リップを分けて

ぽぬお

第1話

サラサラと春風が靡く気持ちの良い朝。

一歩ずつ歩く度にあたしのお腹に高揚が溜まってゆく。

じわじわ溜まっていった高揚はどうなるのか。水面を超えるまで分からないし、どうなっても良いだろうと思った。

どうしてこうも、春というのはあたしに幸せをもたらしてくれるのか。きっと、新しい環境になるというワクワクから来ているだけだろうけど、『色んな生き物たちが生き生きとし出すからだ』なんてロマンチックなことを考えてしまうほどには、あたしははしゃいでいたのだ。

すれ違う人々はすまし顔。あたしの顔はだらしなく緩んでいるだろうけど。恥ずかしくなって頬を掻くフリをしながら口元を押さえた。


「あの!」


緩やかに流れていく春風をピタッと止まらせるみたいに、大きな声がした。ビクリと揺れた肩を誤魔化すように振り向くと、そこには困ったような表情をした女の子が真っ直ぐに私の目を見ていた。

パッと目に入った制服はあたしのものと同じで、『あたしと同い年かな』と何となく思った。

彼女は少し身動ぎしたあと、「その、」と両手で大切そうに何かを差し出した。

それは、見覚えしかない水色の生地にあたしのイニシャルが入ったハンカチだった。


「ああっ!」


思わずあたしが大きな声を上げると、彼女は先程のあたしよりも大きく肩を揺らした。驚かせちゃったわ!と慌てて「すみません」と小さな声で謝ると、彼女は「大丈夫ですよ」と笑う。

その病人みたいに青白い顔のピンクベージュの唇から聞こえる、ともすれば聞き逃してしまいそうな笑い声が、酷く耳に響いていた。

彼女は突然、ポカンとしている顔のあたしを見つめて、「あの、」と躊躇いがちに言う。そうやって申し訳なさそうな顔をするくせしてあたしの目を離さない力強さに、あたしは怖気付いた。


「好きです。好きなんです。きみのこと。」


はっ?


その意味不明な言葉をゆっくり咀嚼する暇もなく脳に直接来るものだから、あたしは大いに戸惑った。

えっ、と声にならずに息だけが漏れていく。

彼女は、そんなパンク寸前のあたしの脳に、更に畳み掛けてくる。


「運命だと思うんです。きっと、一目惚れだ。」


運命。一目惚れ。


あたしに?


その言葉で、彼女への好感度がどんどん下がっていくのを感じた。

最悪、と心の中で呟く。

『好き』という気持ちを、運命だなんてそんな薄っぺらい言葉の枠にはめて欲しくなかった。


「悪いけど、」と自分でも驚く程に平坦な声で言った。そして言葉を重ねる。

傷付けてしまうだろうな、とやけに冷静な自分が居た。


「あたし、一目惚れって好きじゃないの。運命だとか言うけれど、それって所詮は僅かな情報で人を判断して好きだって思い込んでるだけでしょう。あたしは、あたしのことをちょっと知っただけで好きだと思い込む勘違い野郎より、一から十まであたしを理解してくれる人がいいわ。」


きっとあたしは今、苦虫を噛み潰したような顔をしている。

自分で啖呵を切ったくせに彼女の顔を見るのが怖くて、あたしは俯いた。


「へぇ、」


思っていた何倍も優しく何処か慈愛に満ちた声に、咄嗟にあたしは顔を上げた。


「受け容れるじゃなくて、理解なんだ。そういう、傲慢に振る舞っているように見せた可愛い我儘、私は好きだよ。」

「……はあ!?」


あたしが敬語じゃなくなったからか、口調を崩して言う彼女。

最初から最後まで意味が分からなくて、顔が熱を持ち始めたあたしはもっと意味が分からなかった。

そんなまたもや混乱しているあたしを置いて、彼女は続けた。


「でも、勘違い野郎は心外だなぁ。」


おちゃらけたように笑う彼女はいたずらっ子のようで。


「私はきみのためになら死ねるくらいきみが好きだってのに。」


出会ったばかりでそんなことが言えるなんて、頭がおかしいのかもしれない。

そう思ってしまう程に何処かの安い恋愛ドラマのようなことを言う彼女。

私の瞳を見つめる彼女の瞳は黒く濁っている訳でもなく、ただただ透き通った瞳があたしだけを映していた。

きっと、この瞳に魅せられたらあたしは狂ってしまうのだろうな、と思った。

同時に、狂ってやれないことが少しだけ惜しくもあった。


「……ああ、そう。」


否定も肯定もせずに、あたしはその言葉だけ残して足早に歩き出した。

少し間が空いてあたしと彼女の距離も広がってきた頃、「待ってよ!」という彼女の声が聞こえた。

病人みたいに儚い見た目に反してよく響くその声はあたしの耳にもきちんと届き、あたしは少しだけ足を遅めた。




彼女について分かったこと。

同じ学校。同じ学年。クラスは違う。

そして、典型的なサボり魔だ。

授業に出る確率は半々。朝会なんかは絶対に出ないし、HRも当然出ない。でも学校には毎日来ているし何よりその病人のような頼りない見た目から、生徒も教師も強く言えないのだ。

そんな彼女が毎日サボって何処にいるのか。

それは───



「またここに居るのね!」

「きみがロマンチックだって言うから、屋上での最高のプロポーズを考えてるんだよ。」


そう。屋上だ。

学校の屋上が空いていると知った時あたしが「ロマンチックねぇ!」とはしゃいだことを彼女は覚えているのだ。なんならあたしがそう言った次の日からずうっと屋上に居る。

彼女は「きみは夢見がちなお姫さまみたいだね」と本気で言っているのか分からない甘い言葉をつらつらと並べて、笑っている。

そして自分の座っている隣をポンポンと叩き、こっちにおいでというような仕草をした。

あたしが大人しく隣に座ると、「ねぇ」と私に告げた。


「きみのためになら死ねるよ」


『この前も聞いたけれど?』という言葉は呑み込んだ。

まるで「歯磨き粉無くなったから買っておくね」と有無を言わせないように、当たり前のことのように言われたからだ。

じっ、と彼女はあたしの瞳を見つめる。

あたしはその瞳の拘束からするりと抜けて、彼女の後ろから燦々と照っている太陽を見つめていた。

どうしても、彼女に太陽は似合わなかった。


「聞いてる?」


彼女は彼女の瞳から抜け出したあたしを訝しげに除き込む。


「そうね。」


あたしは曖昧に答えて、お望み通り彼女の言葉について考える。


「きみのためになら死ねる」ねぇ。

彼女の言葉を疑うつもりは毛頭ないが、『そんなことを易々と人に言わない方がいいんじゃないの』とは思う。

そこまで考えたところで、彼女はもう一度「きみのためになら死ねる!」と叫んだ。なんだか嬉しそうだった。

でもあたしは肯定も否定もせず、「ああ、そう。」と事実だけを受け止めた。



「あたしに惚れるなんて、もったいないひと。」


ポツリ。誰に言うでもなく、あたしは彼女を哀れんだ。


「もったいない?私にはきみの方がよっぽどもったいなく見えるけど。」

「どこが?言ってみなさいよ。」

「私と恋人にならないところ。」


噛み付いたあたしに即座に言い放った彼女は本当にそう思っているらしく、なんだかあたしが間違っているみたいでムカついて吐き捨てた。


「ああ、そう!」





「春とは言えど、動くと暑いものね。」

思わず独り言を零すと、零れ落ちたそれはあまりにも簡単に空気に溶け込んでいった。


三限目。サッカー。

あたしは運動は嫌いじゃない。汗を流して体力を消費するのが、青春みたいだから。

いつの日かそう彼女に言った時、やっぱり彼女は「夢見がちなお姫さまみたいだ」って笑った。

ああそうだ。彼女は何処だろう。また屋上かしら。

いつの間にか彼女を視界に入れないと落ち着かなくなってしまった自分を嘲りつつ、屋上を見上げると。


案の定彼女はそこに居て、にっこりと笑っていた。


す、き、だ、よ


あたしにも分かるくらいに大きく口を開いて、パクパクと愛を語った。

そうやって彼女を見上げていると、なんだか彼女の気持ちが分かった気がした。


嗚呼、と思う。

あたしのことが好きで好きで堪らなくて、あたしのために狂ってしまえるあなたのこと、好きよ。


あなたはあたしのために死ねるのでしょう。ならば、彼女をあたしのために死なせてやることが彼女への最大のラブレターなんだわ。


「きみのためになら死ねる!」


グラウンドに沢山人が居るのに、大きな声で言う彼女。

あたしは彼女に愛を伝えようと、彼女に負けない大きな声で叫んだ。


「死んでみなさいよ!」


彼女は待ってましたと言わんばかりに、ニイ、と不気味なまでに口端を持ち上げ、笑っている。

あたしは、高揚が水面を超えたらこうなるのねと一人で納得していた。


「よけて!」


彼女が屋上のフェンスをよじ登り、そう叫びながら笑っているのが見えた。

それが最期だった。


キャアと金切り声を出す生徒の存在も、怒鳴って止めようとする教師の声も、春風に吹かれてあたしの目を遮る髪も、何もかも見えなくて、空中でダンスする彼女の身体だけが私の瞳を独占していた。




彼女はあたしのために死んだの。

あたしのために死ぬんじゃなくてあたしのために生きて欲しかったのに。

あなたは死んで自分の身体を差し出すことが愛だと思ってるみたいだけど、愛って愛する人と幸せになるために身も心も捧げることだと思うの。

なんて、あなたは夢見がちなお姫さまみたいだって笑うかしら。

本当に、あたしを幸せにする前に死んでしまうなんてどうかしてるわ。

でも、言ってはやらない。

それはきっと、あたしがどうかしてるあなたのことが好きだったからだろう。

好きだけれど、

あたしは彼女と一緒に狂ってやれなかった。

あたしは彼女と一緒に生きたかったからだ。


どうかしてるあなたと一緒に生きたいと願ったけれど、どうかしてるあなたに愛を伝えるにはああするしかなかったの。ただ、それだけ。

納得いかないけど、所詮はあたしも好きな子に愛を伝えたかったのだ。


だから、そう。

あたしもあなたも、健気に恋する乙女だったのよ。


真っ赤な水溜まりに人差し指を浸して、そのまま彼女の唇に滑らせた。

テラテラと艷めく真っ赤なリップ。

とっても似合っているわ。


あたしはそのリップを分けて欲しくて、彼女の唇を優しくんだ。

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