3
「───これ着るのか」
9月1日、窓の外ではツクツクボウシが鳴いている、そんな始業式の朝。彼は自身の制服をまじまじと見つめていた。
左側にボタンが配置されたワイシャツ。臙脂色のブレザー。縦にいくつかの折り目が入った紺色のスカート。赤い下地に白のストライプが等間隔に並ぶリボン。
それは、彼が今まで使っていた男子生徒用の制服ではなく、女子生徒用の制服である。
彼の名前は、青山 悠太。郊外の私立高校に通う高校2年生である。彼は今年の夏、女子になった。原因は未だはっきりしていない。
彼はワイシャツに袖を通し、ボタンをとめていく。しかし、なれないボタンの配置と胸部が盛り上がっているせいで苦戦する。
「あぁ、もう・・・」
彼は、時間をかけながらもワイシャツを着て、スカートを腰にかける。前でファスナーを閉めてホックをつけ、スカートを横に回す。首にリボンをかけ、ブレザーを上から着る。
彼は洗面所へ向かい鏡で自分の姿を見てみる。鏡の向こうには清楚な美少女が立っていた。つい一ヶ月前まで男子だったのが嘘みたいである。サラサラと揺れ動く艷やかな髪とヒラヒラと舞うスカートはどう見ても女子高生のものであった。彼は少しの間、鏡を見た後に通学カバンを背負って玄関へ向かう。
「かわいいよ。」
リビングを過ぎた際に母親にそう言われ、頬を赤くしながら家を後にした。
行く手を阻むような強い日差しが降り注ぐなか、近所の雑木林からは数多のセミの鳴き声が聞こえてくる。長い間、屋内に居た彼にとっては気後れしそうな暑さだが、彼は確固たる意志で歩みを進めていた。
彼が家の近くの公園に着くと、彼と同じ制服を着た女子高生が少し先の木陰で待っていた。彼女は彼の存在に気づいたのか、笑顔で手を振る。
「早いね。」
「そっちこそ。」
「制服を着た姿もかわいいね。男の子だったなんて信じられないなー。」
再び頬を赤くした。
「そ、そう。」
「もっと気前よくいこうよ。」
「まだ時間あるけど、もう学校に行っちゃおう。」
「そうだな。」
彼女の名前は、
彼は由夏と学校へ向かう。
彼は一足歩くたびに足下に風を感じる。彼はその慣れない感覚に不安になる。
「スカート慣れないな。」
「そうなの?なんで?」
彼女は不思議そうに言った。
「なんでって、こんなに足を露出するのが慣れない。」
「そうなんだー。」
「布1枚で頼りない感じだわ。」
「へえ。私は何とも思わないけど、初めてだとそうなるんだね。」
目を閉じながら、感慨深そうに由香が言った。
彼は由夏を含めた女子がスカートを日常的に身に付けている事実に改めて驚いた。
やがて、彼らは母校の校舎が見える距離まで学校に近づいていた。道には同高校の生徒が多く歩いていた。彼は生徒達の姿を見ると、だんだん不安な気持ちが強くなってきた。
彼はクラスメイトたちが、自分の姿を見たときどういう反応をするのか不安で仕方がなかった。好意的な反応かもしれないし、避けられたりからかわれるかもしれない。
「大丈夫?顔色悪いけど。」
「ごめん。みんな俺のことどう思うのか、すごい緊張してて・・・」
「そうだよね。緊張するよね。」
「でも、あんまり考えすぎるのも不吉だから良くないよ。」
「それに、みんな優しいし、心配しないで大丈夫だよ。」
確かに、彼女の言う通り考えすぎると良くない結末を迎える可能性もある。
「そうだよな。」
「大丈夫だよな。」
彼はそう自分に言い聞かせた。そして、心が落ち着いたはずだった。
しかし、彼が学校に着いた頃には、彼の頭は不安と緊張でいっぱいになっていた。
彼はホームルームの前に担任と会わなくてはならないため、昇降口で由夏と別れた。
そして、職員室前で担任に声をかける。
「先生。俺、青山です。」
「えっ。」
「随分変わったね。とりあえず来賓室入ろうか。」
彼と先生は、来賓室に向かう。
「ここ座っといて。私は持ってくるものあるから。」
担任が退出し、彼は来賓室のソファーに座る。扉の外からは、生徒たちの話し声や足音が聞こえ、それが彼を更に緊張させる。ちんまりと握った手は手汗で濡れていた。
数分後、担任が戻ってきた。担任は彼と向かい側のソファに座り、複数枚の手紙を卓上に置く。
「大丈夫?緊張してる?」
担任は彼の目を伺いながらそう言った。
「緊張してるけど、大丈夫です。」
そう弱々しい声で彼は言った。
「親御さんからは色々聞いていたけど、ホント大変だ。」
「それでね、その大変な中だと思うけど、ホームルーム始まる前にお話しないといけない事があるの。」
「まず、身体は女子かもしれないけど、トイレは職員室前のトイレだけ使って。というのも、やっぱり嫌がる人もいるかも知れないから我慢してね。」
「でも、後でアンケートとるからそれの結果次第では変わると思う。」
「はい。」
「次に、学籍証明の書類とかは戸籍に応じて変えるけど、健康観察とかの書類。これは今すぐ変えなきゃいけないの。だから、この封筒持って帰って中にはいってる書類を親御さんに渡して。」
「わかりました。」
「最後に、これが一番大事な話だけど、性別が変わって周りが今まで通りでいるかと言われると、絶対そんな事ないと思うの。」
「ええ。」
「ひどいこと言うけど、皆から陰口言われたり虐められる事もありえると思う。」
「・・・」
「だからね。私たちもみんなに今まで通りに接するように言うし、何かトラブルがあったら解決できるようにするけど、ずっとは青山の事を見ていられない。」
「だから、もし青山になんかあったら遠慮なく言ってほしいな。」
「オッケーです。」
「本当?心配だなあ。」
「青山って、いつも声をかけてくれるような人じゃないからさ。」
「まあ。大丈夫ですよ。僕には葉田もいますし。」
「それなら良かった。じゃあ、ホームルーム始まる時になったら呼ぶからここで待っといて。」
「はい。」
担任はそう言って、再び来賓室から出た。
「はぁ・・・」
彼はため息をつく。
あたりを見渡すと、生徒が普段見ることのない来賓室の内装が見えてくる。おそらく、これが最初で最後の来賓室の経験だろう。壁を隔てた先には、クラスへ向かう生徒たちの足音が聞こえる。その生徒たちは、この部屋の中に自分がいるとは思わないだろう。
ガララとドアが開く。
「よし。青山、行こうか!」
担任と共に彼は教室へ向かう。彼を励ますためだろうか。担任は前向きな雰囲気を醸し出していた。
「じゃあ、呼び出したら中に入ってきて。」
教室の前に着くと、彼はそう言われてドアの陰に隠れながら廊下に立つ。
静まり返った廊下。他の事を考えようにも、考えられない。彼はクラスメイトの前に出る事に恐れていた。
自身の左胸に手を当ててみる。
膨らんだワイシャツの下からドクドクという鼓動が手に伝わる。彼は深呼吸をしながら時が過ぎるのを待っていた。
「青山。入って。」
教室に入る。皆の視線がこちらへ向いている。既にニューロンからは許容できない量のノルアドレナリンが分泌されていた。今にでも逃げ出したい気持ちを必死に堪え、教壇の隣へ立つ。
「青山が女子になりました。」
「あのー、大切なお願いとして、今まで通りに青山には接して。あと、青山のことは気になるかもしれないけど、質問攻めしたり逆に避けようとしたりしないでいつも通り接してほしい。」
「それで、もし青山の気になることがあれば遠慮なく先生に相談してね。いい?」
案外、教室内は騒がずに先生の言う事を静かに聞いていた。夏休み明けということもあるのかもしれないが、彼はその様子を見て不安が解消していった。
「青山から一言ある?」
そう言われて少し沈黙する。
「お、俺も女子になって慣れてない部分があるので、いろいろ、迷惑はかけるかもしれませんが、手助けしてくれればうれしいです。」
彼はそう言った後、自分の席へ戻った。
彼は隣を見た。それを葉田がさりげない笑顔で返した。彼は、やりきった安堵感と解放感を感じた。
「悠太、よかったよ。」
「そうか?緊張しすぎて何も考えられなかった。」
「緊張しているようには見えなかったけどねー。」
「それに、みんな落ち着いて聞いてくれてたからよかったね。」
「ああ。変に接してこられるとこっちも困るし、よかった。」
「そうだね。」
*
5年程前、いつもと何も変わらない帰り道。一緒に帰っていた子と別れ、赤信号を待っている時だった。同じクラスの男子4人グループが近づく。
「お前いっつも女子とあそんでてキモい。」
そう言われたとき、ショックだった。今思えば、ただの嫉妬がエスカレートしていったのだろう。それ以降、その男子たちからのあたりが強くなっていった。次第に暴力も加わり、学校に行くのがつらく感じるようになった。あの頃、誰かに助けを求めればよかったのかもしれない。でも、それは自分がいじめられていると認めることになる。きっと友達が助けてくれる。結局、助けを求めることはできなかった。誰も助けてくれなかった。耐え難い辛苦に心は疲弊しきり、いつしか学校を拒むようになってしまった。
*
翌日の昼休み、彼は由夏と話していた。
「由夏、弁当一緒に食おうぜ。」
「そうだね。どこで食べる?教室?」
「ああ。屋上は暑いし、移動するのも面倒だから無難にここかな。」
「おっけー。じゃあ机合わせようよ。」
彼と由夏は机を向かい合わせに動かす。
「ねえ由夏。今日一緒に食べないの?」
「私たちと一緒に食べようよ。」
その時、二人の女子生徒が由夏に対して言った。二人の女子生徒、以前から由夏と特に親しくしていた二人。近野と会木だった。
「俺は一人で食べてもかまわな・・・
「ごめんね。私、今日は青山くんと食べたいの。だから今日のお昼は私抜きでお願い。」
「わかった。」
「そっかあ、明日は一緒に食べてよね。」
「青山くんも楽しんで。」
彼女らはそう言って去っていった。
「なあ。いいのか?」
「俺は別に一人で食べても良いわけで、由夏が一緒に食べないと二人には悪いんじゃないか?」
「いいよ。別にあの二人は私以外にも友達いるし、それにいつも一緒だったし。」
「ふーん。」
「悠太が女の子になった今、他の人と少しくらい関係が薄くなっても良いんじゃないかなー、って。」
その日から彼と由夏は毎日、昼食をいっしょに食べるようになった。それだけでなく、いっしょに帰るのはもちろんのこと、登校する時も授業も休み時間も一緒に過ごした。それは、それまでの彼の学校生活と比べて、楽しいものであった。彼にとって、学校とは空虚な時間を過ごすものだと思っていた。それが、由夏と過ごすことで日々が彩りのあるものへと変わっていったのである。彼は性別が変化した恩恵を充分に受けていた。これまでと比較したら、順風満帆な生活を送っている。それなのに、彼は心が満たされていなかった。
夜、部屋着姿の彼はパソコンに面向かっていた。
その様相は彼の現在の容姿にとても似合っているとは言い難い。パソコンの画面には、夥しい文字数のPDFファイルが表示され、彼はそれを血眼になりながらも読んでいた。ページタイトルには、「性に関連する希少疾患について」と書かれている。
彼は、由夏と日常を創り上げていく傍ら、自身が女性に変化した理由に疑問を感じていた。そして、暇があればこうして、関連しそうな文献を読み漁る。しかし、いずれの文献も性別が変化する病気など言及されておらず、全く情報を掴めていないのが現状である。
都内の有名な大学病院で診てもらい、それで性別が変化した理由がわからなかったので、彼が調べても無駄な徒労に終わることは明白であった。だが、彼はこの出来事にただならぬ気配を感じていた。直感的な嗅覚、それが原動力となっていた。
10月上旬。彼が女子として学校に通い始めてから一ヶ月たったころ。
「あー。こんなに辛いのか・・・」
「大丈夫?」
「下腹部の不快感がハンパない。」
「これ、病気かも。」
「ちがうよ。女の子の日って、そういう感じなの。」
「回数を重ねたら少しずつ慣れていくと思うよ。」
彼の年齢の女子は健康であれば約一ヶ月おきに生理が来る。彼の生理サイクルは今日、始まったようだ。
「あー・・・」
「だるいよー。」
「がんばって!昇降口まではもう少しだよ!」
「いや、ヤバいかも・・・」
「足元がクラクラする・・・」
「え?ほんとに大丈夫?」
「・・・」
「あっ、歩ける?」
彼は、自身の呼吸が重くなり視野が狭まるのがわかった。その場に重い体を屈ませて楽な姿勢をとろうとする。しかし、彼は意識が遠のいて、その場に倒れ込んでしまった。
「うん?」
───学校で画一的に使用されている白色蛍光灯。レールにぶら下がったクリーム色のポリエステル製カーテン。漂白したような白色で自身を覆う掛け布団。
彼が目を覚ました場所。そこは学校の保健室だった。
「起きたみたいだね。多分、貧血で体が慣れてなくて倒れてしまったみたい。」
「でも、周りに気が利く女子たちがいて良かったね。」
養護教諭と由夏が彼を囲んでいた。
「だ、誰がここまで運んでくれたんだ?」
「私とこの二人だよー。」
もう二人、女子が彼を囲んでいた。今野と会木だった。どちらも由夏と仲が良い女子だ。
「私一人で運ぼうとしたけど無理で、たまたまそこに2人が来てくれて手伝ってくれたの。」
たしかに、由夏が一人で運ぶのは無理だが、複数人で運べば話は違う。
「そうか。」
「3人ともありがとう。」
「どういたしまして、青山くん。」
「じゃあ、青山のことは先生に任せて。」
「あなた達は授業があるから、クラスへ行きなさい。」
「はーい」と、3人は返事をして保健室を後にした。
「先生。ありがとうございます。」
「いえいえ。むしろ、青山くんみたいな子をサポートするのが保健室にいる私の務めですし。」
「えへへ。毎度ありがたいです。」
彼にとって、保健室を利用するのは初めての経験ではなかった。多くの人々にとって、保健室とは怪我した時や具合が悪い時にしか利用しないものだろう。しかし、彼にとって保健室は学校の数少ない居場所の一つである。高校でひとりぼっちで過ごしてきた彼にとっては、教室の孤独で陰鬱な時間を過ごすのは耐え難い物である。保健室は、そんな暗黒な時間から逃避できる数少ない安全地帯であった。
「ところで、女子としての学校生活はどうです?」
「もう一ヶ月くらい経ちますけど。」
「今日みたいにまだ慣れてない部分もありますし、女子に全然追いつけてないなって所はあります。」
「でも、由夏とずっと一緒にいるおかげで一歩ずつ着実に女子に馴染んで来ているとは思いますよ。」
「そうですか。それなら良いのだけど。」
養護教諭はそう言いながら、開いていた保健室の扉を閉じた。
「女子になった理由知りたくないですか?」
「それはそうですけど。なんで突然?」
「そうですね。ちょうど昨日、気になる文献を見つけちゃって、それがどうも青山君に関係ありそうなのですよ。」
「え?」
養護教諭は彼にタブレットを渡す。
タブレットには、1999年に発刊されたある雑誌の1ページが載っている。
彼はそれを黙読する。
──二十八日、F県西部で行方不明の十七歳少年が少女の姿で県警に保護された。保護当時、少年はひどく困憊した状態であり、一時は意識を失っていたという。県警は当初、同少女が一人で山間部を訪れてた際に遭難したと考えていた。しかし、言動が今年4月に都内で行方不明になっていた少年と一致しており、精密検査をした結果、少年と同一人物だということが確認された。この失踪事件、不可解な事が多く、少年が失踪したのが平日正午の高校である点、そして、保護された少年が少女であり、失踪期間中の詳細を何故か話さない点である。警察は誘拐や少年の精神異常等を視野に捜査を進めている。──
彼は自身以外に男性から女性に変わった者がいることをここで初めて知った。あれだけ調べても、こんな情報は見つからなかった。この記事は彼にとって特大スクープである。
「この人が何で女性になったとか無いんですか?」
「それが、その記事にある通りその方が口を固く閉ざしているそうで、警察の捜査からは何もわからず。病院の検査でも身体に手がかりとなる異常な所見は見受けられなかったそうです。」
「え、結局分かってないってことですか。」
「そうですね。あと、本人の意向と信憑性の問題で文献も少ないみたいです。」
「へえ。」
彼は答えを得ることを期待していた故に、残念そうに呟いた。やはり、そう簡単には性別が変化した理由を知る事はできないであろう。
「でも、部分的なヒントを読み取ることは出来ます。例えば、この失踪事件を警察は誘拐と考えたそうです。」
「もし、誘拐犯と少年の性別の変化に関連があるとしたら、性別の変化は人為的なもので、青山君も何か関係あるかもしれません。」
実にオカルト染みた話である。
しかし、彼は今までそういった視点を持っていなかった。唐突に人為的に性別を変えられたという視点を突きつけられ、得体のしれない存在に戦慄した。とはいえ、このまま慄いたままであれば、墓場まで女性になった理由を知らずに過ごすことになるかもしれない。そんな中途半端な人生は嫌だ。このとき、心のなかで女性になった理由の真実を暴いてやろうという強い意志が生まれた。
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