今夜全てを
◆ ◆ ◆
丸い月が、黒々とした夜空にぽっかりと浮かんでいる。蒼白い光を撒き散らし、闇に沈む山道を青く照らしている。
仰ぎ見るその輪郭は、どこかあの日姫と見たものと似ていた。まだ、何もかもを失う前の、遠い平安の夜と。
「双極鬼様、どうなさいました」
すぐ背後に控える下男が、そっと問いかける。
「……いや。何でもない。少し、平安の頃のことを思い出しただけだ」
鷹彦はそれだけを答え、再び歩を進める。
今は過去に浸っている時ではない。
やがて、崖の上に建つ小さな寺が見えてきた。
鷹彦が一歩踏み出すと──寺の門の前に、四つの影が立ちはだかる。
風に揺れる桔梗の長い髪。脇に立つ誠二は緊張しているような、険しい表情をしていた。その隣には、鋭く紅い眼を光らせる清影がいる。
そして、どれだけ探しても見つからなかったはずの幸代まで、月明かりを浴びて静かに佇んでいた。
鷹彦は立ち止まり、じっと彼らを見据え、愉快に感じて口角を上げる。
「……まさか本当に、増幅の奇術の持ち主がいるとはな」
「嘘だと思っていたの?」
桔梗がまっすぐに鷹彦を見つめて問いかけてくる。鷹彦はその顔が、気丈な態度が、やはり苦手だった。
「俺をおびき出すための罠だと思っていた」
「それにしてはあっさりと姿を現したのね」
「お前が時を戻っているのなら、これ以上正体を隠す意味もないからな」
鷹彦はそう答え、ゆっくりと誠二に視線を移す。
「誠二。お前が裏切るとも思っていなかった。何故そちら側にいる?」
「お前に従い続けても、幸せな未来など来ないと桔梗さんが教えてくれたからだ。兄様を食い殺した化け物め。お前の命はここで終わりだ」
くっくっと鷹彦は肩を揺らして笑った。
「味方ができた途端に強気だな。だが誠二、お前の本質は変わらない。臆病で保身的で、自分のためとなれば人を裏切る。お前が俺に勝てることもない」
「変わりたいと思ったからこっちに立ってるんだ! たとえ勝てなくても後悔はしない!」
誠二が怒鳴った。怖がりの誠二が自分に楯突くのを、鷹彦は初めて見た。
(……意思が固い。面倒だ)
壊れた駒になど興味はない。誠二諸共殺してしまおう。
鷹彦は桔梗の横に立つ幸代に目を向けた。――あの女さえ奪えればそれでいい。
「時を戻っているにしては不用心だな。俺の獲物をやすやすと表に出してくるとは」
鷹彦の合図と共に空気が震え、地面がわずかに鳴った。
鷹彦の背後から無数の鬼たちが現れる。重く湿った夜気を押しのけるようにして。
人の姿をした者もいれば、鬼の形のままである者もいる。鬼たちは静かに、着実に数を増していく。その目は狂気に満ちており、空気そのものが黒く濁っていくようだった。
鷹彦は唇を歪めて笑った。
今夜全て、終わらせてやる。
先に動いたのは鷹彦の背後に待機していた鬼たちだった。ぐわりと裂けた口が吠え、地を蹴る。怒涛のように押し寄せる鬼たちが、門前の人間たちに襲いかかろうとした、その瞬間だった。
鐘の音が響く。
寺の門が内側から押し開かれた。そこから黒装束に身を包んだ者たちが一斉に飛び出してきた。腰に佩いた刀が月光を反射し、無言で鬼たちの群れに斬りかかる。
(邏卒……?)
信じられない光景だった。
寺の中から現れたのは、鬼狩りを専門とする邏卒たちだ。通常、明確な証拠がなければ表立った介入は避けるはずの彼らが今、まるで待ち伏せしていたかのように鬼へと刀を振るっている。
さらに、邏卒に続くようにして、僧たちも現れた。彼らはまるでずっと準備していたかのような手順で経文を唱えながら、呪符を投げ、結界を張り、鬼たちを一体ずつ確実に封じていく。
夜の静けさは一瞬で破られ、鬼たちの咆哮と、人の怒声、金属の打ち合う音で満たされた。
鷹彦は拳を握りしめた。
「……何故、邏卒がここに?」
怒りを押し殺すように呟いた鷹彦の前で、桔梗が清影の手を握ってすっと一歩進み出た。
梅の柄の着物の裾を翻し、得意げに鷹彦を見上げる。
「家の中に敵を作らない方がよかったわね。藤山家の女中たちが、あなたと、あの下男が鬼である証拠を集めてくれたのよ。あなた、普段から女中たちに偉そうな態度を取っていたでしょう。女が敵に回ると怖いってこと、これで分かったかしら」
月光に照らされた桔梗の瞳は、鋭く光っていた。
戦いは長く続いた。
鷹彦を守る形で周囲を取り囲んでいた鬼たちが、次々と邏卒と僧侶たちに押し返されていく。
しかし鷹彦は冷静だった。人間というのはやはりどこか甘い。まだやりようはいくらでもある。
鬼たちと邏卒、僧たちの戦いが激しさを増す中で、鷹彦の瞳だけが、冷たく、鋭く場を見据えていた。
すっと影のように動いた鷹彦の腕が、油断していた一人──幸代を捕らえた。
「きゃあっ!」
幸代が短い悲鳴を上げる。桔梗が振り向いたときにはもう遅かった。
鷹彦は幸代の首筋に大きな手をかけ、ぐいと引き寄せる。
「誰も動くな」
低く、地を這うような声。
そのまま鷹彦は、幸代を抱えたまま、するりと崖の際へと後退していく。
月明かりに照らされた崖の端。
幸代の足元には奈落の闇が広がっていた。
清影が一歩踏み出しかけたが、鷹彦が幸代の首をぎり、と締めるように強く掴み直す。細い首は鬼の大きな手にすっぽりと収まり、力を込めれば一瞬で折れてしまいそうだった。
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