第7話:アルファの威嚇



「くっ」


 事態が一転したのは、その時だった。


「うっ、ぐっ……」


 男の眉間に突如深い皺が寄り、続けて双眸が大きく見開かれる。一瞬、何か驚くものでも見たのかと思ったが、その予想は男の身体が前触れもなく木の床に転がったことで大きく外れた。


「え……? ちょっ……と、君……どうしたの?」


 唇をハクハクと開閉しながら喉を指で掻きむしり、必死に息を吸おうとしている男の姿はまるで毒薬でも飲まされたかのようにしか見えない。一体、男に何が起こったのだ。警戒と困惑をない交ぜにしながら、男の様子を窺おうと手を伸ばす。


 そこでセイはもう一つ、驚かされた。


「ど……うして……」


 男に伸ばそうとした手が、震えている。寒さを感じているわけでもないのに、カタカタと小刻みに。

 びっくりして震える指を握ってみると、思うように力が入らなくなっていた。

 まさか変調を起こしていたのは男だけではなく、自分もだったのか。気づいたセイの心に、心臓の血管が絞まるような得体の知れない恐ろしさがじわりじわりと湧き上がってくる。

 そこへ不意にコツン、コツンと床を靴が叩く音が聞こえてきた。


 男以外の誰かが部屋に入ってきたのだと即座に勘づいたセイが、弾かれるように顔を上げる。するとそこには――――。


「エ……ド……?」


 人を射抜き殺してしまいそうなほどの鋭い眼光を浮かべたエドアルドが立っていた。


「どう……し……」


 何故こちらの部屋に出てきてしまったのだ。隠れていないと危ないと言ったのに。姿を目にすると同時に問い質そうとしたが、その言葉は後に続くことなく喉の奥へと消えていった。

 真一文字に引き結ばれた唇に、温かみが一切消えた表情。彼の周りに漂う空気が別次元と言ってもいいぐらいに変わってしまっていて、一瞬エドアルドだと思えなかった。


 今、目の前にいるのは誰だ。あの優しい笑顔の男はどこに行ってしまったのだ。困惑する頭で考えたところでセイはハッと目を見開き、自分が大きな失念をしていたことに気づく。


 ――――ああ、そうだった。彼も一つのファミリーを束ねる人間だった。


 巷でどれほど穏健派だと言われようが、彼もマフィアのドン。その血の中にヴィートと同じ冷酷な猛獣が宿っていてもおかしくない。

 何故、今までそれを忘れていたのだろう。


「おや、私の威嚇を受けてまだ意識を失わないとは。意外に気骨のある男だったんですね」


 床に転がる男を冷たい目で見下していたエドアルドが、美しく磨かれた靴で男の頭を踏みつける。


「ぐぅぅぅ……っ」

「貴方程度のアルファの意識なら、一瞬で落とせると思ったんですが……どうやらフェロモンの調節を間違えたようですね」


 威嚇、そしてフェロモン。彼が語ってみせたその言葉で、セイは漸く自分やこの男に突然起こった変調の原因を悟る。

男が急に倒れたのはエドアルドが放出させたアルファ特有の威嚇フェロモンに、中枢神経を攻撃されたからだ。


 アルファは強い圧力を持つフェロモンで、同種の行動を制することができる。それは動物の縄張り意識と似たもので、同じアルファ同士でも生まれ持った能力の差で優劣がつくと言われている。エドアルドはその力で、男を屈服させた。


 アルファフェロモンが効かないオメガであるはずのセイに影響が出てしまったのは、おそらくエドアルドの力が強すぎたからだろう。


「な……貴……様……」

「もうそれ以上喋らない方がいいですよ。怒りを抑えられなくなって頭を潰してしまうかもしれない」


 グリッ、と男の頭にエドアルドの靴が減り込む。男は声にもならない悲鳴を喉の奥で発したが、それは耳に届く音にならなかった。


「私の大切なセイを襲うだなんて、口にするだけでも万死に値するというのに、番にして解消する? よくそこまで愚かなことが考えられたものです。……ああ、そういえば貴方、さっき死ぬことは怖くないって言っていましたね。それなら望みどおり、ここで死んでおきますか?」

「っ! エド、ダメ……」


 エドアルドの冷たい言葉に、セイは唇を震わせながら首を振る。


「殺しちゃ……だめ……」


 本来、セイの立場ではマフィアのドンの行動を止めることは許されない。その決まりは分かっていたが、セイにはどうしてもエドアルドを止めなければならない理由があった。


「願……エド……、彼はまだうちの人間だ。貴方が……手を下してしまったら」


 例えセイを助けるためだとしても、マフィア間抗争の先制攻撃と見なされてしまう。そうなればエドアルドやマイゼッティーファミリーが危ない。

ヴィートは話を聞かない人間ではないが、殺しの理由の中にセイが含まれているだけで、どんな行動を起こすか分からない。だから怖いのだ。


「しかし、この男をこのままにしては……」

「危険なのは分かってる。でも……お願い。貴方のファミリーに……迷惑をかけたくない……んだ」

「セイ……――――分かりました、この男は見逃しましょう」


 強い眼差しの訴えを前に、エドアルドは静かに頷いて男の頭から足を下ろす。


「セイのおかげで命拾いしましたね。しかし今後、再び彼に近づいたり……アルファとオメガの番関係を服従だなんて愚劣なことを口にしたりした時には、その瞬間に心臓が止まると思いなさい」


 未だエドアルドのフェロモンで身動きが取れない男に、冷たく突きつける。そして二度と視界にすら入れたくないといった様子で、男から目を背けた。


「彼はおそらく数時間は動けないでしょうから、そのうちに外に出ましょう」


 既に元の優しい顔に戻っていたエドアルドが、手を差し伸べてくれる。


「う……ん、そう、だね……」


 ここはエドアルドの言うとおり、外に出た方がいいだろう。そう考えて足を前に踏み出そうとするが、力が入らない。


「セイ? どうしました?」


 セイの様子がおかしいことに気づいたエドアルドが不安な表情を浮かべ、こちらを覗いてくる。


「大丈夫……少し、気分が……悪いだけだから……」

「っ! まさか、私のフェロモンが貴方にも影響をっ?」


 漸く状況を理解したらしく、エドアルドの表情が一気に焦ったものに変わった。


「とにかく一度外の空気をっ」

「う……ん…………」

「セイっ!」


 耳元でエドアルドが叫ぶ。だけど不思議とうるさく聞こえなくて、それよりも大きく揺れる視界の方が気持ち悪くて。

 酷い乗り物酔いにあったかのように頭がふらつき、立っていられなくなった。


「しっかりして下さいっ、セイっ!」


 平気だから、慌てないで。そう告げようとしたが、いつの間にか唇まで動かなくなっていた。

 ああ、もしかしたらこれは駄目かもしれない。

 とうとう酷い倦怠感に耐えられず、エドアルドの腕の中へと倒れ込む。

 セイの記憶は、そこで完全に途切れた。

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