海賊の娘と呪われし水精の冒険譚
りょーめん
序章 嵐の中に託されて
激しい嵐の中、船は木の葉のように風雨に翻弄されていた。
雨と風の打ちつける甲板に人の姿はない。
海賊船〈大鮫号〉の
自分の背後についてくる、麻布をかぶった小柄な女性の肩を抱いた。
度重なる拷問に消耗し、長期に渡って監禁された女性の肩は枯れ枝のように細く、頼りない。カルドスは自分だけでも意気がくじけぬよう、ぐっと唇を噛み締めた。
「思った通り、この嵐の中を甲板に出ようとする酔狂はいねぇ。今の内に、ボートに乗って逃げ出すんだ」
大きく揺れる船の上、よろけるその人物を麻布の上からカルドスはぐっと支えた。
「しっかりしねぇか。あんたがしっかりしなきゃ、その子の命も……」
カルドスはその人物──麻布の奥で青白い顔をした女性の素顔をのぞき込んだ。
そして、彼女が大事そうに両腕に抱えた、柔らかな包みを見下ろす。
カルドスは己の頑健な体で女性をかばうように支え、叩きつけるような雨の中、揺れる甲板に出た。
いちかぱちかの賭けだ。
船底の牢に厳重に監禁されていた彼女を逃がすには、嵐に乗じるしかない。
「あんたを狙ってるあの男……〈
「あんたも、この子も」と、カルドスは励ますようにその女性の肩を抱いた。
雨の打ち付ける中、彼女の息は浅く、短い。
「しっかりするんだ……!」
カルドスがなおも女を励まそうと声を振り絞った。
そうすると、女が被せられた麻布の奥からカルドスへと目を向けた。
大陸南岸の暖かな海の色を思わせる、碧い眼。
「……どうか……この子と……このオルゴールを……」
「オルゴール……?」
女が震える手で差し出した細工の施された小さな箱をカルドスは受け取った。
困惑するカルドスの目の前で、女が震える手で箱に付いた螺子を巻き、蓋を開く。
そうすると甲板に叩きつける風雨の音の中、物悲しい旋律が響いた。
随分と年代物に思えたオルゴールだが、魔法を帯びた品なのか、その音色は曇り一つなく、雨の中決して大きな音ではないのにカルドスの耳にはっきりと届いた。
「これは……一体?これに、何の意味が……」
カルドスが女にその意図を尋ねようとした、その時だった。
──「おう、カルドスよぉ。わざわざこんな嵐の夜になんで銛打ちのお前が外に出る用事があるんだぁ?」
波の打ち付ける甲板の暗がりから響いた、しわがれた声。
カルドスは反射的にびくりと背筋を震わせ、振り返った。
いつのまにか、数人の部下を引き連れた黒衣の男が姿を現していた。
「〈鮫の歯の男〉……いや、船長……どうし、て……」
「どうしてもこうしてもねぇだろうがよ?俺の船だ。俺がいつ、どこにいようがお前の許可がいるってぇのか?」
「ひひひ」と、冗談めかした仕草で両手を広げ、カルドスを見下ろす痩身の男。
カルドスはすっと背筋を氷の刃がなぞるような戦慄をおぼえた。
カルドスはとっさに自分のつれてきた女を背にかばった。
〈大鮫号〉の船長──〈鮫の歯の男〉の異名をもつアロ・ガーポがそれを見て、すうっと黒い目を細めた。
彼の黒く艶やかな瞳は、海の中を悠然と泳ぐ鮫を思わせた。
「……肩の力ぁ、抜けよ、カルドス。おめぇはよ、いつだって真面目くさった顔をして、気の利いた冗談一つ言えねぇのが駄目なんだ」
アロ──〈鮫の歯の男〉は雨に濡れ、高波の打ち付ける甲板を、ゆらゆらとおどけるような足取りで近づいてきた。
その背後から手に
カルドスは息を呑む。
自分の裏切りは──〈鮫の歯の男〉にとっくに察知されていた。
「あー、つまりよ、俺の言いてぇことはつまり、こうだ、カルドス」
〈鮫の歯の男〉が、腰の鞘から舶刀を抜いて、くるくると手で回してもてあそぶ。
その鋭い切っ先がぴたりとカルドスの顎の先に突きつけられた。
「なんで銛打ちのてめぇが船長である俺のお宝持ち出してんだってことだよ?」
「……〈鮫の歯の男〉」
「答えろよ。答えなきゃ、てめぇもその女もどうなるか分かってんだろ?」
〈鮫の歯の男〉の冷酷な声に、カルドスは自分の命運が尽きたのを悟った。
その時──
──「船長!」
甲板の床を激しく打ち付ける雨に足を滑らせながら、一人の船員が駆けてきた。
それを見て〈鮫の歯の男〉がぎらりと白い歯を
「てめぇ!邪魔すんじゃねぇ!今、この銛打ち野郎に礼儀ってもんを……!」
「船が突っ込んでくる!」
泡を喰って告げたその船員の言葉に、全員がどよめいた。
その場に集まった〈大鮫号〉の船員だけではない。
〈鮫の歯の男〉も大きく目を見開き、カルドスも今このタイミングで起きた急な事態が信じられずに呆けたように口をぽかんと開いた。
「二時の方角だ!この嵐の中を突っ切ってこっちに来る!」
「馬鹿言うな!そっちは風下だぞ!なんでこのどぎつい雨風に逆らって船が突っ込んでくる道理がある!?」
「だって、本当なんですって!」
急を知らせた船員の指差す先を〈大鮫号〉の船員たち。
波に揺れる船縁から身を乗り出し彼らは食い入るようにその先を見詰めた。
舶刀の切っ先を突きつける〈鮫の歯の男〉も、カルドスもだ。
嵐の中、黒く逆巻く雲の隙間に雷鳴が閃く。
その白い閃光の中に浮かび上がる、すさまじい速度で波と風を切り裂き、〈大鮫号〉に突っ込んでくる船影。
「おい……おいおいおい‼」
〈鮫の歯の男〉がこちらへ突っ込んでくる船影に目を見開いた。
「なんだあの船は!?〈
〈鮫の歯の男〉が常識外れの船の動きに苛立ったように叫ぶ声が聞こえた。
カルドスも同感だった。嵐の中、その波と風を突っ切ってあんな大きな船が突っ込んでくるなど、まるきり道理に合わない出来事だ。
〈鮫の歯の男〉が、目を細めるのが見えた。
「しかも……ありゃ異種間戦争時代の軍船だと……!?」
呆然とつぶやくように言う〈鮫の歯の男〉の声。
それを聞いてカルドスは自分が肩を抱え、支えている女の体を見下ろした。
度重なる拷問を受けて、弱り切ったその体で、しっかりと子供を抱き締めたその女はまっすぐに、こちらへ突っ込んでくるあの船を見詰めていた。
「あんた……」
カルドスはとっさに、その女が手に持つオルゴールの箱を見詰めた。
「あんたが、あの船を……呼んだのか?」
「今の内……です」
カルドスに応じて、女が麻布の奥から荒い息を吐きながら振りあおいだ。
「今の内に、ボートを下ろして……逃げて……」
「……っ、分かった……!」
この嵐の中を一隻のボートで──だが、自分たちが生き延びるにはそれしかない。
カルドスが女の言葉にうなずき振り向くと、あの古びた船はもう〈大鮫号〉と衝突する寸前の距離まできていた。カルドスはとっさに両腕で、女とその赤子を抱え込むようにかばった。
次の瞬間、砲弾が爆発したような衝撃が〈大鮫号〉全体に伝わった。
倒れ込み、あるいは荒れ狂う海の上へ投げ出される船員たちの悲鳴。
ぶつかった場所からめりめりと木材の裂ける音が響き渡る。
カルドスの鍛え上げた
カルドスはそのまま、女の体を横抱きにかかえ上げた。
船縁にくくりつけられたボートに向き直り、濡れる甲板を踏み締める。
しかし──
「なめてんじゃねぇぞ!銛打ち風情がよぉっ!」
舶刀を抜き放ち、凄まじい形相で歯を剥いた〈鮫の歯の男〉が立ち塞がった。
ガチガチと、その白い歯を打ち鳴らして詰め寄ってくる。
「てめぇ!その女を放せ!そいつは俺の……!」
「断る!」
手を伸ばそうとする〈鮫の歯の男〉から、カルドスは胸に抱いた女をかばった。
〈鮫の歯の男〉は、
「……あんたの口車にのって、そそのかされた俺が、バカだった」
カルドスは顎から滴り落ちる雨と塩辛い波の飛沫を感じながら告げた。
「あんたのやり方にはもう、うんざりだ」
カルドスが雨の中言い放つと、〈鮫の歯の男〉の表情がすっと抜け落ちた。
感情をうかがわせない蒼白になった顔は、海の中で獲物を睨む鮫の顔に見えた。
「……カルドス、二度は言わねぇ。その女を、放せ。お前には過ぎた宝だ」
「この人は物でも、ましてやあんたの所有物でもねぇ!」
カルドスが言い返すと、〈鮫の歯の男〉が大きく口を開いた。
「〈生命の泉水〉の存在を知らないてめぇにゃ、その女の価値は分からねぇ!いいからよこせってんだよ!この身の程知らずがよぉっ‼」
大きく口を開いて雷光に白い歯を光らせ〈鮫の歯の男〉が喚き立てた。
舶刀を大きく振り上げた〈鮫の歯の男〉の顔が激情に歪む。
それを見て取ったカルドスはとっさに胸に抱いた女をかばって抱き締めた。
その瞬間──
〈大鮫号〉に突っ込んできた、あの古い軍船の上から何かの影が自分たちめがけて跳び込んでくるのを、カルドスはとっさに見て取った。
雨に濡れる甲板の上に飛び込んできたその影は──
稲光に輝く舶刀を抜いて〈鮫の歯の男〉の振り下ろした刃を受け止めた。
カルドスと〈鮫の歯の男〉の間に割って入ったその人物は──
古い──異種間戦争時代の古びた軍服に身を包んだ、まるで幽霊船の船長のような異様な姿をした船乗りだった。
「あっ、あんた……」
「いいから……」
雨の粒を受ける軍帽の奥から、水面のさざめく音のような不思議な響きを帯びた声がもれ聞こえた。
「あんた、その親子を連れて、一刻も早くここから離れるんだ」
「……っ!」
それを聞いて、カルドスは女を抱いた両腕に力を込めて甲板を駆けた。
当然、〈鮫の歯の男〉が追いかけて来る気配を感じたが、カルドスが振り返ると、その前にぬるりとした動作で、あの古い軍服姿の船乗りが立ち塞がった。
「誰だ、てめぇ……?」
〈鮫の歯の男〉の問う声に、あの船乗りはかすかにうつむいたまま答えない。
ただ、革手袋に覆われた手で舶刀を握り締め、〈鮫の歯の男〉に相対する。
「名を名乗れってんだよぉ!」
〈鮫の歯の男〉が凄まじい形相で、何度も船乗りに斬りつける。
カルドスは、舶刀を打ち合う〈鮫の歯の男〉とあの船乗りの気配を背後に感じる。
船縁のくくりつけられていたボートを海面へと下ろす為に素早く縄を解いた。
しかし、すぐ背後で激しく斬り合う気配に、思わず振り返る。
〈鮫の歯の男〉は何度も激しく舶刀を振り下ろしていたが、あの古びた軍服の船乗りはそれを流れるような──まさに水の流れるような柔軟で滑らかな刀
船上での戦闘で要求される剣術は独特のものだ。
揺れ動く狭い足場で、最低限の動きで相手と斬り結ぶ技術が必要になる。
それを、あの古びた軍服の船乗りは、激しい船の揺れや降りかかる波の飛沫をものともせず、〈鮫の歯の男〉の刃を柔軟な体捌きで受け流している。
まるで──本当に水のように──
「くそがあっ!」
その時、〈鮫の歯の男〉が焦れた様子で懐から短剣を抜いた。
鋭くぎらりと光るそれが、相手の船乗りの胸に深々と突き立てられた。
〈鮫の歯の男〉は会心の笑みを浮かべて、船乗りを見たが──
──「っ!?」
しかし船乗りは胸に突き立った短剣を意に介した様子もなく舶刀を振り上げた、
その姿に、〈鮫の歯の男〉だけでなく、カルドスも息を呑んだ。
自分目がけて振り下ろされた舶刀の刃に〈鮫の歯の男〉は限界まで目を見開く。
「ふっ……!んぐっ……‼」
がきっ!という激しい音と、〈鮫の歯の男〉のくぐもったうなり声が聞こえた。
〈鮫の歯の男〉は自分に振り下ろされた泊刀の刃を、すんでの所で自分の歯で噛み締め、文字通りに食い止めていた。
なおも、その刃を押し込もうとする船乗りと、自分めがけて押し込まれる刃を白い歯で噛み締め食い止める〈鮫の歯の男〉が互いに激しく睨み合う。
しかし、次の瞬間──
──「があああああっ‼」
あの船乗りが舶刀の柄を両手に持ち替えて振り抜いた。
〈鮫の歯の男〉は顔を斬り裂かれ、悲鳴を上げる。
口を裂かれた〈鮫の歯の男〉は勢い余って、きりもみしながら甲板の上にもんどり打って倒れ込んだ、。
雨に濡れる甲板に倒れた〈鮫の歯の男〉の顔の辺りから大量の血が流れ出た。
その姿を見下ろし、あの船乗りがカルドスたちを振り返った。
「……今の内だ。今の内に、二人を連れて逃げろ」
不思議な、水のさざめくような響きを帯びたその声。
カルドスは軍帽の奥に見える素顔を確かめようと目を細める。
しかし、風雨の向こうにその船乗りの素顔を見て取ることはできなかった。
ただ、足元でうめきながら濡れた甲板に両手を突く〈鮫の歯の男〉が自分たちに向かってくる姿に、カルドスもはっとなった。
「……うう、はねえ……い、はす、は……」
切り裂かれた口から〈鮫の歯の男〉のなおも執念のこもった声がもれる。
カルドスは慌ててボートの縄を解き、海面へと下ろした。
両腕に女と、その子供を抱えてカルドスはボートの上へ飛び降りる。
「早く行きなさい!」
今しがた逃げて来た甲板の上から、あの船乗りの叫ぶ声が聞こえた。
かと思うと、カルドスたちの乗ったボートを、荒しに荒れ狂う波から守り押し流す水の流れが包んだ。
カルドスが頭上を振りあおぐと、あの船乗り自分たちの乗ったこのボートを押し出すように片手を掲げる、あの船乗りの姿が見えた。
その不思議な船乗りの姿が──
〈大鮫号〉の船影が──
波と風に白くけぶる向こうへと、消えていった。
〇
嵐の外に出ると、自分たちの乗ったボートを押し流す不思議な水の流れが消えた。
カルドスはなおもその場から離れる為にボートを漕いだ。
無我夢中でオールを漕いで波を越え、やがて海が穏やかになって手を止める。
全身を、雨と海水と汗でぐっしょり濡らして、カルドスは息を吐いた。
「……ここまで来れば……」
嵐は去り、〈鮫の歯の男〉の乗った〈大鮫号〉の船影も水平線の向こうに消えた。
「大丈夫か……?」
カルドスはボートの上でうずくまる親子に声を掛けた。
しかし、赤子を抱えたままうつむく女は、何も答えなかった。
「おい……あんた……」
カルドスが彼女の肩にそっと触れると、女はボートの上に力なく横倒しになった。
「おい!」
慌てて女の体をカルドスは助け起こす。
衰弱しきった女の体が、カルドスの腕の中でくたりと力を失った。
その胸に懸命に抱え続けた赤子の火が点いたように泣き始める声が聞こえた。
赤ん坊の甲高い泣き声が次第に東から明るくなる空の下に響き渡る。
「どうか……この子を……」
女から手渡された赤子を、カルドスは呆然として抱きかかえる。
「この子を……守ってあげて、ください……。過酷な運命に耐えられる、強い、子に……」
「あっ、あんた……あんた、は……」
「私は……もう、これ以上は……」
女が荒い息を吐いて、うなだれる。
「そんな事を言うな……。この子には、まだあんたが必要なんだぞ……」
「ごめん……なさい……」
カルドスは力なくボートの上で横たわる女の姿を見下ろし、目尻に涙を浮かべた。
「この……オルゴール。いつか、この子が……必要とした時……」
そうして、震える手で懐から取り出した小さな箱──あの物悲しい旋律を奏でるオルゴールを、女はカルドスへ差し出した。
「それまで……決して……海の上で……鳴らして、は……」
そう、弱々しく吐いた息と共に告げたと思うと、女の全身から力が抜けた。
昇った朝陽の中、ボートに横たわる女の姿に、カルドスは吠えるような声を上げて涙を流した。だが──やがて激しく泣き続ける赤子をその胸に抱く。
命を失った女の体の上にそっと麻布を被せ、カルドスは赤子を抱いた。
次第に明るく輝き始める東の空へ向けて、カルドスは赤子をあやしながらボートを漕いで、ただひたすらに陸地を目指し始めた。
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