愛せなくても生きていけるはず、と。

オカザキコージ

愛せなくても生きていけるはず、と

 なんとなく、でなく、もうとっくに、でもないんだろうけど、ただ認めたくなくて、そこから逃げて、とにかく日常へ埋没しようと、そこいらにいる人たちと同じように、そこにいるのだと、自分に思い込ませるのも、限界に来ていて。ここでなく他所にあることを、心身とは別のところにいることを、このアンビバレントを、相反の共存というか。この個体だけでなく、まわりのモノどもコトどもも、それこそこの世に一つと同じものはないにしろ、それぞれの組成を呪うのは止して。

 生れながらのものなのか、後天的に培われたのか、その両方が絡み合って、この性向を作り上げたってこと? LGBTQ+のようなセクシュアリティに関わっているようで、それでいて、より一般的な人間性に寄ったネイチャー、本性にも思えるし。それだけに厄介というか、タイプに落とし込むのが難しく、流動的でつかみ切れなくて、どうにもこうにもって感じになって。そこのところを括弧にいれて、触らずにいれば、意識の外へ置けば、日常は通り過ぎてくれる、たとえ一人取り残されたとしても。

 いざ関係性を結ぼうと、それがウェブ経由であっても、それこそアプリのマッチングでさえ、軽い感じ、ゲーム感覚でいられなくて、ぐっと心身へ引きつけられる段になると、どうしても怯んでしまう、けっきょくパスしてしまって。だからと言って、何ものとも関係しないよう、間合いを取りすぎるのも、あいだに浮遊するものを、目に見えない、かけがえのないものまでも霧散させて、元も子もなくなってしまいそうで。そのさじ加減というか、うまくアジャストできない、たんにそうなんだろうけど、どこまで関わればってとこが、まあその関係性がわからない、ただそれだけなんだけど。

 とくに彼というか、一般的にいう彼じゃないかもしれないけど、たとえば同世代の異性との、そうした対象との関わりがどうもしっくりこない、スタンスの定めどころがわからなくて。こうして向き合っていると、いったいこれはどういうことなのか、この感じって? 彼とのあいだ、その距離感を含めて、取り巻くまわりの情況に、どう馴染んでいけばいいのか、まったくどうしようもなくて。たんに意識が散漫になって、フォーカスできてないだけで、あっちいったり、こっちかもと、しっかり彼に照準を合わせられない、肝心なところを通り過ぎていって。

 プロセスの端緒はいいにしても、そのあとが続かなくて、進んでいくにつれて、こんなはずじゃなかった、ちょっと違うのじゃないと、後戻りしていくというか、なかばあたりで右往左往してしまって。けっきょくプロセスの、過程の終端へ行き着けない、歩んでいくうちに、立ちはだかる壁がどんどん高くなって、前を向くも無力感を覚えるしかなくて。脇道をうろうろ、辺りをキョロキョロしても、小さな抜け穴すら見つからなくて、地団駄を抑えるのがせいぜいのところで。どうしても彼のオーダーに、ちょっとしたディザイアにも、ほのめかしにすら対応できなくて、避けることしか、そこから逃れることしか、考えられなくて。

 それよりも元々、そうした道行きが、対象への、人への、彼への思いが存在しない? 相対的に希薄なのは確かなようで、少し何かを感じる程度で。いちおう起動しても、けっきょくプロセスをまっとうできない、成就しない、その手前で動きがとれなくなってしまうって…。自意識のせいにするのも、生理的にそうなってしまうものと、たんに臆病なだけで、ただ傷つけられたくないからで、その程度の軽傷ならば、べつにって。もっと根深いところで、潜在的にたゆたって、企みや偽りを押し付け合って、勝手に留飲を下げて目を交わす、そういうパラレルもあるのかな、と。

 だから厄介なそれを、外へ送り出したところで、無理に引きずり出しても、うまく動かないだけでなく、ただ自ら責めて自壊しそうで、もうやってられなくて。手加減せざるを得ない、ほどほどのところで止めておく、充溢しないように、こぼれ落ちない程度に。そのまま放っておくと、これまで見たことのない、おぞましい姿をさらしてしまい、もう引き返せなくなるのでは、と。ずっとそのプロセスの中を、行ったり来たりして、あたかも無限軌道へ投げ込まれているように、円環をぐるぐる回って、けっきょくのところ…。

                   ◆

 彼と会うのは久しぶりだった、べつに避けていたわけでも、嫌になったのでもなかったけど、三週間も会わなかったのは初めてのこと。だからなのか、でもなのか、少し不自然な気がして、振り出しに戻った感じがして、ホッとするというか、しぜん安堵の表情となって彼と向き合っていた。

 「どうしてたの?」。彼は、めずらしくアイスコーヒーを頼んで、不機嫌そうに聞いてきた。「あったかい方がよくなった?」。そんなことじゃなくて、文法的にもその言い方、おかしいし、ちゃんと答えてよ。彼の顔はそう言っていた、でも続けた。「顔色、いいじゃん。元気そう…」。なに言ってんだよ、そんなわけないじゃないか。たんに固かった表情に、ムッとしたものが加わり、ため息なのか大きく息をはいた。

 「どうする? とりあえずゴハンにする?」。よく行くイタリアンか、まあまあ雰囲気のいい居酒屋か、気分を変えてエスニックにでもするか。「まあ、ここでカレーとか、ピラフでもいいけど」。彼のレスポンスがあまりにも悪いので、皮肉のつもりはなかったけど、少し突き放すような言い方になった。

 「……………」。正直、ちょっと面倒になっていた。その雰囲気に、彼とのあいだの空気感に耐えきれなくなって、というわけではなかったけど。「とりあえず出ない? こうしていても…」。こちらの素振りに不満の彼を促して喫茶店を出たが、でもどこへ行こうか。普通なら足が止まるところを、そのまま歩き出した。彼も仕方なくって感じで、その場に止まることなく付いてきた。とにかく大通りへ出ればなんとかなるだろう、けっして安易な感じでなく、そうするほかなかった。

 「この先だと思うんだけど…」。ふたたび脇道へ入り、店を探した。喫茶店のあったところより路地裏感が増してきて、しだいに道が細くなり、迷路に入り込んだようだった。この時間にお酒を出してくれそうな店は、そこしか思い浮かばなかった。彼と来るのは初めてだったからか、後ろに続く、その足音は妙に弱々しく聞こえた。彼は心持ち身体を近づけて後に付いてきた。「ごめんね、なかなか見つからなくて」。けっこう歩かせたことが気になっていた。「いや…」。やっと口を開いた彼は少しおどおどしているように見えた。

 その狭い通りは一種独特で、露悪的な店構えと、通り過ぎる男同士のペアが、日常から離れた違和感を覚えさせた。さらに奥へ行けば、化け物でもいそうな感じだったが、そのなかで一軒、どこかの事務所のような素っ気ない感じの店があった。そこはゲイバーというより、彼らを含めてこの近辺で働いている人たちがちょっと立ち寄る店って感じだった。「やあ、久しぶり。元気にしてた?」。重たいドアを開けると、カウンターに肩肘ついたまま、マスターが軽く手を上げて迎えてくれた。

 「マスターも元気でした? きょうは…」。そう言って彼の方をチラッと見てカウンターに座った。いつもなら、ちゃん付けで呼んでくれるのに、きょうはよそよそしく丁寧な言葉遣いでオーダーを聞いてきた。彼らしき男を連れて来たからだろうけど、こちらも思わず注文したあと、お願いします、と付け加えた。彼はジントニックを、わたしはめったに頼まない、カンパリオレンジにした。たんに口当たりのいい飲み物を欲していただけで、それ以上の意味はなかったけど、いつもと違うのは確かだった。

 店には二、三組の客がいた。昼の営業から居続けているようで、テーブルにはコーヒーカップやオレンジジュースの残ったグラスが並んでいた。彼はホッとした表情で店内を見回して、少し身体の力が抜けたように見えた。通りの雰囲気から、いわゆるジェンダーフリーのややこしい人種がたむろしていると思っていたのか、ふたを開けてみると普通のバーと変わらない、そんな安心しているふうだった。「この店によく来るの?」。彼にしてはめずらしく、しぜん口をついたように見えた。「一人で何度か。マスターと話すのが楽しくて」。カウンターの向こうへ聞こえないよう小さな声で答えた。

 「これからどうする?」。このすぐあとのことなのか、これからの二人のことなのか。それとも、もういい加減に切りをつけようとしているのか、終わりにしたほうがいいということか…。どれをとっても、どこへ収斂しても、そうこれっきりになっても、構わなかった、彼と何をしたいわけでもなかった。「タイ料理とか、エスニックにする?」。まだ、午後五時を過ぎたころだった。このすぐあとのようにも思えたけど、なぜかだいぶ先のようにも思えた。「うん」。わたしは飲みなれない甘いカクテルに口をつけた。

 扉の開く音がしたので目を向けると、店に出る準備を整えたユウキさんだった。「やあ、今日は早いのね、どうしたの?」。そう言って隣の席へ座り、それとほぼ同時にマスターがソーダ―系のアルコールを出した。どうもいつものわたしでないと気づいたようで、横にいる彼へ目配りして、正面へ向き直った。話の持って行き場に困った感じに、マスターの背中へ話しかけていた。「ユウキさんもこの時間、めずらしくない?」。気遣うユウキさんに申し訳なくて、わたしはいつもの調子で聞き返した。

 楽しく会話している二人のそばで、彼が不機嫌な表情で正面を向いているのが、左の肩口から伝わってきた。「じゃあ、これで。また遊びに来てね」。そう言ってユウキさんは忙しそうに出て行った。彼は、彼女の違う一面を見てしまった、という以上に、見てはいけない、見たくないものを見たような、硬いを通り越して険しい顔になっていた。わたしはあえてそこに触れず、少しずる賢くやり過ごした。「そろそろ行く? タイ料理、近くにあるかなぁ」。カウンターに両手をやって、高いイスから降りると、まだ彼は座ったまま正面を向いていた。

 けっきょくタイ料理店は見つからなかったが、けっきょくどこのアジアンか分からない、同じようなエスニック料理店へ入った。彼は無表情というか、憮然として、いや不機嫌そうに付いてきた。わたしが奥の壁際の席に座ると、彼は斜交(はすか)いの通路際に腰を下ろした。向き合うのが嫌なようで、すぐにメニューを手に取り、せわしなくめくり始めた。わたしはラミネート加工したメニューを前にぼんやりとしていた。気がつくと注文を取りに店員さんがそばにいた。「このセットメニューにしない?」。薄っぺらいメニューを彼の前にかざし、了承を得ようとした。彼がわずかにうなずいたように見えたので「じゃあ、このセット二つ」。店のお兄さんはマニュアル通りにセット名を復唱した。

 彼は、料理が来るまで黙ってスマホを見ていた。同じように時間をつぶせばよかったけど、そうしている彼を、ただ眺めていた。彼と会うようになって半年ほどだった。たしかに手を握って歩くことはあっても、それ以上の進展はなかった。きっと彼じゃなくても、ほんとうに付き合っているのかどうか、不安になって来てもおかしくない状況だった。でも、彼からキスをされそうになったことも、深夜自宅へ誘われたこともないのだから、要するにそういう機会がなかったのだから、と心の中で言い訳していた。

 彼からすると、わたしにそうした隙がなかっただけで、見た目と違って思いのほかガードが固い、扱いにくい女、面倒な奴に見えているのかもしれない。果ては、ちょっとした行き違いや意識のずれで、付き合っているのかどうか疑わしくなり、それならばと別れる段取りを心の中で始める、そんな場面が幾度かあったのだろう、きっと。今夜もそう感じているに違いないし、こっちの対応次第では、悪気はなくとも態度を改めないと、あっさり引導を渡されてもおかしくない状況だった。そこまでわかっているのに、思い過ごしとか、けっきょく彼の本心なんてわかるはずがない、と自分に言い聞かせて、問題を先送りしていた。

 「マレーシア料理だって。まあ、おいしいけど」。彼も、ほとんど残さず食べ進んでいたが、斜め向かいだからか、レスポンスは相変わらずで、言葉少なだった。だからと言って、もうここでおしまいに、こっちから彼の思いを汲んで、先手を打ってあげるのも、ちょっと違うのかなって感じで。でも、内心にかかる負荷は間違いなく積み重なっていくし、このまま行けばトラウマの一つに、軽度だけど状(情)況によっては、今後のプロセスにけっこう影を落としそうだった。「やっぱり、ココナツミルク気になる? 大丈夫だった?」。彼は少しだけだったが、表情を緩めて肯いた。


 その日は、それで別れて、ひとり駅へ向かった。もうひとつ体調がよくないってことにして、笑顔を控えめに顔色悪く見せかけて、でも実際は間合いを取るのに疲れていたし、もう話すこともないし、そう顔を見るのも…。彼と、こんな感じだから、友だちに相談しようにも、うまく伝えられなくて、それこそ、半年そこそこでもう倦怠期と笑われそうだし。ふつうならぐっと上がらないと、少なくともフラットにもっていけるような、ちょっとした気休めになるはずなのに、こうも下がってしまうなんて。まあ、世間では痴話げんかぐらいにしか、言い争いのない、内にこもった神経戦とか、そんな感じにとられるのだろうけど…。

 けっきょく、最寄り駅まで帰るしかなくて、せっかくでもないけど、近くのコンビニに入って、高めのデザート買うぐらいしかなくて。マンションへ戻るなり、冷蔵庫開けて缶ビール片手にソファーに身体を沈めるとか、意味なくテレビをつけてすぐに消すのも、スマホを開くのさえおっくうになってさえ。でも、一つのことだけ、頭に浮かんで来て、気がつけば二時間も経っていて、慌ててシャワーを浴びにいって、ベッドへもぐりこんで。強く目をつむるも、よくわからないイメージがぐるぐる回って、そんなふうだから、肌もカサついて、内側も乾いて、何もかも、やる気をなくして、ただ。

 規則正しく執拗に、当たり前のようにめぐって来る、この日々を糧にして、なんて気分、一度も感じ覚えた例(ためし)はなかった、ような…。デイリーをトレースしていく、日常を寿ぐ、なんてこと、そうかんたんにはいかなくて。そこいらじゅうに張りめぐらされた、ヒトやモノ、コトを取り囲むように配置されて、関係性を強いられて、逃れられなくて。こうして鏡の前で、顔をのぞき込み、アイラインを引いて、鼻筋にシャドーを効かせて、頬のハリを際立たせようとしても。少しはそこに馴染もうと、生きていく糧を得ようと、集中力を高めようとしても、微妙に震えてしまう、そう簡単にはいかなかった。

 「おはよう。滅入っちゃうね、また一週間」。月曜の朝らしく、ちょっと暗い顔したヒナノが後ろから声をかけてきた。会社が入るビルのエントランスでエレベーターを待っていた。「うん、あっ、おはよう…」。言葉を継ぐ代わりに、顔をしかめて返事した。「久しぶりにゴハンいかない、金曜日に」。エレベーターから降りてすぐに言ってきた。「いいよ、ちょうど…」。そう言いかけて、前から会社の人が来たので、二人して目礼して顔を見合わせた。「じゃあね、お昼に」。ヒナノはそう言って、総務課の方へ行ってしまった。

 営業企画課にいたけれど、ほとんど外へ出ることなく、いわゆる営業補助、コピーしたり資料を整理したり、ときに雑談に付き合わされたり、と体よく雑用をさせられていた。配属された当初は、お得意様の折衝とか、販促の提案など、営業や企画の最前線で少しは力になれるものと意気込んでいた。たしかに一般職で入ったのだから、そう簡単にいくわけはないのだけど、なかには総合職でなくても課長とか、いいところまでいった例もあって、変に期待してしまったところがあった。それはともかく、仕方なくパソコンを開くしかなかった。

 “どこにする? なにがいい?” ヒナノからスマホに着信があった。あと十五分ほどでお昼だった。“ずっと前に行った、裏通りの喫茶店はどう?” おいしい料理やおしゃれな感じより、混んでいない、できれば客のいないところがよかった。“じゃあ、そこに。ジャストに出ようね” 会社から少し離れていたので、出足が肝心だった。少なくとも五分前には、跳び出す準備を整えておかないと。パソコンには向かっていたが、意識は昼ごはんへいっていた。その甲斐あって、エレベーターで待つことなく外へ出られた。「ちょっと遠いけど。悪いね、付き合いさせて」。ヒナノは、別にって顔して、先へ歩いていった。

 ひとりも客がいない、というわけにはいかなかったけど、カウンター席に二人いるだけだった。奥の四人掛けテーブルに向かい合って座った。よくある軽食しかなかったが、サラダと飲み物がついたランチセットがあった。ヒナノはスパゲッティ、わたしはオムライスにして、ホールのお姉さんを呼んだ。この分だと、早く料理が出て来るだろうと、スマホを開かず、ぼんやりとしていた。「金曜日、どこにする? 何食べようか? そのあと、久しぶりにカラオケ行く?」 ヒナノは、スマホから目を離さずに聞いてきた。「そうだね、いいね。いい店ないかな?」 わたしもスマホを手に取り、グルメサイトを開いた。

 午後からが長かった、きょうは特にそう感じられた。週始めの倦怠感も相まって、時間がスムーズに流れてくれない。これほど遅々として進まないのは、これまでなかったような気がした。こんなときは、目の前のことに、興味がなくても仕事に、意識をもっていけば、少しは時の流れに乗れるのに。こんなことがずっと続いてきたし、これからもその繰り返しだと考えるだけで、気が遠くなるような、気分が下がるいっぽうだった。できるだけ週末のことだけ考えて、うまく想像が及ばなければ、今日の夕食、好きな高めの総菜買って、ビールはおいしいのにして、デザートは生クリームたっぷりの…。

 優先順位がどんどん下がっていくというか、彼のことを考える時間が減っていくのがわかるし、ただの友だちの一人なら、なにも問題はないのに、変に特別な存在にしてしまったから、ふつうに戻すのが面倒で、厄介で、後悔後を絶たず? いまさら一介の男友だちに、成り下がってもらうなんてできないし、そもそもこれまで男友だちって言える異性いなかったし。それに、こっちから動くのもエネルギーいるし、もうそんな余力も残ってなくて、彼に対して。けっきょく成り行きにまかせるしか、ただ内側のものを消耗するだけで、こんなことだから、いずれ抜き差しならぬ状(情)況になるの、目に見えているのに。

 “いっそのこと、金曜日、泊りがけでどこか行かない?” 週半ばの午後三時、ヒナノからラインが来た。ちょうど、彼女の近くへ、けっこうな枚数のコピーを取る用があったので、小さなポケットにスマホを突っ込んで、席を立った。総務課のそばにあるコピー機の前に立って横を向くと、ヒナノと目が合った。笑顔でうなずくと、彼女は小さく手を振って、すぐに下を向いた。すると、スマホに着信音が届いた。“作戦会議、開こうよ、このあと” こちらも作業の手を止めて、スマホを取り出し“わかった”と送った。会社終わりに、例の暇そうな喫茶店で急きょ、週末旅行計画を立てることになった。

 「やっぱり、近場の温泉かな」 もうすでに、けっこうリストアップしているようで、ヒナノのスマホをのぞき込みながら、こちらの要望を伝えた。一時間ほどかけてやっと三つまで絞り込み、あとは細かいところを比較検討するだけになった。「よく言うけど、こうしているときが一番楽しいね」。取るに足らない日常会話を交わしながら、ヒナノはアイスティー、わたしはカフェオレを前に計画を詰めていった。けっきょく、特急電車と普通列車を乗り継いで三時間ほど、日本海側の温泉地に落ち着いた。すぐに予約を入れて作戦会議は無事終了、あとは旅行当日までヒナノと、いつも以上に楽しくやって…。

 それでも気分がうまく上がらない、すぐ先に楽しいことが待っているのに、いま取り立てて嫌なこともないのに、どうしてこの落ち込み、うまく払拭できるのかどうか、ちょっと自信がなくなっていって。なにがこんな感じに、たんに自律神経に原因が、脳のどこかに欠陥があって? きっと一つだけじゃなく、複雑に諸要因が絡み合っているのだろうから、そうかんたんには…。でもそんな難しいことじゃなくて、ただ内側に、いろんな波立つものが、不安とか悲しみとか、そういうものだけでなく、ふつうなら前向きにさせてくれる、ちょっとした可能性とかも、逆回転させるというか、うまくかみ合って回ってくれない、そんな感じだった。

 “今度、いつ会おうか” 彼からのラインだった。このまえ久しぶりに会って、それからもう一週間が過ぎていた。スマホを前に、追い立てられているような、強いられている感じがして、さらに暗い気持ちになった。なかなか返信できない、でも既読のまま放っておくのも、責められているようで、チクチク刺さる感じがして、居たたまれなくなって、自意識過剰と言われようとも。付き合っているから、この関係を保とうとしているから、当然のようにプロセスが進んでいくから? ワン・オブ・ゼムなら、特別でなく、周りの人と同じ、たんに第三者の彼なら、こんな思いをしなくても…。そろそろ、いやとっくに、キスとか、それ以上のこと、求められる時期なんだろうけど、あたまもからだも動かなくて。

 “実家へ帰るので…” とりあえず、そうして逃れようと、会えない理由が底をつきそうで、このままではいずれ、ごまかしが効かなくなるし、もういっそのこと、彼の前から姿をくらます? そんな度胸もなくて。まるでストーカーから逃げてるみたいに、具体的に何かを強いられたり、もちろん暴力や脅迫もないのに、はっきりしない圧に気分がどうも…。ただこれ以上、関係性が深まらなければ、できれば現状をキープして、それこそ身体的な接触もなく、いわゆる生理的なプロセスを回避できるなら、なんとかいけるかも? たんにセックスするのが、もっと言えば、粘膜と粘膜とを、自分のでない体液と相まみえるのが、その違和感、嫌悪感をイメージするだけで、身も心も壊れてしまいそうで。

 「おはよう。あした、楽しみだね」。金曜日の朝、ヒナノが後ろから声をかけてきた。あと七、八分ほどで始業時間なので、立ち止まって話せなかった。“お・ひ・る・に!” 先を急ぎながら後ろを向いて、口パクで離れていった。わたしは小さく手を上げて応え、了解というふうに大きくうなずいて見せた。この件に関する作戦会議は、あの少し離れた喫茶店と決まっていたので、正午になる三分前には、すぐに出られるよう準備した。彼女はエレベーターの前で待ってくれていた。「うまく出られたね。営業企画部、午前中会議だったでしょ」。ヒナノは、開いたエレベーターの中へ入っていった。

 「まだやってるようだけど、出てきちゃった」。ほかに誰もエレベーターに乗って来なかったので、ふつうのトーンで言った。「べつに居ても居なくても。気づかないよ、きっと」。笑いながら、そう続けた。ヒナノは何も返して来なかった。「わたしね…」。その代わりでもなかったけど、彼女は少し真剣な面持ちで話しだした。「喫茶店に着いてから、ちゃんと話すつもりだけど…」。一階のエントランスを横切りながら言うので、思わず足を止めそうになったが、彼女はそのまま進んでいく。「わたし、会社辞めようと思ってるの」。さすがに驚いてしまって、そんなこと考えていたなんて、少しもそんな素振り、見せなかったのに。「えっ!」。まったく気づかなかったことに、そっちの方がショックで、彼女が辞めることをさておいて、一瞬すべてが止まって見えてきて…。

 「まだ、誰にも言ってないんだ」。喫茶店に入って奥の席に座るなり、そう言ってスマホへ目を落とした。「そうなんだ。前から決めてたの?」。あえて原因を聞かなかった。「どうだろう。だいぶ前のような気もするし、でも最近はっきりと」。そういうもんだよね、いつからって聞かれても。「まあ、それなりに長いよね、ヒナノもわたしも」。入社してわたしが八年、彼女が七年、もうすぐ三十…。だからどうってことないけど、ぜんぜん気にする必要ないけど、ふつうにそう感じてしまって、よくないこと、わかってるけど。「うん、べつに結婚とか、そういうのでもないし…」。彼女は、アイスティーにストローを入れて、氷をかきまぜた。

 ここで身を乗り出して、とやかく聞くのもどうかと思い、できるだけいつもと変わらないようして、興味本位とは思わないだろうけど、根掘り葉掘り聞くのも違うだろうと、この件に関しては。彼女の思うように、話したいときに、しっかり向き合えるときに、ここはあえてレスポンスを抑えて、詳しいことは旅先で、というのが無難なようで。「何時にする、集合時間?」。特急電車は午前八時十五分発だった。「三十分ぐらい前にする? 七時四十五分、早いかな」。こっちは四十分前でもいいぐらいで、何かあったときのことを考えれば、でもここはヒナノに合わせて。「了解。楽しみだね」


 駅のターミナルに着くと、ヒナノが待ち合わせ場所にいた。列車が発車するまでまだ、四十分もあった。足元に置いた大きなバッグを拾い上げ、笑顔で駆け寄って来る。「早いじゃん。わたしも、いま来たところ」。これならゆっくりと、駅弁とかお菓子買えるし、ぶらぶら構内を見て回れるし、それだけで気分が上がっていく?   「これってお土産? でもいいか、列車の中で食べちゃおっ」。さっき買った、幕の内っぽい、それにしてはかわいい包装の弁当のあとに食べる、お菓子を手にして、ヒナノは満面の笑み。「いいねぇ」。もう他のことは、浮世のことっていうのかな、すべて忘れて、旅気分に浸ろうと、彼女もわたしも、かなり前傾姿勢で、そう何かを打ち消そうとするかのように。

 「もうあと十分ぐらい? 乗り換えだよね」。ヒナノはそう言って、荷棚に上げたカバンを下ろそうと中腰になった。「危ないよ、止まってからでも」。わたしは、よろける彼女の腰の辺りを支えながら、太ももに力を入れて身構えた。「ごめん」。ヒナノは、カバンとともに座席へドスンと腰を下ろし、照れ笑いを浮かべた。乗換駅に降り立つと、空気がひんやりと感じられ、心なしか身体が軽くなったような気がした。駅前のロータリーにバスが二台停車し、山裾に住宅街が広がっていた。隣のホームに大きな音を立てて、二両編成の列車が入って来た。

 「これってディーゼル音? からだに伝わってくる」。鉄道オタクではないだろうけど、ヒナノはうれしそうに車内を見回した。二両編成の後ろの車両、わたしたち二人だけだった。 「なにか楽しいね。どこへ行くの?」。もちろん行先は決まっているけど、温泉地までたしか、あと三十分ほど、見知らぬ地へ連れて行ってくれる。ファンタジーの世界とまではいかなくても、これから川沿いの渓谷を、緑の中の赤い鉄橋を、切り立つ断崖の淵を、さらに奥へ奥へと…。何となく想像していたことが、次から次へと展開されていくのだから、ほんと不思議、いつもここにある、ふつうの景色にすぎないのに、この内側にあるものが…。彼女とわたし、車窓を流れる風景とともに流れていく感じだった。彼女は、目を細めて遠くを見つめたかと思うと、大きく目を見開いて、吹き出すように笑っていた。

 「このしーんとする感じ、なんて言うのかな」。ディーゼル列車が駅へ止まるたびに、身体に響く音が止んで、時も、隔たりも忘れさせてくれる、そう、“静寂”という難しい言葉が出て来なくても。「もうそろそろ? 次の駅ぐらい?」。ヒナノとわたしは、向かい合ったシートにはすかいに座り、隣に大きな旅行カバンと小さなショルダーバッグを置いていた。彼女の予想は当たっていた、しだいに視界が開けていき、小さな駅が見えてきた。「着いた?」「着いた…」。仲良く復唱してホームに降り立つと、てっきり無人駅と思っていたら、改札口に中年の女の人が立っていた。

 軽く頭を下げて切符を渡すと、そのおばさんはその場を離れて、通り過ぎるわたしたちに付いて来た。いや、そう見えただけで、すぐにわたしたちから別れて、駅に併設させている食堂兼売店の中へ入っていった。そっちへ気を取られて、迎えに来ていた旅館の人に気づかなかった。「あっ、ごめんなさい」。そう言うと、迎車の運転手さんは丁寧に頭を下げてワゴンのスライド扉を開けてくれた。「どうぞ、中の方へ。ごゆっくりと」。旅館までの十五分ほどのあいだ、ヒナノとわたしは変にはしゃぐでもなく、着いたらまず何をしようか、小声で話しているのがおかしくて、こみ上がってくる笑いを抑えるのが大変だった。

 通された部屋は思っていたより広く、調度品も高そうな感じで、少し緊張した。これも広く大きい座卓を前に、二人して顔を見合わせた。わたしたちは立ったまま、女中さんから部屋の設備や備品について説明を受けた。「どうする? お風呂、入る?」。女中さんが出ていったあと、“それがいいね”ってことになったけど、その前に浴衣に着替えて、髪をアップにして、化粧も確認して…。ということで、お風呂場へたどり着くまで一時間余りかかってしまった。日ごろ、お風呂好きというより、烏の行水のくちなんだけど、ヒナノとゆっくり三十分以上、湯浴びを楽しんだ。「ほんと、生き返るね」。出たあとの休憩処で飲んだ冷水が、身体の隅々まで行き渡り、力を抜けていくようだった。

 まだ夕食には時間があったので、辺りを散歩することにした。温泉街というほどの、土産物店も遊び場も充実していなかったが、小洒落た感じの雑貨店とか、こじんまりとした甘味処とか、女子が喜びそうな店が一、二店あって、どうにか旅情気分をあじわえた。こういうの、鄙(ひな)びたって言うのだろうけど、ヒナノにもわたしにも、いまの心情にしっくりきていた。余計で必要以上なもの、意味なく行き過ぎたこと、豊かなようで内容のない、そうした日常的なモノやコトから離れていたかった。ヒナノはどうかわからなかったけど、わたしの方は、久しぶりに心と体がうまく重なり合うというか、ストレスフリーに近い、もっと言えば恍惚(こうこつ)に揺蕩(たゆた)うというか。

 夕食は、お部屋食だったので彼女とゆっくり向き合い、時間を忘れておしゃべりできた。「なにをやりたいってこともないんだけど…」。ヒナノは、会社を辞める理由を探しているようだった。「…でもこのままってわけにもいかない感じで」。そう続けたあと、箸を置いてため息をつくような仕草をみせた。「わたしなんて…」。そう言いかけて、言葉に詰まってしまって、どんな返しを、この空っぽのわたしが…。「うん、なかなかうまくいかないね、お互い歳とったからかなぁ」。逆に彼女がフォローしてくれた。「まあ、いいじゃん。とりあえずってとこで」。めったにしない、真剣な話に“とりあえず”もないだろうけど、答えにならない頼りない返しをして、さすがのわたしも自己嫌悪というか、少し情けなくなった。

 だから、これ以上突っ込んだ話にならなくて、でもヒナノだってけっきょく、わたしのような頼りない友だちに相談しても仕方ないってこと、わかっているだろうし。部屋の隅でなくても、どこかでひとり自分と向き合い、辛く悲しくとも、正解から程遠くても、それなりの答えを導き出すしか、そうしてやっていくしか。わかっていたけど、ヒナノもわたしも底が知れているというか、これまでずっと浅く空っぽな日常しか相手にして来なかったこと、いまさら後悔しても…。「けっこう食べたね、もう入らない」。彼女は、水菓子のデザートを前に満足そうだった。「わたしも。ちょっと時間おかないと(入らない)」。そう言いながらも、小さなフォークを手に、旬の果物のひとかけを口へ運んだ。

 「これ見てよ。こんど会おうかと思って」。敷かれた布団の上に寝転んでいると、ヒナノが身体を寄せてきた。スマホには男たちの写真が並んでいる。「婚活アプリ? やっているの? へぇ~」。べつに感心してってわけじゃないけど、どんな感じなのかなぁ、と関心をもって眺めていた。「やばい人もいるんでしょ? なんか怖い感じがして」。ヒナノの説明では、いわゆる出会い系としっかり差別化ができていて、安心とまではいかなくても、十分使えるツールなのだという。実際やってみると、ちょっとした写真の修整や、あやしいプロフィールは散見されても、たいていは許せる範囲で、それに合わせてこっちも加工して、体裁を取り繕って、ということらしい。

 「これって人、いるの?」。そうそういないってことだけど、アマゾンで商品を見比べるのと同じで、けっこう楽しいし、何度も見ていると、いいように見えてくるモノ(者)もいて。「どう、この人。一橋大出の銀行員だって。顔もまあまあだし…」。たいして興味はなかったけど、テンション高めに反応した、しょせんアプリだし。「いいじゃん、エリートでその顔なら。わたしもやろうかな」。冗談のつもりだったけど、ヒナノは前のめりになって語り出した。「結婚だからね、三十過ぎの女子だし、もうこんな感じでしか…」。登録の仕方を教えようとするので、また今度というふうに身体を起こした。そもそもツールで結婚相手を探すなんて、まだそこまで割り切れないし、やっぱりなんか寂しいし、そんなこと、上がるどころか下がってしまうし。

 ひとり朝風呂に入って部屋へ戻ると、ヒナノがはだけた浴衣姿でぼんやりと外を眺めていた。言葉をかけるのを躊躇(ちゅうちょ)していると、何とも言えない笑みを浮かべてこちらへ振り返った。これまで感じたことのない、妖艶さというか、同じことだけど、色っぽさに思わず目をそらし、どぎまぎした。それでも不思議な力で彼女の方へ引き寄せられていく、気がつくと彼女をやさしく抱いていた。外形的にはハグのように見えたかもしれない、でもそれよりも強い感覚というか、なんとも表現しようのない、それでいてしっかりセクシュアリティにかかっていて、身体の、芯が熱くなるというか…。わたしはハッとして彼女から離れた、これはいけない、やばい感じになっていく、彼女はキョトンとした表情を見て、われに返った。

 朝食は、バイキング形式で見晴らしのいい会場に用意されていた。取り立てて食べたいものはなかったけど、朝の食事としては十分だった。取りすぎに注意して腹七分、六分程度に抑えようと心がけた。午前中に観光して、お昼にこの土地のおいしいものを食べようと、だから朝からおなか一杯にしたくなかった。ヒナノも同じ思いなのか、フレッシュジュースとコーヒーをゆっくり楽しんでいた。「もう一日ぐらい、いたい気分だけど…」。そう言うと彼女はにっこり笑って、わたしに代わってあとを続けた。「…まあ、あまりゆっくりし過ぎるのも。このぐらいが…」。その通りと二人、ゆるくうなずき合った。

 帰りの列車は想像していた通り、うら寂しい、なんとも気だるい気分になって、二人とも言葉少なに座席に収まった。こんなに買って、誰に渡すのかって思うぐらいの、お土産の入った大きな袋を横に置いて。「楽しかったね、また行こうね」。どちらかともなく、そう言うと寂しさが増してきて、どうにもこうにも支えきれなくなって、心も体も、オーバーじゃなくて。「………………」。しぜんヒナノの手の上に掌を重ねていた。その上に、彼女がもう一方の手を乗せてきた。乗換駅に着くまで、ディーゼル音も耳に届かず、時間が止まっているような、どこを走っているのか、列車で移動している感じもなくて…。“わたしたち、どこへ行くの?”


 いっしょに暮らす母親の様子がこのところ、おかしかった。もともと仲のいい方じゃないけど、妙に避けているような、それでいて何か言いたげな、いつもと違う空気感を漂わせていた。だからと言って、彼がいるかどうか探りを入れてくるとか、ちょくせつ結婚について聞かれることもなかったし、ただ三十路に入った娘の身を案じているだけなのか、親としてそうなんだろうけど。だけどこっちはいつにも増して、距離をとってしまって、雰囲気をどんどん悪くして、夕食で一言もしゃべらずにってことも、一度や二度じゃなくて、けっか小食になってダイエットにはちょうどいいけど。

 この小さな家で、二人きりになって、どのぐらい経つのかって、たまに考えるけど、ただ父親が居なくなって、家の中が静かになっただけ、けっきょくそれ以上は何もなくて。母とわたしの関係が、とくに変わったという感じとか、母娘の絆が深まったという感じもなく、この日常生活で変わったこと、意識の上での変化って、すぐに思い浮かばなくて。そんな感じで十五年ほど、こうして母と暮らしてきて、そう、お互い歳をとって、相貌が衰えるだけでなく、知らぬうちに内側を削り取られて、どんよりと鈍くなって、どうでもいい部分も増えていって。そんな彼女とわたしの関係だから、話し合うといっても、おのずと限界があって、ほんとうのところ、お互い何を考えているのか、探り合うのも面倒になって、このままズレや隔たりを残して、波風立てずにやっていければって思っていた。

 四十歳を過ぎたころ、母は大病を患った。婦人系の病気で大きな病院に入院し、そのあいだ足しげく病室へ通った。四カ月ほどだったが、家と病院を行き来するなかで、いろんなことを思い、考えた。確率は高くないものの、最悪の事態も覚悟して、と手術前に医者から言われたときは、さすがに足が震えて立っていられなくて。どこかに父親はいるものの、まだ十代で実質一人残されてしまう、このリアルが迫ってきて、息もしづらく、すべてが、この日常も、周りのモノどもコトどもも、この身も、もちろん一番厄介な心も、うまく保てなかった。

 だから、同居人の様子がおかしくなると、表面上はともかく、けっこう内側にダメージが、ここは心から身体へと、わたしの場合、首の筋が痛くなって、日ごろ肩こりもないのに、きくところによると、自律神経が影響している、と。休みの日もほとんど家にいる、三十過ぎの、変り映えのない日常にどっぷり浸かっている、このわたしだから、ちょっとしたことでも、たいしたことでなくとも、しぜん表情がくもり、要らぬ心配をして、身体の調子を崩してしまう。ただ、このわだかまりというか、二人のあいだに存在する、どんよりとした空気感から逃れようと、それに少しは彼女を楽にしてあげようと、だから気が進まなくても、他人とつながろうと、でも心貧しくなるばかりで。

 「これおいしいね…」。そんな言葉しか出て来なくて、それこそ意識しなければ一言もしゃべらずに終わっているところを、なんとか絞り出して。「いつもと違う調味料、使ったからかな。あれ、何て言ったかな」。外で食べる中華料理のようで感心しているふうでいると「ところで」と切り出してきた。「知り合いから、いい話があるって。どうする?」。彼女にとってはこのタイミングで、ということなんだろうけど、いつ言われても答えは同じで。「お見合いってこと?」。不機嫌そうに言うと、軽く手を振って続けた。「そんな堅苦しいものじゃなくて。最近では…」。そういう母の言葉を遮って、わたしは首を振った。「いいよ、面倒くさいし。それに…」。こんどは彼女の方が強引に言葉をはさんで来た。「でも、このままでは…」。こんな母娘の会話、そんなやり取り、陳腐なテレビドラマじゃあるまいし、笑ってごまかそうにも、気分が悪くなって、吐き気をもよおすほどで。

 「その知り合いには悪いけど、うまく断っておいて」。そこは大人になって、ムッとした気持ちを抑えて、それ以上なにも言わずに、微妙な笑顔まで浮かべて。「そう…」。残念な素振りを見せまいとする母親の、痛々しいけど、同じようにムッとしたその表情に、いくら母親でも大きなお世話と、苛立ちが増して睨みつけて。この件については、もうこれっ切りで関わらないでほしい、母親として気持ちはわかるけど、アンタッチャブルに放っておいてほしい、結婚なんて。いちおう専門職ではあるものの、女がひとりで生きていくのは大変と、離婚を経験した者として心配なんだろうけど、女にとってソレがすべてじゃないし、そういう関係性がしっくり来ない、違和感を覚える者だっているってこと、そろそろわかってくれない、と。

 どう生きていくべきか、なんて、考えようにも、そうたやすく答えの出る話じゃないし、そもそもふつうに人が考えるべき問いでもないというか、少し精神を病んだ人が、それこそ哲学者とか思想家なんて人たちが試みるべきで、あとはデイリーに振り回されながら生きていくしか、深く考えずにやっていくしかなくて。等身大の、ほんとうの“わたし”を目の前にして、ふつうは嫌悪感しか覚えないけど、嘔吐しそうになるのをぐっとこらえて、平気なふりして淡々と、こなしていくのがせいぜいで。けっきょく答えのある問いじゃないし、どうしようもないけど、弱っているときに、どうにかしようと足掻いてしまって、このふやけた、手ごわい日常のなかで。

 関係性というか、関わり合うことに、ヒトに限らずモノやコトに対して、もういいやと面倒になって、放り出してしまいたくなる、そういう、けっきょく死ぬときはひとりなんだと、自分に言い聞かせるように、ぶつぶつ言って。こうして内にこもって、デイリーから離れて、ずれて、ひとり立ち尽くして、何かを引き出そうとしたところで、いずれにせよ最後は。たとえプロセスがどうであろうと、その時々の原因と結果に一喜一憂しても、しょせんはってこと、どうにもならないってこと、わかっているつもりでも。一つひとつの積み重ねで、けっきょく過程が成り立って、最期が来るのだとしたら、どうしてもジタバタしてしまって、これも世の常とかわすには幼すぎて。

 同時に、それと並行して、じっとしていても、ふつうにヒトとかかわり、モノを手にしたり、コトとともにあると、しぜんそうなるし、避けて通れないことだし。めずらしくフラットな感じに、希望を持てずとも嫌悪感を覚えずに、ただ居られたらそれでいいと、日常を寿いで。そうそう意識しなくても、関係性のなかへ、この身をおいて、安らぐとまでいかずとも、なんとかデイリーをクリアして、まあいいかなって振り返れるのなら。べつにプログレスなんて、だからと言ってイーブンも、せいぜい漸減ぐらいにとめておいて、しっくり収まってくれるのなら。シークエンスに繰り返し、プロセスが円環をなすのならば、オーガニックの枠からはみ出て、無機の世界で漂うのも。

 よく言う、生理的に受け付けないって、理屈じゃなくて、ものの理(ことわり)を超えたところで、それこそ感じることに、未来を見通すまでいかなくとも、この感覚というか、そのベクトルを、関係性へ向けて放そうにも、沿わずに馴染まなくて、媒介を拒んで。けっきょくダイレクトを寿ぐも、そんな感性に見合う、ヒトやモノゴトに、めったに遭遇できず、ただ漂うだけで、マッチングへの確信が持てなくて。そんなこんなだから、機会を捉えられなくて、いつまで経っても、関係性のなかへ、心身を浸せずに、ひとり暗い部屋のなかで膝を抱いて。


 そこまでして関係性を結ぼうとしなくても…。どうしたことか、アプリの男と会うのだという。ヒナノにしてどうして? 彼女はべつだと、もちろん他人なんだし、すべてわかるはずもないけど、それにしても。たんにSNS的に、そういう次元だから、遊んでいるだけだと、でも実際に、それこそ三次元でかかわろうなんて、どうしたの、何か余程のことがあって? 人との関わりでアプリって、ふつうで当たり前なんだろうけど、使いこなす以前に、生理的に受けつけなくて、嫌悪感とともに吐き気を覚えてしまって。旅行のときの話では、ちょっとやってるだけ、ほんの興味本位って言ってたのに、出会い系でなく婚活のアプリだから構わない、そういうことなんだろうけど。

 ここで愛に引きつけても仕方ないと、そう、国の制度のなかで、社会を安定させるシステムの一つとして、相当レベルの低いもの、そういうマッチングのシステムなんだから、もともと結婚って。本来あるべきこと、かけがえのないものから遠く離れて、だから、アプリを通じた、不自然で味気ない、たとえ端緒がそうであっても、そこで出会って付き合い始めるのなら、意味のないものじゃない、結果よければってことなんだろうけど。でもやっぱり、プロセスが肝心だと、ただ生活のために、と言わずとも、しっくりいかなくても、それこそ生理的に合わなくても、それでも生きていくには仕方ないって、そんな…

 「怖いもの見たさでちょっと開いて…」。その程度のものだから、とヒナノの言うのもわかるけど、そこまで行くのが、なかなかむずかしくて、頭のどこかに出会い系のイメージがあって、間違いなく玉石混交なわけで。そのなかから“珠玉”を、雑多な石ころを避けて、そのうえで好みのタイプを選び出し、さらに相手にも気に入られて、めでたくマッチング、そんなプロセスを考えるだけで、途方もなく、気分が悪くなって。先入観で事を判断したり、偏見をもって対処するのは良くないの、わかってるけど、でもそんなふうに思ってしまう、人の弱みに付け込んだ、生業として質の悪いものなんだから、こんなアプリ…。

 こんな具合だから、男だけじゃなくて、人との出会い全般も面倒で臆病になる、それならできるだけ、関係を持たないように、独りでいるほうが、どれほど楽かとふつうに思ってしまって。余程のことがないかぎり、関わらないほうが、その方がしぜんにいられるし、自律神経のバランスを崩さなくて済むけど、日常をこなすには、それなりの関わりが、ヒトに加えてモノやコトとの関係も、避けるわけにはいかないって。けっきょく、そうした対応で精いっぱいで、それに加えて深く関係を持つなんて、そんな余裕、どこにもなくて、洪水のように押し寄せてくる、デイリーの細々としたモノどもコトどもに、どうにもこうにもっていうのが実感で。

 日々波風を立てないように、無難に暮らしていければ、退屈は承知のうえで、それでいいと、そう無理強いして? 何よりも凡庸な日々を営む能力が、それに耐えうる感覚が、納得させようとする思考が求められるって…。そんなふうだから、なにか物足りないとか、意味のない焦りとか、理由のない落ち込みが、ぼんやりとした不安が徐々に身体を、心を壊していくって。そう、精神と肉体が乖離しないように、ちょっとしたズレや隔たりでも警戒して、できればグリップを効かせて、ぐっと踏ん張って、ときに修正しながら生きていく、そんなプロセス、リアルに感じられなくて…。

 そもそも一つの個体が、移り変わる社会のなかで、ソリッドなソサエティのもと、うまくやっていけるはずないと、多様化・重層化しているのに、とにかく秩序を保とうと、それでいてズレや歪みを生かして、構造を破壊したり、立て直したり、そんな過程に巻き込まれて。それこそ心も身体も引き裂かれんばかりに、内なる宇宙のなかで、塵のごとく浮遊して、すべてを委ねるしかなく、無限軌道を漂うように。そこに生の本質が、自由との戯れがあると、あえてベースの揺らぎを増幅させて、トランスポートするぐらいでないと、思いも寄らない邂逅とか、自身の純化なんて遠い話と諦めるしかなく。

 こうしてある程度、社会と関われるようになっても、日常に馴染むように過ごせたとしても、彼をつくること、付き合うこと、そう、手をつないで、キスして、セックスするって、そんな粘膜をこすり合わせるような、想像を絶するコンタクト、あり得ないし、生理的に受け付けなくて。そこをクリアしないと、ほんとうの意味で、社会と向き合ってとか、日常に融け込んでとか、それこそ心身の合一なんてありえない、のかもしれないけど。そこは欠如として、誰にでも一つや二つあるディフェクトだと、許してもらえないか、寛容に見過ごしてくれないかと、こうしてヒトを愛せない、その意味もわからない、モノやコトとの距離感も測れない、そういう有機体もいるのに…。

 

 だから専門職として、べつにクリエーティブなわけでもないけど、総務や経理のような仕事よりは、三十過ぎからの、社会からの変なプレッシャーも少ないような気がするし、気休めにすぎなくても。それはただ、そこから外れているだけで、対象にならない、相手にされていない、腫物をさわるように、それこそ変人扱いされているにすぎないのに。そんなふうでも安穏としていられない、四十にもなればチーフとか管理職みたいなこと、やらされるだろうし、若手の育成なんてできるわけないし、だんだん居場所がなくなっていくの、目に見えてくるし…。

 「いいんじゃない、全体的に…」。ただ関係性を壊さないように、出来は二の次に、無責任にも適当に、アドバイスするのがせいぜいで、微妙な笑みを浮かべながら。べつディレクションする立場でも、たいして気にしているわけでもないけど、隣にいる古いスタッフとして、ちょっと気づいた点、気の利いたこと、言ってあげる程度で。けっきょく、代理店の担当者と、アートかエグゼクティブか知らないけどディレクターが、気まぐれなクライアントの意向を踏まえて、決めるだけだし。それよりも、何ともまとまりのない、ラフスケッチを前にして、きょうも帰るタイミングを見計って、ただ集中力が落ちていく一方で。

 いちおう決まっているようだけど、午前中ならば十一時前後に出社しても構わないし、どうせあいさつもしないし、もちろんタイムレコーダーもないのだから、いてもいなくても気づかれない、そんな気楽でいい職場なんだけど。でもその分、帰りはたいてい終電間際になって、けっきょく十二時間ぐらい働かされて、それもこれも、サムネイルの質を上げるための、創造性を最大限引き出すために? ただ大画面マックを前にして、まんじりとするしか、逃げ出すわけにもいかず、周りから不夜城と呼ばれている、この建物のなかで、完徹する輩も少なくないのに、終電に間に合わせようと事務所を出るのさえ気が引ける、そんな奴隷のような生活で。こんなところで、この程度のことで、命を削るなんて、ありえないけど、見まわせば、バカがけっこういるもので、クリエーティブっていう幻想に惑わされて、能天気に錯覚に陥って。

 そう、新興宗教に劣らず、マインドコントロールをほどこされて、無防備なボディーをこわばらせ、しぜんメンタルを萎えさせて、だから病んでいく、それでもマックに向うしかなくて。でもどこかに、意識の端に、捉えきれない、もやっとした、それでいて少し手を伸ばせば、触れられるような、辛うじてそういう、感覚は残っていて、それにすがろうにも。どっちつかずの、それこそ意識が働いているのか、よくわからない状態で、強く拒めず、でも受け入れられなくて、ただシビアなフィールドの上で、漂い果てなく。だからなのか、でもなのか、ここに居るってこと、否定できなくて、それでいて肯定できるほど、しっくり来なくて、心身に沿わなくて。

 「もっと粘れないか、これからだろっ」。コピーライターあがりのディレクターに言われても、ただうっとうしく思うだけだけど、その根性論にも一理あるかもと、クオリティの話は別にして。とにかくバカみたいに時間をかけて、眼精疲労にも負けず画面をにらみつけて、一か八かにカーソルを定めて、正答のないプロセスのなかで、それを妙味に、それこそ醍醐味にして。新しいことを、かつて想像もつかなかったような、切れ味のあるモノどもコトどもを、たとえ絵に描いたモチでも、そこを信じないと、なにも始まらないの、わかっているつもりだけど。もともとスキルもノウハウも知れているのに、本質や真実へアプローチする能力も忍耐力も欠けているから、こんなざまに、こうしてぐちゅぐちゅと、とりとめのない状(情)況にあるわけで。

 とくべつ、この身が可愛いわけでも、だから心が虚しく、いたたまれなくなるのでもないけど、無理強いするのがとうぜんと、面の皮が厚い奴らの、おおて振って徘徊している様を見ているだけで…。勘違いしてここに居る、たいして工場労働者と変わらない、デザイナーやコピーライター、プランナーらを凌辱して、高い利益を上げて、それでも悪気のない、とぼけた顔の奴らを前に。資本主義のシステムのなかで、搾取のプロセスを、若い心身を破壊するメソッドを、容赦なく多用する、この世の、変わらぬ日常の、悲哀に抗う術もなく、たいていは見過ごすしか、見て見ぬふりをするのがせいぜいなところで。

 「きょうはお疲れさま、それで…」。連敗中のプレゼンテーションも、足を棒にする面倒なロケハンも、気乗りしないインタビューも、たんに気を紛らわすにはちょうどいいと、でもたいして意味ないって、いつも萎えて来るけど。ただお披露目に合わせて、日常の中へ、ぐっと融け込んで、クライアントが、代理店の奴が機嫌よく、レジュメを、ラフ案を見てくれさえすれば、ワークスの出来はさておいて、こんなプロセスが続くかぎり。エグゼクティブディレクターも、笑顔で肩をたたいて来るのだから、まあこんな感じでいいのだろうと、それに引きかえ心身にかぶさってくる、どんよりとした負荷に、帰りのクルマのなかで耐えられなくなって、思わず車窓を開けて…。

 「お先に失礼します」。まだ十時前なのにって顔してるディレクターを残して、さっさと事務所を後にする、少なくとも一カ月に一回、こうして意味なく早く帰るのが、かけがえのない、心身を保つルーティンだなんて、寂しいかぎりで。ほんとうなら、仲のいい友だちとか、それこそ彼と会って、パッと飲んで、カラオケにでも行って、なんだろうけど、幸か不幸か、そういうのいないし、ただひとり、街をうろつくだけで。だからと言って、人のいない、郊外へ向かってひっそりと、とかじゃなくて、無駄な明かりが散らかった、うっとうしい雑音のなかを漂い、どこへ行くともなく彷徨う、そんな埋没感というか、人知れぬ…。

 今夜は少し違って目新しくユニークにっていきたいところだけど、気がつくと例によって例のごとく、だいたい同じルートを、変わり映えのない景色を横目に、プロセスを充たしていって。女の子のぬいぐるみじゃないけど、男の子のようにフィギュアを、それも円谷プロダクション系の怪獣とか、それこそグリコのおまけ系の、むかし懐かしい、質の悪いプラスチック群に、魅かれ誘われて。ぶらぶらしていると、けっこうあるもので、まあオタクが集まるようなところだけど、そんな店へ入って、ケースのなかに居るフィギュアたちを、いとおしく眺めて。前に立っているだけで、ふっと吸い込まれてしまいそうな、同じようにケースのなかで並んでいる感じに、異次元へトランスポートして。

 「これ、見せてくれますか」。殻に閉じこもりがちで、生身の人間は手に余るからと、けっきょく人間嫌いだから、ただたんに人型のフィギュアへ、目がいくだけかもしれないけれど。もちろん、動物系も、乗りものやキャラクターも、ほおずりするほどではないにしても、顔を近づけて相好を崩してしまう、その無防備を店員さんに見られて、恥ずかしくもすぐに表情を変えられず。指さすとケースを開けてくれて、慎重に取り出してくれる、その子は中に居るときよりも、すっきりとした表情で出てきて、気のせいか、こちらを見て笑顔であいさつしてくれて、だからわたしも、笑みを返して。

 ラッピングというほどではないけれど、それなりに包装されたこの子を、腕のなかにしっかり抱いて、文字通り心を震わせて、ドキドキ動悸すら覚えて、電車に飛び乗って。こんなことって思われそうだけど、この程度の日常が至上の、心ときめく瞬間、と言えば使い古された、陳腐な形容なんだけど。しだいに灯りが乏しくなって、静かな夜へ融け込んでいく、車窓の向こう側へ、車両ごとすべり込んでいく、心身の合わさりを感じとって。ちょっと上がり気味の、いつもと違うこの感じをまとって、心地よくフラットに、すっと改札をくぐるのも。

 早く帰りたいけど、そこまで急がなくても、だからちょっとコンビニに寄って、いい按配にルーティンをこなして、家に着くころには。この子を、うちに居る子らとともに、祝ってあげるのに、なにか甘いものを、できれば新作スイーツを、馴染みの棚に探して。足早にエントランスの明かりをくぐり抜け、すっとエレベーターに収まって、ここまで来ると、もう待ちきれなくて、通路へ出ると小走りに、ドアの前でキーケースを落とすほどに。やっとリビングにたどり着いて、そっとこの子をソファーに、がさっと夕食のコンビニ弁当をテーブルに、ちょっとパフェ系のスイーツを冷蔵庫に、心躍ってとはこのことで。

 穏やかな時間がひとしきり、この子とわたしの、静かな交歓が、癒しのひとときが、やさしい空間に漂って、時空を熟していく感じで。にわかにリビングで集う、かわいい子らが動き出さんばかりに、この子に興味を示すものだから、呼びかけてテーブルに来てもらって。取り囲むように、これもやさしい眼差しで、新人さんに向き合って、それこそ話しかけるほどに、あいだの空気を震わせて、その輪にわたしも加わって。もう仲間の一員に、歓迎会が終わるころにはこの子も、緊張がほぐれてすっかり打ち解けて、その和やかな雰囲気に浸って。やっと相乗して、異なる次元を邂逅し、身も心も融け込ませて…。

 だからと言って、目の前の現象に、オブジェクトに沿って、生身のパーソンと違わぬように、たいていはそのことだけに、心を砕いてアジャストしようと躍起になって、ぐるぐる意味なく回っているだけなのに。あたかもそこに本質が、真実があるかのように、見せかけてけっきょく欺いて、これが本来の姿と、あるべきプロセスだと、訳の分からないことを言い出す始末で。マイノリティよりも、さらに極小の、細胞レベルのモノどもコトどもへ、心を馳せて引き寄せるも、それもどうかなって感じで、けっきょく袋小路に陥るだけで。

 いわゆる相対性に、関係性に触れるとき、目の前に広がっていく、世界と呼ばれる、フェノメノンにおそれおののき、不安定でソリッドな感じに、意識が拡散していって、ただ震えながら。べつに選択しているつもりも、好んで近寄っていくわけでも、それこそ当てはめようなんて、否が応にも心身に沿ってくる、その流れに掉させず、なすがままに浮遊して。しぜんに、ふつうにしていれば、たとえ表層であろうと、取り繕っていても、落としどころってわけじゃないけど、そこでたゆたうのも一つの…。しっかりつかめなくとも、心身をかすめるように、少しずつ埋めていく、とりあえずゆるく、あいだにただよい、できれば関係を結ぶよう仕向けて。


 「まだやってるのって感じ? やっぱり不自然だよね」。ヒナノは、ちょっと自虐的に、めずらしく曇った表情で下を向いた。性懲りもなく、例の婚活アプリ、まだやっているのだという。「べつに悪いとは思わないけど…」。わたしは言葉を選びながら答えた。「やってて楽しいとか、そういうわけでも…」。吐き出すように、のどに何かが引っかかったままでって感じで。「実際どんな感じなの?」。突っ込んで聞いたつもりはなかったけど。「………………」。ヒナノは左手を頬にあて、考え込むような仕草をした。なかなか答えが出て来ないようで、だからこっちが話を継ごうとしたけど、そんな複雑な、ウェブ経由の関係性、想像もつかなくて。

 「出会いは別にして、結果オーライなら…」。とりあえず、無難にそう言うのが精いっぱいだった。少し間を置いて「恋愛じゃなく、結婚なんだから」。そう言ったあと、しまったって顔になって、ヒナノがすかさず。「わかってるよ、アプリだからね」。そんなこといまさらって感じで、少し苛立ちをみせた。「だから、それが悪いっていってるんじゃなくて…」。そこで語気を強めたら、これまでのフォローが台無しになってしまうのに。「いちおう出会い系じゃないし、ほとんどの人が結婚目的だし…」。彼女は自分を納得させようと不機嫌に返してきた。「うん、そうだね…」。それ以上は、さすがにコメントできなくて、苦笑いをこらえるのがせいぜいのところで。

 どこかのCMじゃないけど、そこに愛はあるのかって聞きたいところだけど、そんなこと、当事者どうしが一番わかっているだろうし、もともとパスして、そこはアンタッチャブルが前提だろうから。気まずくなるのを避けようと、べつの話題へ振ろうか、頭をめぐらせていると、こちらをおもんばかってなのか、彼女の方から。「いくら結婚といっても、一番大切なこと、置き去りにして、素知らぬ顔でやり過ごしていいのかって、そら、思うよ」。ラインに慣らされているので、こんな長いセンテンス、こうしてリアルに話しかけられると、すっと背筋が伸びて、わたしも。「そうだよね、わたしもそう思う。そこがなしの関係って、アプリであっても、ちょっと違う気がするし。でも、安心したよ。ヒナノもそういう…」。

 「………………」。これ以上、真面目な話をしても、へんに深入りしたからって、ただくどくなるだけで、だからこの程度で、もう伝わっている感じだし、それよりけっこう恥ずかしいし、このあとどんな顔をしていいの? またの機会に、今度しみじみと向き合えるときに、この続きはするにして、ふたたび表層の方へ、こまごましたことの処理に、心身を費やさないと、意識を紛らわさないと、そう、日常にしっかり交わって。たしかに常識はこの辺りだとか、普通を見極めてデイリーへ浸透するってむずかしいし、ましてやそこでたゆたうのって、並大抵ではないし、これも日常の、生活の一部と。

 ソコに居るのだから、ソコで生きていくしかないのだから、でもソコだけでないのも確かだし、でもソコが面倒なところで、けっきょくソコから逃れられなくて。あきらめの境地じゃないけれど、ソコは腹をくくって、まな板の鯉とまでいかなくても、来るもの拒まず、嫌な顔をせず、できればすんなりと、ソコを受けいれようと。そんなこころづもりでいたところで、心身ともにうまく反応しなくて、けっきょくソコが中途半端になって、自縄自縛になるのは仕方ないことで。まあ、ソコはしぜんの、どう足掻いてもリアルにって、そうじゃないとやってられなくて、ソコソコでなくいい加減で。

 「ごはん、なにする?」。もうそんな時間? お腹すいてる? どこにする? 「近くに焼き鳥屋さん、あるけど」。近くって言っても、歩いて十二、三分かかるし、なんか入りづらいお店だし、でもこの機会に、二人なら。「そうしよう、それにしよう、さあ」。どこでも構わない、彼女に急かされて、着替えるひまもなく、カーディガン一枚はおって、でもさすがに、サンダル履きとはいかなくて。「どのぐらいかかるの? 駅の近く?」。それとは反対方向で、五、六分では着けないけど、説明するの、面倒だし、まあ運動のつもりで。「うん、もうすぐだから。それはそうと…」。ごまかすつもりはなかったけど、彼女に後ろからつつかれながら、足元のスニーカーの色が気になって。

 「悪くないじゃん。もっとおじさん、いると思ってた」。ヒナノは壁際の席に座るなり、店内を見回して、へぇーって感じでつぶやいた。「焼き鳥って、いろいろあるんだ。“やきとり”だけと思ってた」。訳のわからないことを、本人も何をいっているのか、わからないって顔して。「そうだね、ももとか、つくねは聞いたことあるけど、なんこつとか、ハツって」。それでもだんだん楽しくなって、気がつくとけっこう頼んでいて。「アスリートがよく食べているのってこれ? あっさりしておいしい、ささみ」。ほとんど自炊しない彼女にしては、いい線行ってて、当てずっぽうのわりには。「そう、今夜はいろいろ食べようね、や・き・と・り」。

 「どうかな、デザート的なもの、ある?」。そう言うので、彼女に代わってメニューをめくっていくと、さいごのページに。「黒蜜ときなこのアイスっての、あるよ」。テーブルに両肘つけて、ぐっと前のめりになって、うれしそうに二度三度うなずいて。「ちゃんとあるじゃん。それにしよ」。気がつくと、けっこう長く居座っていたようで、見まわすとわたしたち二人になっていた。「バニラアイスに黒蜜ときなこ、合うじゃん」。奥の厨房から聞こえてくる、食器や鍋を洗う、大きな音が気になり出して。「そろそろ出る? ホールのお姉さん、暇そうにしているし」。お構いなしにどっしり構えている彼女を前に、こっちは気になりだして。


 もうすっかり忘れていたし、もう少しのところで、迷惑メールとして処理するところだった。まあ、いずれゴミ箱行きになるし、ここでちょっと猶予を与えても、放っておくのも、削除するのも面倒だし。いまさらながら、と言うほどの付き合いでもないし、思い出らしいものもないし、たいして好意も持っていなかったし、だから開く必要も義理もないけれど、たまに送られてくる営業メール扱いで。最後にやり取りしたのって? ぜんぜん思い出せないし、履歴を確認するのも煩わしいし、どうせ嫌な記憶を引っ張り出すだけで、さかのぼってもいいこと、何もないに決まってるのだから。

 “どうしてるの? 元気にしてる?”。芸のない、なれなれしいメールを送ったところで、こっちがどう反応してくるか、予想できないわけもないだろうに、性懲りもなく、ほんと気が知れなくて。金の無心とか、宗教の勧誘ならわかるけど、ただ相手を懐かしむとか、暇だから何となくって、そういう相手の意図というか、たくらみが怖くて、だから裏があるんじゃないかと。そんなメールなものだから、じっとにらむだけで、返すつもりはないけど、どういうわけか、すぐに削除もせずに、けっきょく保留にしてしまうのだから、偉そうなこと言えないけれど。まあ、返信も削除もしないって、無視ってことだから、そこで時間を費やすのも、そのままに放っておくのが、適切な対応じゃないか、と。

 むやみやたらに、無慈悲に断ち切っていくわけでも、一つずつ整理してきれいにしまっていくつもりもないけど、多くのヒトやモノ、コトのあいだを縦横に流れている、はっきりカタチに現れない、浮遊している希薄な何ものか、緩やかな気流に導かれてその場、その時々の状(情)況を創り出している、それを関係性というのなら。感触を確かめたり、それこそぐっと引き寄せたり、つかむとか、白日の下にさらすなんてこと、できるわけもなく、だいたいのところを、五感を駆使してやっと近づける程度の、あいだの隔たりを少し埋めるぐらいの、そんなスタンスの取り方が、いみじくも関係性というのなら。

 同性の友だちが多いとか、他人のことを自分のことのように思えるとか、興味本位じゃなく親身になって相談に乗るとか、ほんと理解できなくて、だから人間味のない、薄情者のように扱われるのも。あたかも発達障害のように、ノーマルから逸脱したカテゴリーに押し込まれ、腫物に障るように、いまでは明確に疾病扱いの、そういう表情や振る舞いに、見間違えられたとしても。むかしなら、いっぷう変わっているとか、孤高をかこっている、そんなふうに少しは肯定感をもって、違う角度から見てくれたのに、多様性とか言われているのに、ちょっとした余白というか、ズレとか隔たりに寛容でなくなって。

 だから、たんに引きこもるとか、関係を築けないことを否定的に、欠陥があるかのように扱って、原因と結果をはき違えているのに気づかない、正邪の、真偽の判断がつかないって、そんな根本的なところで。やっとのことで、社会の片隅に、境界線の辺りで、何とかしがみついているのに、いつ埒外へ弾き飛ばされるかと、潜むように身をかがめて、言葉も発せずびくびくするしか。ひとり残されて、仲間外れにされても、表情を変えず、ふつうに構えて、だからポツンとしているのに、それこそ部屋の隅で脚を抱えて、ステレオタイプにたゆたうしかなくて。

 未読のままだし、拒んでいるつもりなのに、もうこれ以上はって感じ出してるのに、ここも性懲りもなく、返信を期待してスマホの前で? ほんと信じられなくて、その浅はかぶりというか、鈍感さが許せなくて。もう三年ぐらい経つのに、たいして深くもなかったし、ふつうに付き合っている人たちに比べたら、そう、関係性というほどでもないのに、どうしていま? からかってる? 馬鹿にしてる? いい加減にしてよって。思い出すに、自分の性向というか、それに伴う考え方とか行いが、いまとなっては恥ずかしくも、後ろめたくもあって、その負のプロセスを、醜悪ですらある部分を封印し、消し去らいたくて。

 “元気ならいいけど…”。着信に気づいてないのか、開く暇もなく忙しいのだろう、落ち着いたら返してくれるに違いない、そう思うの、そっちの勝手だけれど。それに、一見ニュアンス的には問題なさそうな、その短いフレーズ、ついこのあいだまで付き合っていたかのように、それってどう? なんか腹立ってきて。どういうつもりか知らないけど、こっちはどうしようもなく、そう不可抗力に強いられて、だからそれは暴力に等しいと、心的だからなおさらに。まさか寄りを戻そうなんて、そこまでいかなくても、返信ぐらいしてくれるだろうと、まあ昔のことはさておき、穏やかに向き合ってくれるかって? ほんと馬鹿じゃないの、あいつ…。

 もう来ないだろうと、半日も過ぎたころに、忘れかけていたのに、何の気なしにスマホを見ると、まだメールの続きがあるようで。“無視かよう…”って短く、怒りを込めて、吐き捨てるように、自分から仕掛けておいて、矛先をこちらへ向けるなんて。ムカつくからと言って腹いせに、思慮の欠けらもない、暴力的な言葉を、一方的な叱責を浴びせるなんて、ほんと吐き気もので。だから、即座に削除して、できればなかったことに、葬り去るしか、ゴミ箱ごと、アプリ自体をも、抹殺したいぐらいで、でないと気が収まらないほどムカついて、気づくと肩で息をしていて。

 少し傾きかけた、めずらしくも前向きな、もしかして久しぶりに意味ある、ベクトルやプロセスかもしれない、そんな状(情)況も台無しにする、この程度でも関係性の怖さというか。二点間を結び付けようとか、環をつくって手をつなぐのでもなく、そのあいだを少しずつ埋めていくように、そこで浮遊する、かする程度でも、関わろうと努めていた矢先に。モチベーションというほどの、しっかり起因したものでなくても、軽く後押ししてくれそうな、そうした流動というか、おだやかな流れがあったのに。ふっと湧き上がった、ひそかに期待していた、緩やかな情動というか、もしかして、トランスポーションするかもしれない、そこまで来てたのに、そんなときに…。このヤロウ!


 「どうする? 週末のことだけど」。こうしてヒナノが誘ってくれるから、そうしてふつうに電話してくれるから、旅行とか、買い物とか、川沿いの散歩も含めて、連れ出してくれるから、こんなふうにやっていける、ちょっとうっとうしいときもあるけど、ほんと感謝しかなくて。「うん、どうしよう、忘れていたわけじゃないけど」。そう、二人で遊びに行く予定だった、でもどこへ行けばいいのか、楽しいことなのに、いつものようになかなか決められなくて。「ゆっくり午後から、ぶらぶらと近場で」。いつも気づかって、こちらに合わせて、あえてあいまいに、スペースを残してくれるというか、こっちがおっくうにならないよう、そうした彼女の配慮に申し訳なくて。

 「ぜったい行きたいっていうわけでも」。こんなときでも一歩引いてる感じで、理屈っぽいところが出てしまって、機嫌よく誘ってくれてるのに、そんな言い草もないと思うけど、またヒナノに甘えて。「いいじゃん、たまには。ミステリーツアーっていう…」。休みなのに早朝から電車に乗って、喧噪から離れてけっこう山深いところまで、いわゆるハイキングを気取って、というほどでもないけど、ちょっとした山歩きをしたくて。小さいときにおじいちゃんと里山へ入って遊んだ、その記憶が残っているから? 潜在意識っていうのかな、明日の準備をしているとき、ふと思い起こして、そうなら個人的な思い出に付き合わせて、ここも彼女に悪くて。

 「どんなかっこうして来ればいいか、わからなくて」。めずらしく戸惑い顔を見せるヒナノが愛らしくて、カジュアルなら何でもいいと、パンツじゃなくても動きやすければって言っておいたのに。おしゃれな彼女だから、ちゃんとボトムとアウター、しっかり合わせて、スニーカーもしっくりいくの履いて、さすがほんと可愛くて。こっちの方が山歩きにそぐわない、適当にアレンジしただけの、街歩きの延長のようで、ちょっとバツが悪くて。街から四、五十分ほどで、こんなに空気が変わって、自然の中って感じで、身も心もぐっと伸びて、どこへでもすっと入っていけそうな、そう自分の内側へも。

 「ちょっと休憩しない? だいぶ脚にきた」。ケーブルカーに乗った方がよかったかもと、山登りというほどじゃなくても、けっこう傾斜のきつい坂を、それも長いあいだ、もう三十分以上もこんな感じなんだから。「おやつでも食べよ、チョコもって来たし」。彼女でなくても、座れるところ探してしまって、もちろんクッキーもひざに広げて、つまみ合って、これが目的かと思えるほどに、自然の中で小腹を満たすのも。ここでこんなこと、言うつもりなかったし、その瞬間まで頭の隅にもなかったけど、このクリアな環境のなかでリラックスして、どういうわけか出てしまって。  「どうなの、このまえ言ってた、彼…」。  

 “えっ”て言うふうに、こっちを見返す彼女を置き去りに、思いのほかしぜんに、さらっと言葉が続くものだから、あとで驚くのはわたしの方で。「わたしもやろうかなぁ」。いちばん縁遠い女子だろうに、いまの今まで意識の片隅にもなかったのに、怪しいシステム自体を否定していたはずが、こうして軽いノリで、そういう女の子と同じように? なるほど、スマホ経由なので、アプリを介してだから、希薄というか、それほど関わらなくても、思いのほか簡単にすっと入っていけそうな、抵抗感のないこの感じ、悪くないし。だからいまの女子に、おとなしい男子に、都合がよく受け入れられている? いまさらながら納得して。

 もちろん婚活のつもりじゃなく、とうぜん出会い系なわけもなくて、直接この身を、心をさらす必要はないのだから、とりあえずヒナノが言うようにアプリをインストールして。「ほんとにいいの? いやな思いするかもよ」。爽やかな山歩きの途中というのに、胸を張って人に言えない、変に構えてしまう後味の悪い、胡散臭い所業(しょぎょう)に手を染めているようで。高校女子の二重まぶた整形のように、誰でもやってるよ、マッチングアプリってことなんだろうけど、かえって三十路の慎重女子が真剣な表情でっていう、切迫してるリアルな感じがどうも…。

 とうとう一歩踏み出したって感じ、ぜんぜんなくて、ヒナノが横にいるから? 面倒に感じればすっと手を引けばいいって、彼女の言うように遊び感覚で、駆け引きを楽しみながらっていうけど。そうかんたんにいかなくて、アプリを開いてもすぐ手が止まって、けっきょくスマホを投げ出して、かかわっていないよ、わたしって。どうだった? そう彼女が聞いて来ないから、負担になるような俗事から、いつものように目をそむけて、ヒトを含めた関わり合いを避けて、アプリ一つでかんたんに、関係性を築こうなんて。一番やっちゃいけない、ふつうに考えればわかる、悪事というか、ことは本質にかかわる、人にとって大事なことなのに。

 もう細かいことはどうでもいいと、無謀に身体を投げ出す境地になるのを、じっと待つしか、途方に暮れるようなことを、いずれ訪れるかもしれないと、心のなかで備えておくのも。いざ起動させるときに、速やかに立ち上がるよう、やるからには出来栄えよく、うまく成就させようと、たとえ後ろ指をさされようと、いちおうは想定しておくのも。そのときが来るまで、ずっとパスし続けて、知らぬふりを通したとしても、一周まわってじゃないけど、そのときが来れば、ぐっとこの身に引き寄せて。こうしたプロセスを、スマホのアプリに、それもマッチングを目的にした、薄っぺらいアプリケーションにフィットさせるにはって構えることなく…。

 ここは時が過ぎるのをってことかもしれないけど、ただ気が向かないから放っておく、途中から忘れてふたをする、そう意識しなくても、いろいろ理由を考えなくても。嫌悪感を覚えるから、不自然だから、道を外れているので、とりあえず時とともに隔たりを置こうかと。いずれ超え出るのを、じわっと溢れ漏れるのを、どういう心の動きで、伴う身体の反応で、ただ迎え入れるだけに、ここは受け身のままに。ぐっと染み入るような、広く浸り渡る感じじゃなくても、すっとかすめる程度に感じ取れる、そんな柔らかいプロセスで、このあと定めるというのも。


 けっこう手ごわい日常が、そう容易くこの日々が、ちょっとした些末なデイリーでさえも、コンティニューしていくのを、傍らでじっと見ているだけで。ソコへ入っていく必要も、コミットを強いられるわけでも、ただ目の前を浮かび流れていく、モノどもコトどもに近づこうも、触れようとせず。繰り広げられる状(情)況に、絡み取られて、円環に沿ってぐるぐると、無邪気に上っていけるのなら、意図や意志に抗してまで。浮足立って、というぐらいの、ふわふわしている感じで、それでもうまく馴染んで、思いのほかベクトルを描いて、プロセスに乗るのも…。

 いつもの迷惑メールだろうと、それこそ特殊詐欺グループからの、携帯ショップやクレジット会社を装った、個人情報の窃取目的に違いないと、無視し放っておいて。間を置かず削除するはずが、どういうわけか消さずにそのまま、ふつうに個人からのようにも、いつもと違う感じがして。例のマッチングアプリ経由の、会員らしいアドレスかもと、こっちも登録しているのだから、むげに放っておけなくて、間違っていますよって返してあげるぐらいは。こういうのが新手の、うかつに返信したら大変な目に遭うって、そうかもしれないけど、いろいろ考えるのも面倒で、こんなことに時間を取られるのもって。

 “すいません。ご迷惑をおかけしました” そう来られたら、こちらもふつうに。“いいえ、大丈夫です” こうして返すぐらいは。この一往復で終わりのはずが、これが手なの? どういうわけか何回かやり取りするはめになって。“また、メール送ってもいいでしょうか”。向こうも図に乗ってか、こっちのガードが低いとみて、ここでプロテクトするのが、当然デリートすべきだったのに、でも複雑な心的要因が重なって? すでにパッとしない、暗い表情をさらしているのだから、会員なら誰でも見られるだろうし、腹を決めてこのプロセスに漂うしか、いまさら流れに掉さしたところで、それにしても一生の不覚、あのプロフィール写真…。

 だからと言って、こんなこと、長く続けるつもりも、実際に会うこともないけど、日常に少し趣を与える程度なら、それこそ退屈しのぎに、このぐらいの関係性なら、ウェブを通した関わりなら、それほど嫌な思いをしないだろうし。なかには遊びの、出会い系の延長で、それこそセフレ目的の不届き者もいるだろうけど、真剣にパートナーを探している、けっこう切羽詰まった環境のなかで、これに賭けている、笑えない男もいるのだから。婚活のつもりでなく、いい加減な気持ちで、ちょっと関わりたいだけの、ぼんやりとした不安をまぎらわしたい、その程度で利用するのって、けっこう罪深いのかもと、そこまで気にする必要ないけど…。

 こんなにいろいろと、とりとめもなく思いをめぐらして、けっきょく楽しめないのだから、不埒なアプリと知りながら削除しないのだから、わたしも意外にってことなのかもしれないし。思いのほかいい加減で、たいして品行方正でも、こだわってきた関係性にしても、言うほどの思いを、実は持っていないかもと、いまさらながらに。これまでのプロセスに、後ろめたさすら感じて、顔を上げられず、この程度かと自己嫌悪に陥る始末で。内心に嫌なものが走る、質の悪いツールであっても、当分のあいだ非接触でいられるのだから、まあいいやって感じでやっていく? それならば。

 「えっ、やってるの? ホント大丈夫?」。ある意味よくできてるし、システム的にもメソッドとしても、使い勝手がいいし、だから少し怪しかろうと、危なっかしいところがあっても、得られるものがそれ以上あって、なんだろうけど。「大丈夫なの? ホント気をつけてよっ」。だからヒナノもめずらしく、あたふた感を出して、繰り返し言うのだから、もともと出会い系から始まったアプリだしって…。わたしに免疫がないからと、男の本質って彼女らしくない言葉使って、それこそ男の子と付き合ったことのない、十五、六の内気な女の子を見る目で、心配げに言うので。

 「それで、どうだった?」。けっきょく楽天的というか、すぐに心配顔から興味津々に、前のめりになるのだから、思わず笑ってしまって、彼女のそういうとこ、このさい見習わないと。だからと言って、当てにならない写真と疑わしいプロフィールで、人となりを、人間性を解き明かそうにも、しょせんはってとこだけど、そこをパスして思考停止すれば、べつに問題ないし。何か感じるものが、第六感があるかどうかは別にして、けっきょくそこに頼るしか、言葉では説明しきれないフィーリングっていう…。内側の襞をなぞるような、それが微妙にずれていようが、奥底に流れるものに委ねるしか、あくまでそういう感じで。

 「どうなのかな、よくわからないけど…」。きっと外見とか、学歴や会社のこと、年収はいくらとか、そのあたりを聞いてるのだろうけど、そこは“ああそう”って感じで、条件的なこと、どうでもよくて。素朴な感じがいいとか、ガツガツしてないとか、そういうのでもなくて、この内側へぐっと来るものが、襞に沿うしぜんな感じというか、そういうのと、うまく出会えるはずはないのに、こんな安易なツールで。そうでなくても、アプリ経由でそれなりの、結婚に向いてそうな、真面目な感じの、たしょう退屈であっても、無難な線で落ち着くのなら。

 「まあ、ヘンって思ったら、すぐにやめればいいんだし…」。こんな感じだから、せっかく共通の話題なのに、ワイワイできなくて、こうして別のことを考えて、話が続かなくて。きっと無理だろうし、ウェブ上でマッチングって、こんな胡散臭いこと、やらせたくなかった、わたしにってヒナノ思ってるだろうし。「大丈夫、いまのところ、ヘンなことしそうにないし」。マウント取る感じでも、土足で内側へ入っても来ることも、それこそ会おうなんて言って来ないし、だからまだこうして、べつにやめる理由もないっていうか…。

 「これっていうところがなくても…」。べつに悪い人じゃなさそうだし、生理的に受け付けないってわけでも、まあふつうに、というか、こんなものだろうと、結婚が目的なんだから、へんに上がる必要も、それこそドキドキしなくても、淡々とコトが運んでいくなら。ゆくゆくは正式にパートナーシップを結んで、子どもをもうけて、できれば互いの両親ともうまくやって、そこに幸せを感じる前提で、このマッチングに励んでいるのだから。そういう過程を、一般に言う幸せな家庭を、思い描くためのアプリなんだから、そのつもりもないのに、それこそ別の目的で、自分本位に、たんに薄い関係性だから、接触なく付き合ってる感じを味わえるからと、たんに相手を振りまわしているだけで。

 「ブルーになるの、当たり前と思うし」。まあいいかと、どう考えても意にそぐわないのに、肝心なものを置き去りにして、いろんな思いにフタをして、そのほうがストレス溜まらない、そう思い込ませてやっていくっても。とうぜんのように、カラダがついて来ない、アタマではわかっていてもって感じ、それもどこかに残して、前へ広がるプロセスをたどっていくしかないって? 日常のなかでやっていくって、デイリーをこなしていくだけなら、たとえ心と身体が少しずつ離れていこうが、意識に乗せずに弛緩させて、そう、適当にやっていくしか、それが外れた、哀しいことであろうが…。


 “ご無沙汰です。叔母のことで…”。漏れ聞くところでは、離婚こそしなかったけれど、けっこう不幸な結婚だったようで、最期はひとり寂しく亡くなっていった、その彼女が遺したものを配るって話で。遺言がなく法定の割り振りで、株券を売ったお金を、姪や甥にまで配分するって、たとえ数万円であっても、受け取るのもどうかと、生前たいして関わりなかったのに。こんなことでもないかぎり、連絡し合わないっていうのも、それほど疎遠にしているのを、気づく機会になって苦笑して、それでも使い道を頭に描いたり、多少面倒な手続きあるようで、辞退しようかと思ったり。

 姉妹であっても、だからそうなのかもと、物心ついたころから、距離感があって、ぎこちなく、それがうっとうしくて、だからこういうふうになって。“了解しました。お手数かけます”。その程度の短い返信で済ますしか、チャットが続くはずもなく、早く嫌な感じから解放されたくて、どちらかともなく“それじゃあ”って。いちおう血がつながっているから? たいして根拠もないのに、フランクにやっていけるほど、しぜんに関係を結べるなんて、幻想にすぎない気がして。そんなところから離れて、たとえひとりになっても、少し寂しくても、まとわりつく日常から、しがらみから遠ざかって、ひとり片隅にいるほうが。

 ほんらい大切にしなくちゃいけないけど、もうどうでもいいってわけでもないのに、近親憎悪も多少あるんだろうけど、ただ性格が合わないだけと、こんなに近い関係性まで捨て去ろうと、世捨て人じゃあるまいし。どこで仲違いしたかって思い出せないけど、小さいころから反りが合わなくて、妹として可愛げがなかったのは確かだし、姉の方も包容力というか、下の子に対する素振りに問題があったような気もするし。どっちもどっち、お互い様ってことなんだろうけど、結果こんなふうに、ふつうの姉妹とは程遠く、会えば他人行儀もすぎて、けっきょくイラつくだけで、その場から離れてホッとするのも。

 いい思い出ひとつないわけでも、悪いことばかりでも、恨んでいるつもりもないけど、ソコはどうしても、なかなかスムーズにいかなくて、だから絞り出すように、こういうときだからこそ。そう構えなくても、思いのほか自然な感じで、さっと表面をなぞるように、すっと過ぎていく、このぶんなら大丈夫かもしれない、そう思おうと。不思議とふつうを保っているし、このままのレベルで、めずらしくバランスをとって、できれば心身のベクトルを交えて。性愛という関係がないから、とくべつに深く関わる必要があるから、けっきょく拒否できないから、そう、血を介しているから、良否は別にして、大いなる幻想だとしても。

 けっきょく時と隔たりが、この距離を、襞をかすめる違和感を、徐々に癒していく そういうこともあるのかなと、あらためてスマホに向かって、用もないのにラインするのも、ちょっとした理由をつけて、うかがいを立てるように。“さっきの件だけど…”。待ち受けていたわけでも、こっちの変化に気付いていないだろうに、構えることなくこうしてやり取りできるって。これもSMSの効果と、この距離感だから、ダイレクトでないから、たいしてストレスを感じず、関係性のなかへ、すっと入っていけて…。

 “お正月に帰るつもりだけど…”。もう何年も実家へ、わたしがいるから帰って来ないって、母も気づかって、これまで何度もあいだに入り、どうにかしようと、お姉ちゃんとわたしを。そんなつもりはなかったのに、そういう信号を出していたのかと、ここも少しばかり反省して、“お母さんも喜ぶ”って気づかって送ったけど、その日までに心の準備をしないと、やっぱり憂鬱になるだろうから。そのころには気持ちが戻って、後悔するかもしれないけど、そんなこと、いまから考えても仕方ないと、ふつうにそう思おうと、関係性がどうのって面倒なこと思わないで。

 姉妹のあいだには、男の兄弟と違って、相手に対する思いが歪んでいるというか、過剰な意識のバイアスが、どうしてもかかってしまって、いわゆる妬(ねた)みとか嫉(そね)みとか、それも漠然に、たいていは理由もなく。あかの他人ならば、どうってことなくても、イラついて反応してしまう、うまく制御できないっての、生理に根づいているなら、どうしようもなく。近親だからと言って、憎しみ合わなければってこともないはずだけど、変な甘えもあって、ヘイトでダーティーな構えに、術もなく仕方なくて、憎しみ合ってるつもりでなくても。

 遅ればせながら、あらためて関係性を築くって、そうかんたんじゃないけど、気構えというか、関わり合うための、そのぐらいはこの日常のなかで、徐々に醸成していかないと。その前段階で、しっくり来るものを呼び込んで、この内側に沿わせて、抵抗力というか、免疫をつけて、プロセスの開始に、ふつうの日常のなかへ、心身をもっていこうと。懐かしい匂いとか、心地よい既視感というか、しっくり来る情景や、心強い確かな触感も含めて、誘い導いていく、この身に、心に馴染ませていくように、そうした道行きの、浮かび広がるベクトルへ沿っていくのも。

 迎えるにあたって、笑顔でなくても柔らかい表情を、少なくとも敵意をもってないふうに、デイリーにフィットするには、それぐらいのこと、意識してやってあげないと。たとえゲストじゃなくても、そうしたプロセスに沿って、彼女に関わろうと、近親者だからなおさら気を遣って、微妙なセンスでもって、向かい合わないと。こうして予行演習しながら、徐々に広げていって、多様で複層的な日常生活に、いわゆる適者生存の理に適うように、自然淘汰の厳しいリアルに、うまくアジャストできなくても、その周縁をふわふわと、ただ漂うだけでも。

 “それじゃあ、お正月に…”。楽しみにしてますっていうふうに、心待ちにしているわけじゃないけど、弱めであってもウエルカムの姿勢を、そこはなんとか漂わせて、これまでと違うってところ、このあたりで示して。それよりこっちの構えのほうを、ベクトルの定め方を、SMSから離れて、生身に沿うように、この内側へ引き戻して、自問自答とまでいかなくても、徐々に馴染ませていかないと。こうした関係性だから、近親の甘えを加味しながら、面倒でもしっかり向き合って、日常へ降していく、この歳なんだし、もういい加減にってことで。


 “ご無沙汰しています。お元気ですか…”。彼と言っても、もちろん三人称のってことだけど、もう送って来ないと、ホッとしていたのに、こうして性懲りもなく、メールしてくるのって、どういう…。SNSを経由しているから、マッチングアプリを使ってるのだから、不可抗力というより、こうした展開もあってしかるべきと、軽くかわす術を心得ていないと、みっともなくもあたふたして。とりあえず放置して様子を見るしか、そもそも返信する理由も必要もないし、たいしてやり取りもしてなかったし、ここは無視するのがふつうでしぜんで。

 行き違いをよそおって、羊の皮を被った狼とまでいかなくても、かりにヒナノの言う通りだとしても、へんな魂胆がないのなら、たんに悪い人じゃなければ、返信してあげるのもひとつの、あいさつ程度なら。“お久しぶりです。そちらもお元気で…”。どうかしましたか? なにかようでも?って返すのさえ、ちょっと気が引けるというか、強い返しのような気がして、どういうわけか生理的に受け付けない感じもなくて。彼とのあいだに思い出というほどの、実質的なプロセスはないけれど、これといって嫌な感じもないし、たいして面倒な思いもなかったような、かえって取るに足らない、あやふやな感じが彼にとって功を奏している?

 “こうしてメールを送っていいものかどうか…”。このブランクのあいだに、いろいろと考えたようで、どうしようか、これきりにしようか、でも…って、そこは伝わって来たけど。たまにメールを送り合って、あいさつを交わす程度なら、それ以上突っ込んで来ないのなら、時間の無駄遣いかもしれないけど、そのぐらいの関係ならば付き合っても。婚活アプリでこんなふうに、本来のプロセスを無視して、関係性を深めようとせず、ちょっとした知り合い程度のレベルに、それ以上はどうもって感じで、細胞の劣化もかまわず、ただ漫然とやっていくのも。

 波風立てずフラットにやっていくのが、まともに向かい合わないのが、ストレスのかからない、心身を安らかにする方策ならば、事が進まなくて、べつに構わないと。それこそシークエンスに、果てない浮遊ならまだしも、けっきょく終わりのない、行き着くことのない、死の、残酷な世界のなかで、歩みつづけなければならないとしても。でこぼこを均すように、区切りのない、のっぺりとした、平らな状(情)況を享受する、そうした日常の、かったるい安穏を、ぐるぐると円環を、エボリューションを拒んで、たんに生き永らえようと、その気構えがあるならば。

 “そうですね、それでは…”。それなりに時間を費やしたし、長々と送信し合うのも、このあたりで止めるのが、もともと話すことはないし、意味あるように思えないし、なんでもほどほどっていう。こうしてだらだらと、ひまつぶしならまだしも、無味乾燥なプロセスとしか、そこまで言わなくても、べつにって感じで、なんの思い込みもなく、そこら辺りのビヘイビアならば。無感情ってわけでも、内側に何一つ残らないってことも、悔いとか、マイナスまでいかなくても、間違いなくレベルを下げる、負の感じが襞をなぞる、そんなふうだから。

 “それと…”。ただちに断ち切ろうとも、問答無用に閉じようとも思わないけど、もうだいぶ前から面倒で、気分が下がるし、もうこのあたりで、わたしにしてみれば、これでも長々とやってきたつもりで。いいかげん、この状(情)況から解放されたくて、そうニュアンスを伝えたつもりでも、性懲りもなく、またこうして、どういう神経しているのって。“それはちょっと…”。もっとはっきり拒んでも、反応せずにそのままにしても、なにも問題ないし、責められるいわれはないけど、もうこれ以上、プロセスを共にするって、やっぱりむずかしくも、拒絶する理由を考えるのもおっくうで。

 せっかくのマッチングアプリなんだから、好き嫌いは別にして、表層的に、みんなと同じように、ストレスを最小限に抑えながら、適当にやっていけば、たいして楽しくなくても。あいさつ程度のやり取りでも、底のところで、悪意とまでいかなくても、薄気味悪い魂胆というか、オブラートに包んだ、不埒な思いをもって、こちらへアプローチして来ると思うだけで。こちらの思い過ごしと、たんに人間不信で片づけられることも、対人恐怖症って診られたとしても、たしかに神経症的なところもあって、だから関係性を結べないって? そう思われたくないけど。

 真面目にパートナーを選ぶつもりも、もちろんセックス目当てでもないし、だからお得意の浮遊感というか、ただ漂うだけの、リアルを一つの、こっちに都合のいいイメージに変えて、例のプロセスに引き入れて、反転するもずる賢くキープしようと。袋小路に入るほどでも、ただ流れを止めずに、環の中をスライドしていく、ずれを残しながら、隔たりをなぞりながら、ゲインするのでも、アップデートするわけもなく、うろうろとノマドして。けっきょく同じところを、ぐるぐるとメインテインするというか、できればスパイラルに、徐々に昇っていく、そんな感じで、広がる過程を滑るようにたどっていけば。

 とりあえずイーブンに、つまらなくとも平穏を、内側にさざ波を起こさぬよう、取るに足らなくとも、この些細な日常の中で、あらゆる外付けを排除して、孤立無援とまでいかなくても。ほとんど寄せ付けず、プロセスに寄与するものも、起動をスムーズにするものまで、問答無用に除外するのも、しっくり来ずに違う感じがして、どっちつかずに行ったり来たり。けっきょく中途半端に、手の施しようがなく、だから自業自得ってこと、じゅうぶんわかっているつもりで、しぜんに淡々とやっていくしか。ちょっとした関係性も、架空の網に乗せて、そこに依存するしか、根拠なく信をささげて、振り返らずに漂い浮遊するって、得意のはずも劣化して、自覚もなしに。

 とりあえずスマホに距離を置いて、もちろん検索も控えめに、ただの平たいオブジェとして、そこいらへんに放り出し、意識の枠からも葬り去って。功罪相半ばというより、後者が前面へ出てくるのだから、もっと早く長きにわたり、遠ざけておくべきだったと、思わないわけには。それでも周りのモノどもコトどもとダイレクトに、もともと苦手な方へシフトし直すって、いまさらながらに上手くいくはずもなくて、徐々に消耗していくだけで。どちらからも等距離にっていうか、バランスを取ってというのでもなく、底を這うように、滑らかに緩く漂って、そんなところに落ち着くしか。


 「どうするの?」。こうしてふらふらと、そんなつもりはなくても、ひとり、このプロセスを、耐えられないほどでもない、このデイリーを、鋭くも緩く曖昧な、この日常を、どうしのごうかと、逃れられない、このなかで。細胞の一部を共有しているから、血縁だからといって、以心伝心というわけにもいかず、小競り合いしながら、互いに空間を占めて、たいして楽しくもない時間を、ともに劣化していくしか。細々した雑事もライフという、基本的なところで、いわゆる共生しているからと、だからプロセスに介入してもって、控えめであっても、血のつながりに安穏と鈍感になって。

 「…………………」。置き去りにするって、理解不能を装うのって、意地悪く無視するのも、ふつうにできるからと、ここぞとばかりってわけでも、身内だからってこともないけど、ただ放置するのも。少しでも悔いているのなら、ちょっと悪いなって感じならば、しっかりフォローするつもりでなくても、「あぁ」とか「うん」とか、感嘆詞的なもので対応するのも、とうぜん悪意はないのだから。表情をゆるめるぐらい、愛想よくする必要も、リップサービスってわけでも、この日常の中で、デイリーだからこそ、些細な関わりって意識すると、複雑怪奇になってしまう、この近親者に対してまで、しぜんでいられないって、やっぱり…。

 「大丈夫なの?」。不機嫌で不愛想だからと、顔色が悪いの、どこか具合が悪いのって、何の気なしに言ってこられても、こちらとすれば何って感じで、ただ反応するのが面倒なだけで。よくある母娘の不和ってわけでも、ことさら意識するのでもないのに、ただしっくりいってないからと、その原因を探すのも、少し違う感じがするし、たんに関係性がしっくりいかないだけで、ほかの人と同じように。たしかに双方向じゃないし、だからと言って彼女の方が一方的ってわけでも、こちらが引いているのでも、たんにかみ合わない、相性が悪いってことなんだろうけど。

 「いや、べつに…」。心に引っかかってもやり過ごそうと、それなりに内心へ響いているのに、できればこの様子を察して、その感じから、だいたいのところを、それでも言葉にするのなら、この程度で。ほんらいなら内側に、底の方へ押しとどめて、表へ出ないよう襞に沿わせる感じで、放っておいてほしいのに、すっと入って来ようとする、その無神経さに、ただこっちも意識が過剰に働いて。向こうを責める前に、わが身をかえりみるって、そこはまだまだ未熟なので、血のつながりをはき違えて、たんに甘えて救いを求めているだけかもと、情けなくも仕方なくて。

 「なにがいい?」。たとえ代り映えしなくても、こうして繰り返してデイリーを、そこは流れ作業のように、連鎖を尊び敬うのも、だから表情を崩してあげても、一つのルーティンとして。糖質や油脂に惑わされず、細胞に欠かせないタンパク質と、調整の働きをするビタミンを、たっぷりの水分とともに、この内側へ摂り込むべきところを。消化器系のワークスと循環器系のネットワークで、身体の隅々まで行き渡らせて、脳神経系のアジャストメントとレギュレーションが奏功するならば。心身のアレンジメントを、変異なくプロセスを、あくまでレベルに淡々と、ずれ程度に抑えて周遊するって。

 「そうね…」。広くディザイアを貶めようと、食欲まで抑え込んで嫌悪に戯れるのなら、神経症と見まがわれても、変異の兆しと診られようが、そこまで欲求をぞんざいに、それこそ悪者にしてまで。ちまたで原動力と、生きるための、本能に備わるものと、プロセスを保つための、必要不可欠なものと、ともかく栄養なのだから、ふつうに摂取してしかるべきだと。そこいらへんの、あらゆるものに、甘味料や着色料、保存料など人工的で醜悪な、いわゆる添加物が混ざっていると、セルの変異を恐れて、とうぜん二の足を踏んでしまうのも。

 「いいよ」。せめて皿洗いぐらいは、据え膳上げ膳もどうかと、腰を上げて前かがみになると、ひょっとして例の、心拍数ドキドキの、あの前触れのような、へんな汗がじわりと、右わきのあたりに。ここで立ち上がるって、命取りになるわけないけど、ふらつき感が尋常でなく、とにかく怖くて、ゆっくりと元の位置に、からだを沈めて、きつく目をつむって、過ぎ去るのをじっと待つしか。不定期に、この発作が訪れるのも、起因しているモノどもコトどもに、振り回される感覚が、プロセスの起動と循環に必要と、矛盾というか、二律背反の、不安と恍惚の中で。

 「あとにする?」。冷蔵庫の前で、カップデザートかかげて、微妙に照れ笑いを浮かべる、それどころじゃないのに、スーとからだへ入り込むというより、透過していくというか。こういうことに、デイリーの、些細なシチュエーションに、修正され、救われるって、要はそこへフォーカスさせない、完治しないまでも、少し下がったレベルで、軽く制御して。元へ戻せなくても、そこで保って徐々にって、漸減をものともせず、ここもしぜんに、プロセスに任せて、そこを漂うように、たとえぐるぐる回るだけであっても。

 「おもしろいね」。こうして並んで、当たり前のように、ただ時間をつぶすのも、ぼんやりと空間を占めるだけで、意味あることと、言い聞かさずとも、弛緩していくままに。たとえこの内側に、なにも記さなくても、残滓がなくとも、映像のカケラをも、視神経を伝って脳髄に、そこは反映して表層へ、二項が乖離しているわけでも、相同しているのでもなくて。ただぷかぷかと、皮相を舐めるように、悪びれることなく、そこに信が、それこそ真がなくとも、もともと疑わしいのだから、気にすることなく、ただパスするだけで、どこにも響かないよう、からだを固くして。

 「そろそろ…」。やっと身体を、だけど心までは、どうしてもうまく鎮められなくて、湯に浸かって、寝床に入って、その方が苦痛ってことも、ここも心身の乖離というか、休まることを夢見るばかりで。眠ろうとしても、せいぜい二時間程度で、覚醒と鎮静が交互に、そのあいだを幻影が、何をもとにしてか、嫌なイメージしか、脳に描けなくて。気晴らしを、できれば少しの可能性を、そこに求めて漂うも、ノマドのように、たださまようばかりで。わずかなゲインも、景気じゃないけど、リセッションが幅を利かせて、さらに先行きが見通せなくて。

 「まだ、こんな時間…」。ルーティンまでいかずとも、ベッドから身を起こして、リビングのソファーへ、からだを引きずり預けて、後ろからうつろに響くも、だいたいは見当がついて、そこから外れ、逃れようと。ひとり取り残され、黒く沈むディスプレイの前で、無音に反応するのを抑えて、ただインターバルを、言ってみれば、どっちつかずの中間項で、微動の危うさを寿いで。沈思するのも、この状(情)況で、薄ぼんやりした暗闇のなか、そうそう上手くいくわけもなく、低く漂うざわめきを、内側へ押しとどめて、享受するしか、昨夜に引き続いて。

 「少し心配になって…」。気配を感じるような状(情)況でなく、ドキリと心臓に悪くて、振り返る首に痛みを感じて、もういい加減にしてほしいと、声を上げるのも面倒になって、これも日常と、カーテン越しに薄っすらと明かりを感じて。ベッドに戻って、ただ目をつむっていようと、少し祈るような気持ちで、無意識を意識して、なにから、どんなことから、解き放たれようとしているのか、わからぬままに。経て行くことの、きっと時であろう、そのリズムから外れて、覚めるまでの、この心身をどこに預ければ、ただ乖離を感じるだけの、軽やかさに沈み込んで。

 「じゃあ、気をつけて」。ルーティンだからなんとか、こうして準備をして、何もなかったように、玄関先で表層を頼りに、からだの強張りをそのままに、うまく鎧をまとえれば。内心を深いところへ、雑音が届かないよう、とにかくホールドして、無菌状態のような、たとえ過保護で虚弱であったとしても、失うことを考えれば。消え去りそうな声で、同じように「じゃあ…」と、それに続く言葉を絞り出すように、やっとのことでなんとか、それが日常の、デイリーにそぐう、振る舞いであると、流れに掉さすのを控えて、すっと「行ってきます」って。

                   ◆

 つり革をつかまずに、ぐっと脚に力を入れて、つるっとした床へ、転ばぬ程度に沿って、時の流れに逆らわず、隔たりを少し意識するも、こうして何も起きないことで。微かな手触り感を、せいぜい輪郭をつかめるほどの、モノであろうと、コトであっても、たとえ掠めるぐらいでも、しっかり日常にそぐわなくとも、ふらつく足元を見つめて。それに従わせるって、ちょっと矜持にもとるにしても、心身を許し入れようと、ぴったり重ね合わさらずとも、けっして拒むのでなく、できればしぜんに、へりくだらずに。

 昼前のステーションを離れて、事務所と反対の方角へ、一連の流れから抜け出し、ルーティンをおろそかにするも、すっと近づいていくような、心身の気配を感じて。すれ違う人の数が減っていき、目に入るモノ、通り過ぎるコトが、ぐっと入って、すっと抜けていく、まとわりつかずに。たとえ交差点に行き着こうと、迷うことなくサークルに沿って、ベクトルを描きながら、ゆっくり歩を進めていく、少し身軽になったような、煩わしさから、のしかかる負荷から、解き放たれたような、気がするのも。浮足立つというのでも、ぷかぷか呑気にって感じでもなくて、しぜんに、ふつうに身体も心も動いてくれて、この先がクリアになるわけでもないけど。

 ただこのままたどっていけば、目の前に広がる道でも、側道のようなプロセスであっても、そこに沿って、それに従っていくしか、というようでもなくて、拓けていくものに、馴染んでいく感じで。少し街中から距離を置いて、人工物じゃなくて自然を、立派な木々でなくとも、道端の、見栄えのしない草花であっても、迎えてくれるのなら、そのなかで一つのエレメントとして。優位な種に属するからと、仲間外れにされて、無頓着になっていくなら、関わり合いということも、しぜん意識の外へ押し出すように、それこそ幻想のはずなのに、自意識過剰もほどほどに。

 すっと近づいてみれば、ヒトでなくてもモノでもコトでさえも、拒むだけでなくて、微妙に表情を崩して、手を差し出すまでいかなくても、身をのけぞるようなことはせずに。自然の一部に、ことわりのなかで、いずれ土に還るからと、無駄なことを、飛躍でさえもパスするのなら、ぐっとプロセスが充たされて、少し先が見えることも。来るもの拒まずというのでも、慎重にセレクションするのでもなくて、適当にしっくり収まるところで、構えることなく力を抜いて、無意識とまでいかなくても。無機であっても、そうだからこそ、しっかり寿いで、侍らすのでなく、一つひとつのぞき込むように、丁寧な感じで、心身をさらけ出すのも。

 ただすれ違っているだけで、べつに共有しているわけでも、もちろん接しているのでもなく、だからと言って、次元を異にしているつもりも、いっきにトランスポートするっていう感じも、ただぐるぐる回っているだけで。繰り返し同じ風景に、少しのズレをついて、そこから外れようと、できれば逃れようとしても、しっかり網にかかって、元に戻される、だから日常と、こうして生かされるって。たとえ仮想空間でも、幻想であっても、それだから関わり合うのも、生身でないから、近すぎないので、表情を変えずにやっていけるって、ヒトであっても、モノやコトとの関わりでも。

 狭い公園のベンチに腰をおろし、この先どうなるのか、どうしようかって考えるより、プロセスのどの辺りで、べつに俯瞰してとか、幽体離脱してとかじゃなくて、ちょっと離れたところから、できれば、そこの木の幹から、のぞき込むように。その関わりまで、内部の関連性をも、有機体を構成する細胞と細胞のあいだの、それこそ神が与えた関係性まで、疑いを差しはさむなんて、そこまでいってはじめて。しぜんに、ふつうに、できれば必当然に、しっくり内側へ、ひろがり外側へ、オーバーオールに充たされて、ぐっと起動して、「やあ」って言われるから、うなずきほほ笑みを浮かべて。 (了)

 

 

   

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愛せなくても生きていけるはず、と。 オカザキコージ @sein1003

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