第36話

「はあ……」


 何度目の溜息だろうか。

 ノートパソコンのキーボードの上に手を置いてはいるものの、全く持って執筆のスピードが上がらない。

 いや、ゼロには何を掛けてもゼロなのだから上がるもクソもないような気がする。

 つまるところ、現状一文字もパソコンに入力されていないので、目の前にはまっさらなページが広がっているだけなのである。

 一応今やっているのは部誌の原稿だった筈なのだが、今までのように時間の経過を待っていればいくらでも湧いて来る筈だったアイデアがまるで湧いてこない。

 不味い兆候のような気がするし、出来れば勘違いであってほしいのだけれども、もしかしてスランプに陥ってしまったのだろうか?

 このように全く何も思い浮かばないなんて事は今までなかったから、現状の自分の身に起こっている現象が何なのかまるで分からないから、はっきり言うと怖い。

 ……あの、天童宅に向かう前に一度原稿をちょっとで良いから進めてみようと思い電源を入れたのがマズかったのかもしれない。

 まさか自分の身にこんな事が起きているとは。


「いや、自分の身というか脳みそというか」


 それはさておき。


「……」


 もしかしたら、案外気にしているのかもしれない。

 姉さんと、竜胆先輩の反応を。

 いや、竜胆先輩に関しては単に「慣れてないんじゃないか?」と普通の反応だったし、姉さんに関しては「なんで慣れてない事をしているの?」という真っ当な疑問だった。

 それに対して過剰に反応しているのはむしろ私なのかもしれない。

 だから、これに関しては私の問題なのだろう、うん。


「ただいまー」


 と、そこで「がちゃり」という玄関の扉が開く音が聞こえ、それからとんとんと階段を登る音が聞こえてくる。

 それから数秒ののち、扉が開いて姉さんが顔を出してきた。

 どことなく私の顔色を窺っているようだった。


「あの、大丈夫?」

「大丈夫、とは?」

「いやその、ごめんね? 私もちょっと変だったと思う、確かによーちゃんもそういう内容を書きたくなる時だってあるよねって、思ってさ」

「……別に、大丈夫ですよ。私も慣れない事をしちゃったかなと今、考えていたところでしたし」


 とはいえ、謝られたのならば受け入れるべきだ。

 そもそも姉さんに非はないんだから――



「なんだか、よーちゃんらしくなくてびっくりしちゃった。よーちゃんがそんな夢見がちな内容を書くなんて思ってなかったし」


 かち、と身体が強張る。

 言葉を発しようとしたが、その前に行動に移っていた。

 即ち――都合良くたまたま部屋の脇に置かれていたキャリーバッグを開け、そこに服とかいろいろなものを突っ込み始めたのである。


「え、え? ど、どうしたのよーちゃん」

「どうしたの、じゃないです」


 私の言葉は極めて普通で普段と変わっていなかった。

 だというのに、何故か怒っていたのは伝わったのかもしれない。


「家出をするんです」


  

  ◇



「――という事があったのですが」


 最後まで話し切った夜月さんに、私達二人は顔を見合わせて唸った。


「「……んー」」

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