第12話 沼

 小百合と冥が暮らし始め、早くも二ヵ月の月日が経った。刺激的で暑い夏は、実りと枯渇の秋へと移り変わっていた。


 


「ルールを決めます!」




 縁側でタバコを吸っていた冥に、小百合は指を差した。冥は口にタバコを咥え、羽織っていたジャケットに袖を通した。




「ルールって?」




「最近、冥ちゃんは私にベタベタし過ぎです! 隙あらば、その……キ、キス! してきて……!」




 タバコの煙を小百合に飛ばし、煙で目を瞑ってしまった小百合の頬に、冥は軽くキスした。




「隙だらけなのが悪い」




 悪戯気な笑みを浮かべながら、冥は新しいタバコに火を点けた。二ヵ月の二人暮らしの中で、二人の上下関係は明確に示されていた。住み始めた頃の遠慮がちな冥は、今では影も形も無い。今の冥は、獲物が油断する瞬間を茂みで待ち構える肉食獣のよう。知識の無さは同じでも、耐性には大きな差があった。


 このままでは爛れた日々を繰り返してしまう事を危惧した小百合は、抑止力となるルールを作る事を決心した。頬に残る冥の唇の感触を手で抑えながら、小百合は徹夜して考えたルールを提唱する。




「まず、気軽にキスをしない事!」




「却下」




「最後まで聞きなさいよ……キスが許されるのは、私から冥ちゃんにする場合のみ! 無理矢理してきた場合は、罰としてタバコを没収します!」




「えぇ……私に死ねって言うの……?」




「問答無用! 次に、プライバシーの確保! 食事と雑談以外の時に付き纏わない事!」




「小百合さんが傍にいてほしいって言ったから、私が傍にいるだけなのに……」




「限度ってものがあるのよ! お風呂はともかく、トイレにまで傍にいられると、恥ずかしくて死んじゃいそうなのよ……!」




「はぁ……はいはい。なるべく善処しま~す。で、他には?」




「次が大事よ? 役割分担! ご飯も掃除も洗濯も、全部私ばかり! 私が汗水流している間、冥ちゃんは何をしてるのかな~?」




「タバコ吸ってます」




 小百合は右腕を振り被り、冥の頭に勢いよくチョップした。人を殴った経験が無い所為で、冥に小突いた程度のダメージしか与えられず、逆に自分の手を痛めてしまう。


 冥は吸っていたタバコを吸い殻で山盛りになった灰皿に突っ込み、小百合が痛めた右手を優しく握った。




「この手じゃ、ろくに家事も出来ませんね。痛みが消えるまで、ゆっくり休んでてください」




 小百合の頭を優しく撫でた後、冥は首の骨を鳴らしながら作業に取り掛かった。掃除、洗濯を手早く終わらせると、小百合の背では届かない高い場所の掃除と補修をこなした。更に家にある刃物の類を一ヶ所に集め、砥石で丁寧に砥いで、紙を切れる切れ味にしていく。


 言われた以上の作業を淡々とこなす冥の姿を眺めていた小百合は、湧き上がる嫉妬を抑え込みながら、頭に浮かんだ疑問を冥に問いかけた。




「……家事出来たの?」




「毎日小百合さんを見てるんです。どういう動きをして、その行動の意味を理解すれば、応用は利きます」 




 小百合の問いに、冥は当然と言わんばかりの口ぶりで返答した。だが、その言葉と態度に、小百合の心は暗い闇の中へと沈んでいく。幼くして既に優れていた姉だけを認知していた両親の影が、小百合の脳裏によぎる。


 袖を捲って食事の準備に取り掛かろうとしていた冥の背後に小百合は忍びより、冥の脇に触れた手を滑らせていく。




「小百合さん?」




 小百合の手は冥の腹部を通過し、胸部を通り過ぎ……。




「ズルいよ……」




 小百合は冥の背に頭を押し付けながら、冥の喉元を両手で掴んだ。初めは摘まむ程度の力であったが、徐々に力が増していき、やがて明確な殺意を帯びるようになっていた。




「私だけ、独りにさせて……私だって……私だって……」




 顔が痺れる感覚を覚えながらも、冥は微動だにせず、小百合の言葉を聞いていた。




「私も、頑張ってるのに……独りでも、生きてきたのに……なんで皆、私を置いていくの……?」




 呼吸も困難になり、視界に黒い霧がかかっていく。それでも冥は、小百合を振り解くわけでもなく、ましてや許しを請うわけでもなく、小百合の手に自身の命を委ねていた。




「冥ちゃんは、私の傍にいてくれるんだよね? 置いてったり、しないよね? 私を独りにさせないよね!? あ、でも、死んじゃったら……あ、あぁ!」




 冥を殺そうとしている自分に気付くと、小百合はすぐに冥の喉元から手を離し、後ろに下がった。




「ごめん……ごめん、なさい……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……ご、ごめん、なさい……!」




 罪悪感と自己嫌悪から、小百合は膝から崩れ落ち、目を見開いたまま泣いた。自分を殺したい気持ちと、死にたくない気持ちが混在し、精神がグチャグチャに捻じれ始める。喜怒哀楽の全てが混ざった表情になると、無意識に笑い声を上げてしまう。頭は真っ白になり、過去のトラウマと現在の罪が繰り返し脳裏にフラッシュバックし、自分が誰なのかも分からなくなっていく。


 滲む視界に見えるのは、平然とした姿で小百合を見下ろす冥の姿。小百合は冥の服を掴むと、よじ登るように自分の体を持ち上げていき、冥にすがりつく。


 


「冥ちゃん! 冥ちゃんだ!」




「そうですよ。小百合さんの冥です」




「アハ、アハハハ! 冥ちゃん冥ちゃん! ハハ、アハ、アグゥ、ウゥゥ……!」  




「泣かないでください。私はここにいますから。ずっと、傍にいますから」




 冥は覆い被さるようにして、小百合を優しく抱きしめた。冥に包み込まれた小百合は、笑い声を上げながら涙を流し、泣きながら笑顔を浮かべる。最後の寄る辺である冥の温もりで、狂気が胸の奥へと遠ざかっていくと、小百合は眠りに落ちた。


 眠りに落ちてしまった小百合と共に、冥は床に寝そべる。さっきまで取り乱していたのが嘘かのように、小百合は安心しきった寝顔をしていた。  




「小百合さん。私だけを求めてください。内に抑え込んでいる狂気や憎悪を全て私だけに向けてください。そうすれば、私達は、もう独りになりませんから……」




 冥は小百合のオデコに自分のオデコをくっつけた。小百合が目を覚ました時に、視界に映るのが自分の瞳である為に。

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