第14話:運命には抗えない



「セイっ!」


 雪崩込むように飛び込んできたエドアルドは、画面越しに見るよりも明らかに酷い有様だった。美しいハニーイエローの髪は乱れ、汗に濡れる額に張り付いている。質のいいシャツも皺が寄り、真っ白なスラックスなんて砂や埃、そして卵で無惨な汚れに染まっていた。


「大丈夫ですかっ!」


 監視室に入って来ると同時に見つけたセイが、リボンとはいえ手を縛られた状態にあることに気づくと、エドアルドの顔が一気に怒りの形相に変貌する。


「エド待って、あのね……」


 クッキーを机の上に置いたエドアルドが怒りの感情に囚われたと早々に悟ったセイは、少しでも穏便に進めようと先に口を開いた。


「イヴァン! これはどういうことですっ!」


 が、説明するよりも先に怒号が響き渡り、イヴァンとともに双肩を竦める結果となってしまう。


「セイを攫って監禁しただなんて、お前やマーゾはどれほどの裏切りを私にしたか、分かっているんですか?」

「ボス……あの、これは……」


 イヴァンが次第を説明しようと口を開こうとするが、何故か言葉がなかなか出てこない。どうしたのだろうと隣を見つめると、イヴァンは真っ青な顔でハクハクと唇を小刻みに開閉させていた。

 多分、エドアルドが発する威圧に押されてしまっているのだ。


「イヴァン、早く説明を――――」

「落ち着いて、エド。イヴァンはエドの怒りに驚いて言葉が出なくなってるんだ。それにイヴァンもマーゾも他の人たちも、エドを裏切ろうとしたんじゃなくて、僕らを祝福したいって気持ちで今回の行動を起こしたんだよ」

「え? 祝……福?」

「うん。そうだよね、イヴァン?」


 椅子から立ち上がり、結ばれたままの手で震える背を撫でると、イヴァンは瞳を伏せながら小さく頷いた。


「……うん。だってボスが……運命の相手に……巡り会ったから……」

「私がセイと出会ったから、セイを攫ったりここに来る邪魔したりした? それは一体どういう……」


 どうやら頭が切れる男でも、今回の騒動は読み切れないらしい。


「僕も最初、イヴァンたちの意図がまったく読めなかったんだけど、ここに来る途中でエドの頭上からお菓子が降ってきたでしょ? そこで気づいたんだ。皆は……僕たちの結婚のお祝いがしたかったんだと思う」

「けっ、結婚っ?」


 これにはさすがに驚愕したようで、エドアルドの頬は一気に赤く染まり上がった。


「僕も聞いた話でしか知らないんだけど、母の国では結婚式の日にお菓子を捲く風習のある地域があるんだ。それを思い出して他のも、と考えてみたら今回の悪戯は全部、色んな国の結婚行事だって気づいて」


 確か靴盗みはインドの風習、箒跳びはアフリカ系アメリカン、卵踏みはジャワだったはずだ。


「イヴァンも他の皆もエドが大好きだから、彼らなりの方法でお祝いしようって考えてくれたんだと思うよ」

「イヴァン、お前は……」


 二人で見つめると、イヴァンは大量の涙をポロポロと流していた。


「ごめんなさい、ボス。僕たち、ボスの運命が見つかったことが嬉しくて……ずっと、探してたって言ってたから……」


 ようやく喋られるようになったイヴァンが、鼻水を啜りながら真意を告げる。するとエドアルドは心から安心したかのように、深い息を吐き出した。


「まったく……祝ってくれるのは嬉しいですけど、心臓に悪いことはやめてください」


 エドアルドは涙声で謝るイヴァンに近寄り、微笑んで優しく頭を撫でる。その顔に怒りの色はもうなかった。


「それに、お前たちの気持ちは嬉しいですけど、私とセイはまだ一緒になれると決まったわけでは……」

「エドっ。その話は……」


 今はよそう、と目で訴える。

 ただただエドアルドを喜ばせたくて考えてくれたせっかくの計画に、水を差すようなことはしたくない。例え、彼らの思い描く未来が訪れないのだとしても、せめてイヴァンがいるこの場だけは穏やかに終わりたい。

 それは汚れた大人の柵を知らないイヴァンのためでもあったが、それとは別にエドアルドのファミリーの温かさに少しの間だけでも触れていたいと思う自分のためでもあった。


「ありがとう、イヴァン。君たちの気持ちはありがたく受け取らせてもらうね」

「ううん、セイの方こそ、ボクたちに付き合ってくれてありがとう。それと、ボスと絶対に幸せになってね」


 本当の結婚式では盛大にお祝いするから、と天使の笑顔を送られたセイとエドアルドは、ぎこちないながらも微笑んで返す。そして「あとは二人の時間だよ」と帰って行くイヴァンを見送った。


「……さて、じゃあ僕はバケツとタオルを探さなくちゃね」


 イヴァンは部屋から出て行ったところで一連の悪戯は終了だろうが、これが彼らのお祝いだというのなら、セイにはまだやらなければならないことがある。


「バケツとタオル、ですか……?」

「これも風習の一つだよ。卵を踏んで汚れた新郎の足を、新婦が綺麗にするのが習わしなんだ」

「し、新婦……っ」


 既に十分赤いエドアルドの顔が、さらに沸騰する。今なら頬でコップ一杯分のお湯ぐらい沸かせそうだ。


「じゃあ僕はバケツ持ってくるから、エド、これ外してくれる?」


 頼みながらリボンのついた手首を出す。と、エドアルドはすぐに可憐に結ばれた蝶々の端を優しく引っ張って拘束を解いてくれたのだが、すぐにセイの足を止めるべく手首を柔く握った。


「セイ、バケツを取りに行く前に、一つお願いをしてもいいですか?」

「ん? 何?」

「貴方を抱き締めさせて下さい。帰ってきたらセイがいなくて……本当に心臓が潰れるかと思ったんです」


 まだその恐怖が全て拭い切れていないから、セイを抱きしめて不安を解消させたいとエドアルドは願う。

 まるで母親に捨てられた幼子のように消沈する姿に、胸が締め付けられた。こんな顔を見せられて拒絶できるほど、自分は頑なにはなれない。


「うん、いいよ」


 エドアルドの前で小さく腕を広げると、言葉もなく大きな身体が覆い被さってきた。

 南イタリアの日差しのように優しい体温と、薬で抑えていてもなお微かに香る彼のアルファフェロモン。そして汗の匂い。どれも本能が求めていたものばかりで、逃さぬよう思い切り吸い込むと、見る間に細胞全てが満たされる感覚に包まれた。


「エドは本当にファミリーが大好きなんだね。あんな悪戯、いくら理由があったとしても、うちじゃ絶対に許して貰えないよ?」


 少しでも彼のフェロモンに浸っていたくて、抱き合った形のまま、セイから会話を始める。


「自分でもボスとして甘いと思ってます。でも、それ以上にあの子たちが大切なんですよ」


 自分にとって彼らは部下ではなく、名前同様に家族なのだとエドアルドが語る。その声は至極穏やかで、それが心からの言葉だということはすぐに分かった。

 こんな風に思われている彼らが、同じマフィアの人間として羨ましい。


「その気持ちは、ちゃんと伝わってると思う。さっき、ここからモニタを見つめていたイヴァンからは、心底エドが大好きって気持ちが溢れ出ていたし、何度も『ボス、格好いい』って言ってたもん」

「そうですか、じゃあいつまでも格好いいと言って貰えるように、今よりもっと精進しなければいけませんね」

「え、今よりもっと?」


 耳に届いた言葉に、セイはさらなる強さと優しさを備えたエドアルドの姿を思い浮かべる。と、たちまち自分でも分かるほど顔がカァっと熱くなった。


「そ……れはちょっとやめて欲しいかも」

「どうしてです?」

「これ以上格好よくなられたら、僕の心臓がどうにかなっちゃう……から」


 今回だってあまりの魅力に、胸が潰れそうだったというのに、これ以上となったら完全に自制ができなくなってしまうかもしれない。それを危惧して自重を願うと、何故か抱き締める力がいっそう強くなった。


「ああ……なんて嬉しいことを。貴方に格好いいと言って貰えるなんて、私は今、世界で一番の幸せ者だ」


 固く閉じこめられていた腕から解放され、代わって吐息が聞こえる距離で見つめられる。


「セイ、顔をよく見せて」

「エド……」


 熱情を宿したエメラルド色の瞳で真っ直ぐに射抜かれ、緊張に身体が固まった。あっという間に高鳴り始めた鼓動がドラムの振動のように大きく震え、その音がセイ自身までを揺らす。


「私のオメガ……運命……貴方が愛おしくてたまりません。今にも爆発してしまいそうなこの感情を、私はどうすればいいのでしょう?」

「どう……すればって……」

「貴方の唇に触れるのは罪ですか? 項を噛むことができないのなら、せめて唇だけでも触れたい」


 指先でそっと撫でるように触れながら、エドアルドが泣きそうな顔で懇願してくる。


「そ、れは……」


 ヴィートとの誓約内容は、エドアルドがセイに不純な行為をしないこと。それはおそらく身体を重ねることを指しているがゆえ、キスは約束の中に入らないだろうが、セイに執着する男は決してそれを許さない。


 だけれど――――この美しい瞳の誘惑に、どう抗えというのだ。

 セイの欲望は既に白旗を挙げてしまっている。残る一握の理性だって今に弾けてしまいそうだ。


「ダ……メ、エド……僕らは……」

「セイ、お願いですから、どうか私を拒まないで。私に貴方という恵みを与えてください」


 願いとともに親指の腹でそっと唇を撫でられ。


「愛しています、貴方を、心から……」


 ゆっくりとエドアルドの綺麗な顔が、唇が、近づいてくる。

 フェロモンを抑制している今のエドアルドなら、きっと両手で押し返すことだってできるだろう。だが、それでもセイは自らの意志で瞳を閉じた。


 ――――やっぱり運命に抗うことなんて、できない。


 それが答えだった。

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