユナ様からの手紙ーーーーーーっ!!」
ヴェルが叫び声を上げたのは後にも先にもこの一度きりであった。それからすぐに重役を集めた会議が行われ、その日のうちに返事の手紙がクランのメンバーの手によって郵送されたというのだ。
(ユナ……様)
一五〇年前、大災害の前兆とされるマルシ森の厄災の際、『蒼月』の創始者たちに同行、伝説の武具を授けこれを退けたとされている。その話だけでも常軌を逸している。
伝承や吟遊詩人の語りだけであれば眉唾物としてかたずけられただろうが驚くことにこの話にはきちんと証人がいるのだ。それに各地で厄災が発生する前、『蒼月』に対しハンターギルドや盗賊ギルドからも援助があったという。滅亡してしまったアルザリア王国のかつての王もユナに助けられたことがあるというのだ。
(一体どんな方なんだろう)
絵画や神画、肖像画などその姿を目にする機会は比較的多い。しかし、そういった物は往々にして美化されているものだ。一度そのことについてヴェルに尋ねたことがあった。
ヴェル曰く「ユナ様を絵だけで表現することなど不可能です!」と力説された程だ。
「すみません。ちょっと疲れているみたいです」
「そうですか」
決してそれだけではないだろう。と思ったがビアンカは口には出さない。それは触れてはいけない部分だと思ったからだ。
その時だった。ヴェルの腕輪が光を放った。
「ーー!!」
ヴェルが無言で立ち上がる。その所作に周囲の者たちが驚きの目で彼女を見た。
「ヴェル様?」
トリアが声をかけた時にはヴェルの足元に魔方陣が浮かびあがっていた。それが転移の魔方陣に似ていることにビアンカはすぐに気づいた。
「迎えに行ってきます」
ヴェルがビアンカに言った。
「どなたをですか?」
漆黒の聖女ヴェルが自ら迎えに行く者がただ者であるはずがない。答えなど既に出ているようなものだ。しかし、確認しなければならない。クランの者に知らせなければならない。
「もちろん、ユナ様です!」
興奮したようにヴェルが言う、これほどまでに歓びの表情を見せる彼女を見たのは初めてだった。
周囲がざわめいた。歓声に近いどよめきが食堂を満たす。
魔方陣が光を放つ。
「マルム!歓迎の準備を!」
ヴェルの声に近くにいたマルムは頷いた。
光が消える。
魔方陣もヴェルの姿ももうそこにはなかった。
食堂が静まり返った。
「ヴェル様……」
茫然としながらビアンカはヴェルの消えた床を見つめる。
「何をしている!」
マルムの叱責が飛んできた。それはビアンカに対してではなく食堂にいる全員に対しての言葉だった。
「ユナ様が……ユナ様が来られるのだぞ!」
マルムの声が響いた。全員がその言葉を、その言葉の意味をかみしめる。
「そ、そうだ……こんなところで食事なんてしている場合じゃない!」
「掃除を……孤児院や学校の人たちにも手伝いをもらわないと!」
「歓迎の準備を!」
「マスターに連絡を!」
「すぐに役員に連絡だ!」
「非番の奴も叩き起こせ!」
大声が飛び交い、食堂は大混乱になった。全員が興奮したように動き出す。その顔には歓喜の色があった。
「全員さっさと動け!」
マルムの声が響く。
「みんなでユナ様をお迎えするぞ!!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます