羽柴秀勝への転生〜目指せ、四人目の医聖!〜

CELICA

1,死者の約束

 僕は夜間当直の翌日、家族で久しぶりのドライブに出かけていた。


「うわー、きれい!」


 息子が、「シートベルトってなーに?」という勢いで身を窓に張り付かせて、キラキラと輝いた琵琶湖の湖面を眺めている。シートベルトは懸命に息子を席に引き戻そうとしていたが、パワフルな5歳児にはかなわないようだった。


 いや、危ないだろ。


 ハンドルを握りながらバックミラーを見て、ハラハラ思った僕が注意しようと口を開きかけると、


「危ない!」


と、先に妻が息子に注意してくれた。


 ……いや、息子ではない。僕に対してだった。次の瞬間、僕の目には、フラフラとこちらへ走る一台のトラックが映った。


 キキーッ、キキーッ!


 全力でブレーキを踏んだが、僕の対応の遅れと悪質な相手によって、


 ドドドーン!


僕たちが乗る車は、トラックに勢いよく跳ね飛ばされた。


 幸いなことに、車の性能と僕たちの運により、僕たちは跳ね飛ばされても軽い擦り傷だけで済んだ。


 しかし不幸なことに、僕たち家族が走っていたのは、琵琶湖の湖面の側にある片道一車線の狭い道路だった。


 その結果、車は容赦なく、


ドッボーン!


と琵琶湖に飛び込んだ。


 夫婦で協力して、まずは息子を助け、琵琶湖の水面上に浮かばせる。


「うわーん、うわーん!」


 息子は声のある限り泣いており、すぐにでも助けが来るだろう。


 ただ、時期が悪かった。僕たち夫婦は息子の代わりに泳ぎ、何か浮くものを探して息子に渡していると、琵琶湖の水温に容赦なく体温を奪われ。


 ごめんな、僕が無茶言って。当直明けにドライブなんか、行って。そう最期に思った後、僕は意識を失い、湖に引きずり込まれていった。


 🩺 🩺 🩺


 ふと気がつくと、僕はたった一人で幻想的な場所に立っていた。


 地面は柔らかい芝生で覆われており、芝生の隙間からは色とりどりの花が、ポツポツと咲いている。


 僕の10mくらい先には、波風が立っておらず、それはまるで鏡のような大河が静かにあった。河を挟んだ岸は遠くにあるようで、両目をぎゅっとしかめさせても、ボンヤリとした輪郭しか見えない。


 ずぶ濡れのはずの僕の服は、パリパリに乾いている。クンクンとニオイを嗅いでも、臭さは全くない。


 死とは何か、医学生になってから8、9年間も、ずっと考え続けていた答えが、スッと分かったような気がした。


 あ、僕はもうすぐ死ぬんだ。


 そう悟っていたところに、一人で子どもがふらっとやって来た。長髪を頭のてっぺんで一つに結び、着物を着ているが、ちょうど息子と同い年くらいの男の子だった。


 そんな子が泣いているのだ、抱きしめずにはいられようか!……いや、断っておこう。決して僕は、幼児好きな変態ではない。


 とにかく、僕の突然のハグによって、男の子は泣き止んだようだった。ギュッと僕を抱きしめ返して、男の子は言った。


「あなたは、だれ?」


 僕は、ゆっくりとハグを解いて、男の子を見つめる。ウルウルした両目がかわいいな、と思いながら、僕は名乗った。


「僕は、空蝉昭世志うつせみ あきよし

君の名前は?」


 いや、見知らぬ他人に名乗るわけないか。言って、今更に思った僕だったが、それは杞憂のようだった。


 男の子は意志のこもった目付きで僕を見て、堂々と名乗った。


「はしば ちくぜんのかみ ひでよしがちゃくなん、はしば いしまつまるである」


 は、羽柴秀吉⁉それって、豊臣秀吉の別名じゃないか!


 日本史の知識はそこらの高校生と同じレベルだが、僕でもそれくらいのことは分かる。信じられないことだが、男の子の服装、言葉遣い、嘘の欠片もない瞳。そして、三途の川だろうという場所が、僕に真実を告げていた。


 冷静さは、すぐにやって来た。僕は、石松丸くんを質問攻めにせず、一つ一つ丁寧に事情を訊いた。いくら、ちゃんとしたことが話せる幼児とはいえ、幼児は幼児だ。


 だが、石松丸くんは凄かった。石松丸くんと話すにつれて、僕の中から、「常識」の二文字が、バラバラになっていった。


「どうして、ここにいるの?

辛かったら、話さなくてもいいよ」


「いや、だいじょうぶ。

ほーそーにかかって、たぶんしんだ。

すごくかなしかったんだ。」


 「ほーそー」とは「疱瘡ほうそう」、つまりは天然痘のことだろう。天然痘は、1980年に根絶宣言がされたはずだ。しかし、いや当然、石松丸くんがいた時代ならばあり得る話だ。


 天然痘は、感染力や致死率がとても強い。更に、無事に治ったとしても、顔に「痘痕あばた」という醜い痕が残り、とても恐れられていたのだ。あの時代に、ワクチンはなかった。医師は悔しかっただろうが、どうしようもない病気だった。


 本で知ってはいたことだけど、実際に幼いこどもから聞くと、何ともいえない感情が胸に湧き上がってきた。医師としての使命感が、僕を支配しつつあった。


「ちちうえやははうえの、あんなにくるしそうなようすを、みたくなかった。

……しにたくなかった」


 今度は、僕が泣く番だった。いつの間にか、僕は声を押し殺して泣いていた。そんな僕を、知ってか知らずか、石松丸くんは提案した。


「ねぇ、かわりに、いきてくれない?」


 僕は涙と鼻水でグチョグチョになった、マヌケな声で言った。


「へ?」


「えらいかたが、それならいいって。

かみさまが、かわりのひとのたましいを、しんだはずのからだにいれるのならば、いきていいって」


 石松丸くんは、自分から僕に抱きついて言った。


「だから、かわりにいきて。

ぼくのかわりに、ちちうえやははうえ、いろんなひとのえがおをみて」


 思わず頷いた僕は、お人好しだったのかな?いいや、そんなはずはない。お人好しでなければ、医師なんて務まるものか!


 でも、それだけではない。僕はただ、一人のおとなとして、医師として、空蝉昭世志として、石松丸くんに誓った。


「うん、約束しよう。

僕が、代わりに生きるよ。

だから」


 「安心して、見守っていてね」と言おうとしたものの、タイムオーバーのようだった。僕の意識は不意に途切れ、しばらくの間、目の前が真っ暗になった。


 最期に、神様の囁き声が聞こえたような気がした。

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