貴女になら、なんだってされても良い。
スライム小説家
……良いよ、好きにしてくれ
高校生となった私、浜野千夏は荒れていた。両親の離婚による家庭の崩壊。頻発する怪我のせいで諦めざるを得なかった、テニスの選手になるという夢。その二つの出来事は、優等生と言われていた私を自暴自棄にさせるには充分だった。
成績が悪い? 進学に響く? そんなこと知ったことか。これ以上頑張っても何の意味もないのだ。その果てに私が破滅しようが、かつての友人たちが私を見放そうが、どうでも良い。
……そんな刹那的な生き方は、一人の女性との出会いによって大きく変わった。
「キミ、二年前全国に行った子だろ。こんなところで何をしてるんだ?」
雪崎真冬。一学年上の先輩である。あまり覚えてはいないが、一度だけ対戦したことがあったはずだ。それだけの関係だったが、彼女は私のことを覚えていたらしい。
雪崎さんは、私と同じ夢を見る同士だった。私と同じようにテニスが大好きで、いつかプロのテニス選手になりたいという全く同じ夢を持っていて。
私と雪崎さんの唯一の違いは、雪崎さんはその夢を他者に託している、――つまり、コーチに近い役割をしているということだった。
「まずは、怪我がちな体質を改善しなきゃね。そのためにはまず、食事を変えようか」
「は?」
「まずは今キミがくっちゃくっちゃ噛んでいるガムを吐き捨てろ。そういうあまーい食べ物は制限をして、出来る限りタンパク質とビタミンC、あとは出来ればコラーゲンを取るんだ」
「うっせえな、アタシが何食おうと自由だろうが! 一々口出しすんなっ!」
最初は、口うるさい奴だとしか思わなかった。でも、雪崎さんの言う通りにすると、不思議と結果がついてきた。
「キミが怪我がちなのはフォームにも問題がありそうだね。まずは強いショットを撃てば良いという考えを捨てよう」
「黙れよ! これがアタシのやり方なんだ、これで勝ててたんだから問題は何も……」
「ある。そのままだとまた怪我をするぞ。――私は、キミに夢を叶えてほしい。少しでいいから話を聞いてくれ」
「……ちっ。分かったよ。やれば良いんだろ、やれば」
一見厳しく、冷酷な言動からは、私への優しさが溢れていた。
「ど、どうだっ! これくらい何てことないぞ!」
「流石だね。それじゃあもう一セットやろうか」
「え゛っ」
そんな雪崎さんに感化されたのか、段々と私自身も変わっていき。
「やった、やったぞ、アタシ優勝したんだ! これでまた全国に行ける!」
「――おめでとう。これも、キミの努力の賜物だな」
腐り切っていた私を再び立ち上がらせてくれた雪崎さんには、もはや伝えきれないほどの感謝しかなくて。
「センパイ、今日の練習はどうしますか!?」
「明日の試合に備えて、軽めのメニューにしておいたよ。……それにしても、先輩か。そう呼ばれると少し恥ずかしいな」
気づけば、私は雪崎さんが……センパイが、好きになっていた。
私が県大会を優勝して、雪崎さんをセンパイと呼ぶようになってから、一か月後。それまで全く構ってこなかった有象無象が急に近寄ってきた。勿論、全員適当にあしらっている。今の私はセンパイ命なのだ。
そういうことで、今日の放課後も練習中。
「はぁ、はぁ……もう一回お願いします、センパイ!」
全国大会が近い。当然ながら戦う相手は、今まで戦ってきた相手とは段違いだ。県大会を優勝したとは言っても、薄氷を踏むような勝利ばかりだ。ブランクだってある。全国で勝つためには、一分、いや一秒すら無駄には出来ない。だから、もっと練習をしなくちゃ……
そんなことを考えていた私は、センパイの声で我に返った。
「ストップだ! これ以上やると、怪我のリスクが高まる。一旦、休憩にしよう」
「それじゃ駄目です。このままだと私は勝てない。勝つためには、もっと練習が必要なんです!」
納得がいかない。これくらいのトレーニングは誰だってやっている。確かにアタシの体は怪我がちだったが、それも過去の話だ。他ならぬセンパイの指導のお陰で、アタシの体はちょっとやそっとでは怪我をしない頑丈さを手にしている。
「いくらなんでも慎重すぎますよセンパイ! どんな練習だってリスクはあるんです。それを全て無くそうとしていたら、何も出来なくなります! このままだと私、勝てないですよ!」
「リスクを全て無くそうとはしてないさ。リターンと天秤にかけた上で、見合っていないから止めるんだ。そもそも、
あ、駄目だ。センパイに報いるために、全国を勝とうと頑張っているのに。センパイに恩返しするために、必死で練習をしているのに。私とは対照的に冷めきったセンパイに対して、やり場のない怒りが湧き出てくる。独りよがりなのは分かってる。だからこそなんとかそれを堪えようとするも、結局は抑えきれず……
「何を恐れてるんですか、センパイ! それとも、大丈夫だって言ってる私のことが、信用できないんですか!?」
「三十分ほど休憩を入れるぞ。……一旦頭を冷やして来い」
そう言われて、不満ながらも表向きは引き下がる。だが、実際にはちゃんと従うつもりは無かった。水分補給だけ済んだら、すぐに練習を再開しよう。そう思った私が、ちゃちゃっとスポドリを飲んでから戻ろうとすると。
「……ふふ、これで良いんだ」
「っ!」
センパイが、サーブを打っていた。丁寧なフォームで右から放たれたボールは、とんでもない威力でテニスコートに叩き込まれる。もはや美しさすら感じる、圧倒的な無駄の無さ。これが、私の目指すものなんだろう。
それにしても今のサーブ、どこかで見たことがあるような――
「……あ」
思い出した。確かに私は、このサーブを見たことがある。全国へのたった一つの切符をかけた、県大会の決勝で。左利きが特徴の強力な相手だった。一番の武器であろうサーブだけでなく、それ以外も完璧。当時の私は、彼女の冷静で狡猾なそのプレースタイルに私は翻弄され続け、敗北寸前となったその時――
その対戦相手は突如として、棄権したのだ。
「なんだ、見てたのか」
「……あの時、何があったんですか?」
そう問わずにはいられなかった。
「なに、簡単な話さ。肩を怪我したせいで、試合が続行出来なくなったんだ」
「……え」
考えてみれば、当たり前の話だった。あれだけテニスが大好きなセンパイが、自分でテニスをプレイするのを辞めた。そして、プロになるという夢を他人に託した。……そんなの、自分がプレイ出来なくなったからに決まっている。
「当時の私は、それはもうとんでもなく気合が入っていた。勝つために毎日猛特訓をしていたのさ。だが、そのせいで私の肩には異常な負担がかかっていてね。そしてあの日、私の肩は限界を迎えたんだ」
「でも、今のサーブは凄かったですよ。今のを打てるんだったら復帰できるんじゃあ……」
そう言いかけた瞬間、ゾッとする。今、センパイは
大会で見たセンパイは左利きだった。……今のセンパイは、右でサーブを打っていた。それに、あのサーブで打たれたボールは何処にいった?
あれだけ綺麗なフォームから放たれたサーブは、サービスコートから大きく外れていた。
「無理だよ。どれだけ練習をしても、利き腕でない右腕では、全くコントロールが定まらない」
それはつまり、結局センパイの左肩は治らなかったということで。それでもテニスを諦めきれなかったセンパイは、必死に右で戦おうと頑張ったのだろう。それでもその努力は――
「だから、自分でテニスをするのは止めたんだ」
実ることは、無かった。
「すいません、センパイ。私が間違ってました。何の考えもなしにあんなこと言って、ごめんなさい」
「良いんだよ。むしろ、私が過去のトラウマのせいでまともな判断が出来ていないのは事実だ」
お互いに一言謝った後、沈黙が訪れる。なんだか、凄く気まずい空気だ。
しばらくして、センパイがポツリと呟いた。
「君には、私の分まで頑張ってほしいと思ってた。それと同時に、私みたいに怪我で夢を諦めるようなことになって欲しくなかったんだ」
「センパイ……」
「でも、過保護すぎたのかもしれないな。キミの言う通り、少しやり方を変えてみようか」
……それって。
「練習、まだいけるかい?」
「……はいっ!」
長く練習をしたせいか、肩が多少痛みはする。だが、これくらいの痛み、なんのこれしきだ。
……この後、めちゃくちゃ特訓した。
それからは、信じられないくらい順調だった。特訓の成果か、短期間で急成長した私は連戦連勝。準決勝では優勝候補筆頭の強敵と対戦することになったが……
「センパイ、私、勝ちましたよ!」
「よく頑張ったね。これで、あと一つだ」
「そ、そんな……どうしてボクが……」
あっさりと勝ってしまい、そのまま決勝に進出した。そしてついに――
「あと、1ゲームだけ……」
勝利条件は2セット先取、その1セットは6ゲーム先取。そして今、私は既に1セットと5ゲーム取っている。この1ゲームも、あと1ポイント取れれば良い。
つまり、あと1ポイント取れれば私の勝ちなのだ。
「頑張れーっ! あと少しだよ!」
数えきれないくらいの観客たちが、歓声をあげる中。不思議と、センパイの応援だけが聞こえた。普段は冷静沈着なあのセンパイが、必死に声を張り上げて私を応援してくれている。それだけ、センパイがこの勝負にかけている思いは強いのだろう。
――そうだ。私は、センパイの為にも、この勝負を勝って、私の……私たちの夢を叶えるんだ!
「よし……行くよっ!」
左腕から、ぽん、とボールを宙に浮かせて。ボールに働く力と重力とが釣り合って、ボールが止まった、その瞬間。正面にラケットを当ててそのまま――思いっ切り、振りぬいた。
「ゲームセット! マッチウォンバイ浜野、ツーゲームトゥーゼロ!」
「やったっ! やったぞ、千夏! 何をボーっとしてるんだよ、キミは勝ったんだ、優勝だっ!」
気づけば、勝負は終わっていた。観客は私に向かって絶え間ない拍手を送り、対戦相手の子は崩れ落ちて、泣いている。……センパイは興奮のあまりコートに乱入して、スタッフの人に連れ出されそうになっている。何やってるんだあの人。
そして私は――
「肩が、痛い……!?」
「センパイ、ごめんなさい。あの時私が、ちゃんと注意を聞いていれば……」
「何言ってるんだ、キミは何も悪くない! ……悪いのは、二度も同じ過ちをした、私なのにっ!」
どう考えても、センパイは悪くなかった。私が勝手に焦って、センパイの忠告を無視して、自分の意見を押し通して自滅した。――それだけの話だ。
「やっぱり私って、馬鹿ですよね」
「違う! 馬鹿なのは、馬鹿だったのは、私なんだよ……」
センパイは慰めるようにそう言うけれど、やっぱり馬鹿なのは私だった。こんな馬鹿なことをしたせいで、私には何も残されていない。元から友人も信頼できる家族も居ないし、勉強だって得意じゃない。唯一の特技だったテニスも失って、私にはもう――なんにもないのだ。
「私ってもう終わりですよね、センパイ」
「そんなことない、仮にそうだとしても、私がまたキミを強くする!」
なんにもない私を、どうするつもりなんですか。大泣きしながら縋り付くセンパイにそう言おうとして、気づいた。
――センパイだけだ。私に残されていたのは、センパイだけだった。
私はもう、何も失いたくない。家族も、友人も、テニス以外の全てを失って、ついにはテニスまで失った。センパイまで、失いたくない。センパイだけは、離したくない。離すわけには、いかない。
「ねえ、センパイ」
「な、なんだい……?」
自分でも恐ろしいと感じるくらいに、冷めた声だった。こんなこと、言っちゃ駄目だ。頭ではそう分かっていても、口は止まらなかった。
「私がこうなったのは、センパイのせいなんですよね?」
「……ああ、そうだ。私のせいだ。責任は取る。煮るなり焼くなり、好きにしてくれ」
ぶるぶると震えが止まっていないのに、それを必死で抑えようとしながら。センパイは、私にそう言った。そんなセンパイの姿が嬉しくて嬉しくて――ああ、私最低だな。
そんなことを考えながら、私は取り返しのつかない一言を、言い放った。
「だったら、センパイをください」
「……え?」
センパイは一瞬、ぽかんとした表情で戸惑った。そしてその直後、私の言葉の意味に気づいたようで――
「それって、キミ、まさか」
「……はい。私、先輩のことが好きです。付き合ってください」
信じられないものを見るような目で、私を見つめるセンパイ。その目には、明確な怯えが入っていた。
そりゃそうだ。女の子が女の子を好きだなんて、中々ない。多様性だなんだと叫ばれる世の中だとしても、当事者になったセンパイからしてみればそれは理解できないものなのだろう。
この思いを抱いた時点で、どんな答えが帰ってくるのかは薄々分かっていた。
「すまない、私はそういう趣味は……」
「煮るなり焼くなり、好きにして良いんじゃなかったんですか?」
分かっていた、はずなのに。口から出たのはそんな言葉だった。一旦止まったセンパイの震えが、更に酷くなった。そしてそれは……先ほどまでの悲しみと後悔以外に、幾ばくかの恐れも含んでいるように感じる。
そんなセンパイにとどめを差すように、私は。
「センパイのせいで私にはもうセンパイ以外何にもないんです。責任、取ってくださいよ?」
ニヤリ、と口角が吊り上がった。自分でも分かる。今の私はきっと、それはそれは悪辣な笑みを浮かべているにだろう。そしてそんな私を見たセンパイは、どこか諦めたような目で――
「……キミが、それを望むなら。良いよ、あげるさ――私の全部を」
ありもしない罪への贖罪の意識。センパイが持っているその弱みにつけ込んで、私はセンパイを手に入れた。
「目、閉じてください」
「……ああ、分かった」
無抵抗なセンパイを、押し倒す。そのまま、彼女の唇に私の唇を近付けて……
――互いの距離を、ゼロにした。
「もういっかい、して良いですか?」
「……良いよ、好きにしてくれ」
そのときのセンパイの、好意と嫌悪と、絶望と後悔とがごちゃ混ぜになった表情。それを見て私は興奮して――そんな私自身に、嫌気がさした。
後日、病院にて。
「軽傷なんで、一、二週間後には復帰出来ますかねえ。まあ出来るだけ、安静にしてね」
「「えっ」」
………どうすんの、これ。
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