ブタの一生は醜く続く

だいこん

第1話 捨てる彦星、拾う織姫


 八月七日、今日は織姫と彦星が会う日らしい。


 おかしなことは言っていない。一般的に考えればそれは一ヶ月前の今日にあたるのだが、ここ仙台では八月に七夕たなばたの行事がおこなわれる。


 宮城県の“仙台七夕まつり”と言えば、地元の人間にはおおかた通るだろう。この街では一ヶ月遅れて織姫と彦星が会うのよと、母親は幼い頃の俺に教えてくれた。


 黄昏たそがれ時を過ぎた空には星がまたたき、公園の広い敷地内にはずらりと出店が並んでいる。甚平じんべえ、浴衣、足元を照らすだいだい色のちょうちん――


 華やいだ喧騒の中で、俺と、彼女たちだけが世界から切り離されていた。


「……誰なの? その子」


 ぼそり、賑々にぎにぎしさに消えてしまいそうな声。なのに言葉尻まで拾い損ねることはない。語気に揺らぐ情念の炎が、闇と溶け合うことを許さなかった。


 現実の出会いはおとぎ話のように、ロマンチックにはいかない。


 SNSを通じて親しくなった異性と歩いていたら、二週間前、マッチングアプリで知り合った女と運悪く出くわしてしまった――事のあらましはこんなところで、悪いのは浮気していた俺一人。そう思えたなら、たぶん話は単純だった。


 目の前にいるこの女が、別の男と腕を組んで歩いているところさえ見なければ。


 怒りや悲しみとも違う、ひどく冷めた感情が思考をてつかせる。

 自分の事を棚に上げて、許せないなどと筋違いな義憤ぎふんに駆られることだってない。


 ある時を境に、この女に対する認識は変わっていたから。


「誰とも付き合ってないって、このあいだ言ってなかったっけ。チャットでさ」


 若干の震えをはらんだ声に俺は小さくため息をつき、


「……言っていましたね」

「うざ。敬語キモ。で、誰? はっきり喋ってよ」

「あなたの隣にいる人も誰なんですか?」


 返ってきた憎々にくにくしげな舌打ちは、じれったさの産物だった。


「……質問してんのこっちでしょ、“かさぶた”ぁっ……!」


 人がマッチングアプリで使っている名前を叫ばないでください、と言えば怒りに火がつくのは目に見えている。いいや、あるいは既に手遅れなのだろうか。


 腹立たしさがにじんでいたのは言わずもがな、剣呑けんのんな空気を嗅ぎ取ってか、何人かの野次馬がスマホを構え始めている。肌に触れるマスクの感触越しにうっとうしさを覚えていると、


「かさぶたって……銀平ぎんぺいくんのこと?」


 俺と付き合っている彼女がこぼした言葉に、対岸の空気はわかりやすく凍りついた。


「……銀、平?」

「はい」


 ――もうあとには引けない。


 マスクを顎下まで引き下げて、俺は自分の素顔をさらけ出す。


鰐淵わにぶち銀平。……ユミコさんとは中学の時、クラスメイトでしたね。俺はいつも、あなたにいじめられていましたが」

「……冗談のつもり? さすがにウソ。だって目とか輪郭とか、あの時と全然ちが――っ」


 息を飲む音を聞けば、勘付いたと思うには十分だった。


 本当に、いやまさか、そんなはずはないだろう。相反する感情がユミコの強がりをくつがえし、納得の色を浮き彫りにさせる。


 気付くまでがやたらと早かった気もするが、もしかしたらこの女も――だとしても、俺とはが違うのだろう。


 顔を変えているようには見えない。であれば体のどこかなのだろうが、想像する気は毛頭もうとうない。


「思い出したくなかったですよね。俺みたいなブタの存在」

「……なにが言いたいのよ」

「発言力があって、人を好きにけしかけられるあなたのような人間を……俺は忘れたくても忘れられませんでした」


 最悪の出会い、最悪の偶然。

 一年に一度、想い人と会える奇跡の時間とやらがあるのなら、その逆もまた存在するのだろう。


 彼女の名前とマッチングアプリのプロフィールに記載されていた出身校。それから多少加工が施されているものの、自撮りのアイコンを見た時からそこはかとない予感はあった。声まで聴いてしまえば、確信に至るまで時間はかからない。


 忘れられないトラウマだった。


 丸々しくて、みにくい顔で、いやらしい視線を私に送ってくるの。

 隣の席になると見えないように体を触ってきて、くさい息まで吹きかけられてホント最悪――根も葉もないうわさに同情を誘う語り口が相まって、クラスメイト達はあっという間にユミコの味方になった。


 俺に対する無視は当たり前。時には女子を使ってセクハラをでっち上げ、高圧的な男子からは散々こき使われた。

 当時の担任に助け舟を求めたこともあったが、「弱いお前にも原因がある。もっとみんなと仲良くなる努力をしろ」と、喧嘩両成敗の形で突き放された。


 ままならない現実の前に、俺の心は簡単にひび割れた。


 いつしか他人行儀な言葉が張り付いてしまったのは、これ以上傷つかないようにと心を守った結果だった。言葉の鎧は、心の鎧だ。


「最悪、本っ当に最悪……人を騙して浮気までしてっ……!」


 口惜しげにつぶやいているユミコの横では、彼女と付き合っている男がまじまじと俺の顔を見つめていた。値踏みでもしているのか、それともこんな人間が世の中にいるのかと軽蔑の視線を送っているのか。


 しかし会ったばかりの人間が何を考えているのかなんて、実際のところよく分からない。


 ユミコは一貫して自分の浮気を棚に上げ続けている。どういう訳か、彼女は目尻に涙まで浮かべていたが、その理由を考えるのは恐ろしいと感じた。景気のいい祭囃子まつりばやしの掛け声が、やけに遠い。


「……気なんて全然晴れなかった」俺は誰にも聞こえない声でつぶやき、「これからはもう、お互い他人という事で――っ」


 一瞬の出来事に頭がついてこなかった。

 だけど、頬に感じた痛みは何よりも鮮明で。


「……こっちのセリフよ、ブタ野郎……!」


 近くにいたお面をかぶっていた子供が身をすくませる。頬に残るしびれより、ひりつくような痛みの方が心にはずっと鋭い。


 ユミコは人混みの中に消えて、連れの男は再度、俺の方を一瞥いちべつして彼女を追いかけた。


「浮気、してたんだ」


 もはや存在を忘れかけていたが、この場にいるもう一人の被害者のことを思い出す。


「……そう、なるんでしょうか」

「そりゃあ、そうだよ」

「幻滅しましたよね」

「するなって方が無理だよ。でも……ああ、うん。そっか」


 髪を触り、唇を動かしながら彼女は絞り出すように、


「……ごめんなさい。今の銀平くんとは、距離を置きたい……です」


 言葉を選んではいたものの、含まれていたニュアンスは「別れましょう」とほぼ同義のものだった。


 唇を動かす時、髪をしきりに触ってしまう。それは彼女と交際する三ヶ月の間に学んだ、本心を隠す時のお決まりのクセだった。


 俺はなるべくあたたかな音を声色に乗せながら、


「わかりました。俺よりいい人、見つけてください」


 ――なんて言葉を返すのが正解だったのだろう。


 参ったよと言わんばかりに向けられる儚い笑顔を、俺は直視することが出来なかった。人混みの中に彼女の背中が消えていくと、野次馬どもがつまらなさそうに散っていく。


 いよいよ俺は、一人になった。


「……って」


 こんなにひどい七夕は初めてだ。けれど抗議する資格はない。悪い事をしたのは俺なのだから、置き土産のように残された痛みに耐えて、帰る事しか許されない。


 すれ違う人々は誰一人として足を止めない。おこがましくも、心細さを覚えそうになった時だった。


「――あ、あのっ! そこのかたっ!」


 雑踏の中から届いた声に振り返り、


「大丈夫でしたか? 遠くからっ、頬を叩かれているのが見えたので――って血!? 血が出ていますわっ! 大変、少々お顔を貸してくださいませ!」

「え? ……あ、たぶんリップです」

「へっ? えっ?」


 ほら、と言いながら口の端を拭って見せる。発色のいい赤色が指先についた。


「たぶん、叩かれた時に崩れたんだと思います。心配させてすみません」


 桔梗ききょう柄の白い浴衣に、赤い鼻緒の黒い桐下駄。絹のように繊細で綺麗な黒髪は編み込んでカチューシャにされ、後ろの髪はかんざしで一つにまとめられている。陶磁器のように白く滑らかな肌は、ちょうちんの灯りに照らされて淡いだいだい色を受け止めていた。


 髪型ともども手間のかかりそうな装いだが、祭りの雰囲気に合わせて誰かにセットしてもらったのだろう。小柄な体格から年齢は十代なかばくらいだろうか。


 しかし、何よりも耳を引かれたのは彼女の喋り方だった。


「安心しましたわぁ……わたくし、ケガをしていたらどうしようかと……」


 いわゆるお嬢様言葉、とでも呼ぶのだろうか。アニメや漫画の世界であればまだしも、現実で堂々と使いこなしている人間は初めて見る。


 ほっと胸を撫でおろしている彼女に誰なのかと問いかけると、愛嬌を感じさせる丸い瞳をしばたたかせてから、


「も、申し遅れましたわ! わたくしは真田さなだ芽衣めいと申します。こちらはお友達の――あら?」


 たおやかに添えられた手の先には、誰もいない。


「……すみません、俺、霊感がなくて。そこに友達が?」

「はい。いた筈ですわ」

「あの……なんというかその、ごしゅうしょ――」

「ではなくてっ!」


 彼女の顔面が瞬く間に蒼白になり、


「わたくし……はぐれてしまいましたわぁ~~~!?」


 お盆にはまだ早いだろうにと邪推していたが、杞憂きゆうに終わって何よりだった。間の抜けた声が孤独感の芽を摘んでゆく。


 帰路につく前に、俺はやるべき事を見つけた気がした。

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