やさしさとは

@miura

第1話 やさしさとは

 大学生の時、太宰に出会った。

 ちょうどそのころ、僕は荒れていた。

 荒れていたと言っても、校舎の窓ガラスを割って回ったわけではない。

“学生生活”というものに嫌気がさしていたというか、絶望感を感じていたのだ。

 当時、僕の頭の中での“大学”というものは、授業になど出ず、バイトに明け暮れ、たまに登校したと思ったらサークルに顔を出してコンパに行く、そういうイメージだった。

 入学後、イメージ通りの学生生活を送っていたが、いざ、試験になると様相が違った。

 ふだん一緒に酒を呑み、女の子のけつばかり追っかけ「テストなんかどうでもええんよ。留年したらそれでええねん」と言っていたやつらが、急に駅前にあるコビー屋に行き、まじめに授業に出ている学生のノートのコピーを手に入れ、ずるがしこく単位を取得していった。

 取り残された僕は、段々と大学から遠ざかり、もちろん単位が足りず留年を余儀なくされ、高校時代から打っていたパチンコにのめり込んでいった。

 貯金を使い果たすと、親から預かった授業料、当時はまだ大学の出納課へ現金を持って行って収めていた、に手を出し、さらには自宅のタンス預金にも手を付け、親から勘当同然の家出を二回もした。

 真剣に大学を中退しようと思ったが、なんとか親の説得を受け入れ、五年半かかって卒業だけはした。

 そんな荒れた学生生活を送っている中で、数少ない友人から太宰の存在を教えてもらった。

 彼が書いた小説を借りたわけでもなく、お勧めの小説を聞いて購入したわけでもなかった。

 ある漫画の週刊誌で太宰をパロディー化した四コマ漫画を見せてもらった。

「生まれて、すみません」

 パロディーだけに面白おかしく書かれていたが非常に興味を持ち、彼の作品を片っ端から読んだ。

 その時の僕と全く同じ匂いがした。一言で言えば無茶苦茶、二人そろって紛れもなく“人間失格”だった。

 しかし、僕はある意味、彼と出会って救われた。こんな著名な作家が僕と同じような出鱈目な生きかたをしていたんだな、と。

その時から僕は“堕ちていく自分”を見るのが好きになった。

 今では、実姉から“ドM”と呼ばれ、妻からは“自爆型性格、自ら進んで落とし穴にはまっていく人間”というレッテルを貼られた。

 そんな時、小説の作品名は忘れてしまったが冒頭の彼のセリフと出会った。

 どこまでひねくれた人なんだと最初は思ったが、よくよく考えてみるとまんざら彼の言っていることは間違っていないなと思うようになった。というか僕たち同じ匂いのする二人は世間一般と、ものの考え方がかけ離れているのだろうかとも正直思った。

 彼は言った。人にやさしくするということは、人にやさしくしてあげようという気持ちが起こり、そう思った時点ですでにその人を見下しているんだ、こいつ可哀そうな奴だから手を差し伸べてやろうか、だからやさしさは悪なんだ、と。

本当に見下していなければ手を差し伸べる必要などない。彼は彼女はきっと自らの力で克服するはずだ、できる人間なんだから、といったところだろうか。

どこまでひん曲がった考えをしているんだ、と普通の人は思うだろう。人に対してやさしく接しようとする態度、それの一体どこが悪いと言うんだ?すばらしいことじゃないか、と。

例えば、大きなスクランブル交差点を渡ろうとしておどおどしている老女がいるとしよう。

普通なら、あ、困ってるな、手を差し伸べてあげようかな、と思うだろう。決して見下してはいない。途中で信号が変わったら大変だろう、行きかう人とぶつかって万が一こけたりしたら大変だ、よし、手を差し伸べてあげよう。この“やさしさ”には悪はないだろう、ねぇ、太宰さん。

まさか「これからの超高齢化社会、ご老人にも自立していただかないといけない。これまでこの国を築いてくれたそのようなご先輩方に対して見下したかのように手を差し伸べるとはなにごとだ。一人でスクランブル交差点を渡って頂くんだ」と仰るんですかね。

また、太宰さん、こんなケースなどは如何でしょうか。

電車の中で、座っている僕の前にお腹の大きな女性がやって来てつり革を掴む。ここは迷わず席を譲ります。これは決してこの女性を「へっ、可哀そうな奴だぜっ」と見下してるわけではありません。この超少子化の世の中、子供を授かり、産んでくださる、感謝の念しかございません。少しでもお体を大事にして健康な子供さんを生んでください、と。

それでも、太宰さん、まさか言わないですよね。男女平等だろ。女に手を差し伸べるとはなんと失礼なことか、と。

だけど、太宰さんが生きた時代は、男尊女卑じゃないですけど、まだ、女が男の三歩後ろを歩いていた時代でしたよね。男と女がお互いに尊重しあっていた、いい時代でしたよね。男には男にしかできないこと、女には女にしかできないこと、それぞれを認めあっていましたよね。

今みたいにヒステリカルに、何が何でも男と女は平等だ、と言って、名簿は男と女を混ぜたあいうえお順にしろだとか、名前を呼ぶときは男女関係なく○○さんと呼べだとか、わけのわからない七分だけのズボンを男も女にも履かせたりだとかそんなことはなかったですよね。

そもそも、男女平等なんかを声高らかにうたう女性とは、男に相手にされない、色気もくそ気もない、原色のスーツを好んで着る、たいがいそんな女性たちなんです。

それを国と言うか世間は何の疑問も持たずに受け入れ、結果、男性の性を捨てた、内またで歩くか弱い男性を大量生産してしまった。

もちろん女性を口説くことなどできず、おやつの時間になるとみんなで集まってエクレアを食す。口に付いたチョコを拭きあったりして・・少子化の原因の一端であると僕は思っています。

だから、さっきの子供を宿した女性、この国にとっては最後の砦、絶対に守るべきもの、そんな女性に手を差し伸べるということは“最大の悪”どころか“最大の善”だと僕は思います。

つまるところ、僕が思う“最大の悪”である“やさしさ”とは、こういうものではないでしょうか。

 最近よく駅前とかでなんとかという雑誌を売っているホームレスの方がいますが、ああいう雑誌を買うことだと思うんです。

“可哀そうな奴だぜっ、しょうがない、何の本だかわからないが買ってやるか”

 そんなの買わずに、自立していただくことを願うのが本当の“やさしさ”だ、と。

思い出したのですが、昔、一番荒れていた大学生の時、二度目の家出から自宅に戻ってきた僕に、僕のことをドMと評する実姉がぽつりと「あんたはやさしすぎんねん」と言いました。

 その時、実姉が放った言葉の意味がわかりませんでしたが、あとになってよくよく考えてみると、物事に対して、他人に対して、もちろん自分に対して、すべてにやさしすぎる、要は、何事にも強くあたれない“弱い人間”だということを意味していることがわかったんです。

 太宰さん、あなたが言った“最大の悪”である“やさしさ”とはこういうことではないのですか。自分が“弱い人間”だということを認めたくない、だから、人を見下すとか言って“やさしさ”を“最大の悪”に仕立て上げた。

 いずれにせよ“やさしすぎる人間”は堕ちていくものなのでしょう。

 僕も、そして、あなたも。


        了

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