惑う夜の兎は、月明かりの綿之原で踊る
棒王 円
絶望は出会いを生んだ
軽やかな足取りで、汚い路地を歩いていく。
ナイクのスニーカーは、少し弾んでいる足音を消して少年を運んで行く。
汚いと言うにはもう言葉が足りないほど、臭いが染みついた雑多なものが捨てられている道の行き止まりの場所で、少年は足を止めた。
「ああ、ここにいたのか」
呟く声はアルトの音。
少年の視線の先にはごみの山の中に倒れている男がいた。
男に近寄り顔を覗き込む。
絶望を映す眼には、少年の姿さえ見えていない。
息も浅く、多分このまま置いておけば今夜にも男はあの世へ行くだろう。
そう、そんな顔をしているのに。
「心ではこんなにも、生きたいと願っている」
少年が男の顔を撫でる。
その感触で、男が少年を見た。
見られた少年はにっこりと笑う。
「僕があなたを助けてあげるよ」
どうして、と口が動いた気がする。
もう声を出すことすらできないのだろう。
「だって、あなたの声はすごく好みだから」
男の眉根が動く。しかめ面ももう出来ない。
「今はもう、何も思わなくていいよ」
男の目を少年が手の平でふさぐ。
その意識が薄くなり、男はこの世界から消え失せることを覚悟した。
再び男が目を覚ました時は、見慣れない天井が見えた。
「…異世界転生か?」
「違うよ」
自分の隣から苦笑気味の声が聞こえて、そちらに首を回す。
見た事がない様な美少女?が枕元に椅子で座っている。
「ここは」
定番の言葉を口にしたが、辺りを見回した後で病院だと分かった。
自分が寝ているのは個室のベッドの様だった。
「病院だよ。あなたが栄養失調だと思って運んだんだ」
「俺は」
美少女?が首を傾げる。
ショートカットの髪がふんわりと揺れて、真っ黒な大きな瞳が男を見ている。白い肌も小さな桃色の唇も、人形のように見える実物が話していた。
「俺は金が無い。ここの金はどうすれば」
金が無いのだからどうにも出来ないのだが。心配になる。
借金だらけでこれ以上は金を借りられない。
「そんな事気にしなくていいよ」
男の心情を気にしない風に、美少女?が言った。
「僕が払うから気にしなくていい」
言い切られて男は美少女?を見る。
「僕が助けたいと思ったから、僕が払うんだよ」
「助けたいって」
あの時の自分を男が思い返す。
もう、食べるものも無くてゴミを漁っていた。仕事は退職を促されて退職した。親の借金取りが会社まで取りに来たのだ。親が死んでから莫大な借金があった事を知った。妹は親戚に預けた。必死に働いた、仕事もかけ持ちをして寝る間もなく。
けれど、どうやっても、返せなくて。
もう自分に保険をかけて、自然死を待つしかなかった。
あの場所で動けなくなって、もうここで良いだろうって思って。
それでも本当は生きたかった。
死に際に、思い切り心の中で叫んでいた。それは覚えている。
しかし。
「声に出していたか?」
男が呟くと、美少女?が首を横に降る。
「ううん。あなたは声を出していないよ。僕があなたの心の声を聞いただけ」
「え?」
「それがね、すっごい好みだったんだ。今もあなたの声がしているだけで心地いいよ」
「は?」
「だから、実際に聞きたかったし」
そう言ってから、美少女?が顔を近づけてくる。
「これから先も聞きたい」
物凄い顔の近くでそう囁かれる。
男は顔をどかそうと思ったがその前に、首の後ろに手を回された。
「だから、事情を教えて?僕が解決するから」
物凄く密着した事で、美少女?の喉に喉仏がある事を確認した。
ああ、美少女じゃなくて美少年でしたか。
男がそう思うと、美少年はパッと離れた。
少し顔が赤い。
「解決って」
「お金の事?それだけ?」
そう問いかけられて、男が少し不機嫌になる。
「それだけって言われると嫌だな。確かに金の事だけど、俺は必死で」
「あ、うん、ごめんね。言い方が悪かったね」
美少年がそう言って手を合わせて謝る。
「だけど、お金の事なら解決できるから」
「それは」
願ってもない事だが、目の前にいるのは赤の他人だ。
そう思った男に美少年が笑いかける。
「これはチャンスだと思って。あなたに与えられたチャンス」
にこやかに笑っている美少年を男がじっと見る。
「チャンス」
「そう、何百万分の一で手に出来るチャンス。これ以降はもう手に出来ないと思うよ。僕以外にこんな事言う人はいないと思うし」
病室のドアの横にじっと立っていた黒いスーツの男が小さく肯くのが見えた。この部屋に別の人物がいる事に今気が付いた男は、その人物を見る。
「あ、気にしないで、僕の部下だから」
「部下?」
「気にしないで。それで、どう?僕に頼んだりする?」
「…」
黒いスーツを着た男を部下とか、この美少年はヤバい界隈の人かもしれない。
けれど、今更だ。
誰もが疎遠になった。お金の事で人となりが分かると言うが、それが本当だったとつくづく分かった。仲良くしていた人の誰一人として手を差し伸べなかった。
今、自分に手を差し出しているのは。
「頼めるのか」
「うん、まかせて」
満面の笑顔で、美少年が頷いた。
「比鍵!大至急手はずを整えて処理して」
「はい。いかほどで」
「早ければ早いほどいい。僕が言う大至急だよ?」
「分かりました」
黒いスーツの男がすっと病室から出て行った。美少年は男を見てニコニコ笑っている。
それから男に話しかけてきた。
「あの、聞きたい事があるんだけど」
「なんだ?」
男が答えると一瞬ぶるっと身体を振るわせた後で、目を合わせてくる。
「名前、教えてくれないかなあ」
「あ、ああ、そうか。すまない俺は、綿原 禎祥だ」
「わたはら、さだなが、さん」
「お、おう」
ニコニコしながらカバンを開けて自分の手帳を取り出してくる。
「あの、ここに漢字で書いていただけませんか?」
「…ああ」
ペンを借りて漢字を書く。さして上手くないその文字の何が良いのか、美少年はその書かれる文字に夢中だ。
書き終わって手帳を返そうとする綿原に、美少年が再びお願いをした。
「あの、その名前の下にカタカナで、アルゴンって書いてくれませんか?」
「………は?」
綿原が凍ったように固まる。
「な、なぜ、その名を」
「お願いします。あの、何か考えたサインがあるならそれでお願いしたいんですけど」
結構な早口で、美少年が綿原を追い詰める。
「き、君は、まさか」
「最近、更新がなくて凄く残念だったんです。でも今日、天恵のように路地であなたを助けられたのは、これはもう本当に巡りあわせとしか」
また早口で言ってくる美少年を、綿原が固まったまま見ている。
「お願いします、アルゴンさん」
滅茶苦茶良い笑顔で言われた。
綿原は渋々、アルゴンと考えていたサインをする。
それを見た途端に、美少年がクルクルとその場で回った。手は万歳をしている。
その姿を見た時に、綿原の眼から涙が零れた。
こんなに自分の生存を喜ぶ人が他にいるだろうか。
目の前の人物以外に。
美少年が綿原の涙に気が付いて、ティッシュで涙を拭う。
それでも止まらない涙と鼻水に、ティッシュをボックスごと貰って暫く綿原は泣き続けた。親の借金があると分かってから働き続けて泣く事などしなかった。
どんなに苦しくても情けなくても涙は出なかった。
けれど、いまは。
鼻をすすりながら泣き続ける綿原の頭を、美少年が撫でている。
泣き終わった綿原がぼうっとして美少年を眺めている。
「それで君は、俺の読者なんだね?」
「はい。最初の作品から読んでいます」
語尾にハートでも付きそうな声で、美少年が答える。
「あ、そうだ君の名前も聞きたい」
「僕は、御神楽 夜兎と言います」
「みかぐら、やと?」
「はい、やとは夜の兎です」
なんと美少年に似合った名前か。芸能人のようだ。
「じゃあ、御神楽君」
「夜兎って呼んでください」
「や、夜兎」
「はい」
綿原に呼ばれた夜兎はまた、ぶるっと震える。
その姿を見て綿原は、そう言えば自分の声が好きだと言ってたなと思いだす。
何か話の続きを、そう思った時に病室のドアがノックされた。
「なに?」
夜兎が答える。
黒いスーツの男が入って来て頭を下げた。
なんだかんだしながら、二時間ぐらいは過ぎていたが。
「言われた通りに彼の借金は全額返済いたしました。これ以上の追及も出来ないものと思います」
「うん。弁護士は誰を立てたの?」
「椎名先生に頼みました」
「ああ、椎名先生ならばっちりだね」
そう頷いてから、夜兎が黒いスーツの男に笑いかける。
「ご苦労様、比鍵」
「いえ、勿体無いお言葉です」
そう言って頭を下げる男から、綿原に顔を向ける。
「さてこれで、綿原さんの借金は無くなったよ?」
「え、本当に?」
「うん、確かめに行く?」
「ああ」
外に出て連絡をして確認したい。
綿原が夜兎に頷くと、紙袋を渡される。中を見ると新品の靴と洋服が入っていた。
靴はナイクでサイズもばっちり。洋服はどうやらウニクロの様で。
自分が倒れた時に着ていた服は確かにもう、薄くて汚れていたなと思いだす。
遠慮は夜兎の顔を見てやめた。笑顔でこっちを見ているから。
着せられていた病院着を脱いで、服を着る。新しい服なんて何時ぶりか分からないが、気持ちが切り替わるような気がした。
借金先に電話で確認する。銀行にも問い合わせた。
すっかり完済されていた。
綿原は夜兎の顔を見る。ついて来ていた夜兎はにっこりと笑う。
本当に、助けて貰った。
それを綿原はどう返せばいいのか分からない。
「夜兎」
んふっと息を吐いてから、夜兎が綿原を見上げる。
「はい」
「…腹減ったな」
「ああ、もう、内臓も大丈夫ですから、何でも食べられますよ」
夜兎の答えに綿原が首を傾げる。確かに自分は暫くまともな食事をしていなかったが、何を食べても良いとは思っていなかった。
「モック食べたいんだけど」
そう言ってから、自分が無一文な事を思い出す。
「良いですね。僕も久しぶりに食べたいです」
夜兎が笑いながら綿原の手を引っ張る。
「あ、夜兎、俺は」
有無を言わせずにカウンターに並び、ビッグモックのセットを二人分頼まれる。綿原の飲み物はコークで、何処まで自分のことを知っているのかと、綿原が夜兎を見つめる。
それから、食べ始めた夜兎に思い切って聞く事にした。
がぶっとビッグモックを食べた夜兎に綿原が話しかける。
「あのさ、夜兎って、アイクアイクさんか?」
んって言ってのどに詰まったものを、アイスティーで流し込んだ後、夜兎は綿原を見た。
なるほどと綿原は思った。
古参の自分の読者となると数人だけで、コメントを良く返している人物は一人しかいなかった。
「あ、の」
真っ赤な顔で夜兎がアイスティーのカップを握っている。
「嬉しいよ。そこまで好きでいてくれて」
「ふわっ」
夜兎が変な声を出した。
そこで自分の声が好きだと言う夜兎に、リップサービスでもしようかと綿原が考えると、夜兎が立ち上がって手の平を立てて止めた。
「それは録音させてください」
「え」
俺は今、声に出して言っただろうか?
綿原が疑問に思うと、ハッとして夜兎の顔が強張った。
「あの、うん、ええと」
夜兎が意味のない言葉を繰り返し、結局それ以上の話はせずに再びビッグモックに齧りつく。しかし先程までの楽しそうな雰囲気は消えていた。
食べ終わって店の外で、夜兎が綿原の手を掴み、それから離した。
綿原は離れた夜兎の手の熱を、寂しく思う。
「これで、綿原さんの問題は解決しました。家賃とか暫くの生活費とかは銀行に入れてあります。僕の支援はこれで終わりです」
ああ、という言葉も出て来ない。
こんな風に唐突に終わるとは思っていなかった。
「あなたの力になれてよかったです。最高の推し活でした。有難うございました」
そっちが礼を言うのかと綿原が驚く。
礼を言わなければならないのは自分の方で、恩返しすら思いついていないのに。
「夜」
言いかけて言葉が止まる。
夜兎が泣きながら笑う顔は、とても現実とは思えないぐらい幻想的で。
「さようなら」
そう言った夜兎が、ふっと眼の前から消えた。
「…え?」
綿原があたりを見まわすが、走って逃げる姿など何処にもなく、まるで初めからそこには居なかったかのように、自分一人が立っているかのように。
「夜兎?」
声に出して呼んでも、それに答える人物は存在しなかった。
夜兎は黒い車の後部座席で、静かに泣いていた。
運転している比鍵が、バックミラーで夜兎を覗き見る。
この小さなマスターが気に掛けた人間が、マスターの思う通り幸せになればいいと、比鍵も願った。友になる事すら厳しい世界の離隔が二人の間にはあるのだから。
「良い声だったなあ…」
ポツリと夜兎が呟く。涙を止めようと必死になりながら。
早く立ち直って欲しいと、運転しながら比鍵は思った。
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