第4話 凪の章
「今、帰りました」
里の高台に在る神社の離れで、凪が帰宅を告げる。応じる者はなくとも、挨拶を欠かすことは無い。
草履を脱ぎ、土間に無造作に転がしてある木材に腰掛け、既に用意されていた水桶で足を濯ぐ。
作業場を兼ねた座敷に上がり、道具袋を漁る。これはどんな意匠にしよう、こちらはあれと組み合わせるか……考えを巡らせながら、拾って来た木切れなどを取り出していく。
その手が止まった。
凪の目が、手に取った不思議な手触りの黒い石と、脚に巻かれた布を行き来する。傷は軽く痛みはしたが、気になる程でもない。
(りんさんに出会えたのは、巡りが良かった。これも、『かげろう様』のお陰なんだろうか)
腰を据え、石を磨き始めた凪の脳裏に、様々なことが浮かんでは消える。
「つがいさん」である凪は、里の神「かげろう様」の婿として、「うつつ神社」の離れで暮らしている。
かげろう様が何時から祀られていて、どのような姿をしているのかは、里一番の長寿の老人ですら知らない。それでも毎年の祭りの他に、二十年に一度の「かげろう祭り」と呼ばれる特別な祭りは、欠かさず執り行われている。
かげろう祭りの当日、里の人間は家から一歩を出ることも許されない。つがいさんの世話役でもある「うつつ神社」の祭主家に選ばれた未婚の男を、ご祭神の「かげろう様」に捧げる、神の為だけに行われる祭りだった。
捧げる、とは言え、人柱のようなことではない。選ばれた男は「つがいさん」と呼ばれ、かげろう様の婿として、儀式以降は神社の敷地内にある祭主家の離れで暮らすことになる。
祭主家は、巫女頭を頭首に据えた、女のみで暮らす一族だ。頭首は祭りのある年に新たな婿を選び、それまでの婿に礼を持たせて里に返す――つがいさんは、二十年で神に離縁される。だが、実際に里に戻された者は居ない。次の祭りまでを永らえた男は、これまで皆無だった。
それでも、かげろう祭りは行われ続けている……。
いつしか作業に没頭していた凪の手が止まった。気付けば薄闇が部屋を満たしつつある。
部屋の隅には明かりと握り飯が置かれ、衝立の向こうには夜具も既に整えられていた。気の利く世話係は、いつも通り、仕事中の凪に声を掛けることなく全てを整えてくれている。
凝り固まった首と肩をゴキゴキとまわし、握り飯を頬張る。腹がくち、夜具にごろりと寝転ぶと、天井を見上げ独り言ちた。
「選ばれたのが俺で、本当に良かったのかね」
つがいさんには、毎年の行事や神事の手伝い、祠や神社の手入れなどの仕事が宛がわれる。だが、行事の殆どは巫女達の指示の下で里の者が総出で行っていたし、神社の敷地内とて祭主家が日々手を入れている。神社の裏手の神域である淵の手入れも、基本的には祭主家の巫女のみが立ち入りを許されている為、凪が手を出すことは出来ない。
結局は、神の婿に最低限の生活を保証する為に拵えた仕事だ。凪の
土や水のみならず、実りを齎す豊穣神をも生み出したかげろう様は、今もそれらに滋養を与え続けているという。全ての母神であるかげろう様を慰めるのが、つがいさんの役割の全てなのだ。
これまでのつがいさんは、若く身寄りの無い、怪我や病で食い詰めた者から選ばれるのが常だった。長くて十年余、短ければ数か月で命を落としたが、それも祭主家でなにくれと面倒を見て貰った上での話で、つがいさんに選ばれなければ、もっと早くに命を終えただろう者ばかりだ。指名を断ることは出来るが、当然、実際に断った者はこれまで居なかった。
利を得るのは、選ばれた男だけではない。
年頃の娘を持つ親は、働き手として期待できない男がつがいさんに選ばれれば、間違っても己の娘と縁が繋がる事はないと安堵する。例え好き合う娘がいたとしても、男の年季が明けて里に戻る頃には、娘はとっくに他の男と所帯を持っている。
「かげろう祭り」とは、つまりは里の互助機能なのだ。祭りによって、里はある種の穏やかさを享受している。飢饉や災害などは滅多に起きなかったが、事があれば祭主家は私財を擲ってでも里を支えた。時折ではあったが、暮らしが立ち行かなくなった女が、世俗を断つ為に二度と里に戻らないと誓いを立て、遠くの祭主分家に身を寄せることも過去にはあったと聞く。
里において、祭主家は絶対的な権力を握っている。だが彼女達がそれをひけらかすことはなく、その様は、無関心とすら思える程だ。
(偉いよなあ。俺だったら、もっといい気になっちまうかもしれないのに)
祭主家の常の振る舞いに、里の者は皆、畏敬の念を抱いている。凪もその一人であり、その気持ちは今も変わらない。
だが、つがいさんとなった凪の心を大きく占めているのは、別の思いだ。
(俺はきちんと、つがいさんのお役を果たせているんだろうか……)
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