第51話 目覚め

 細く儚い歌声のような水音が遠くに聞こえる。

 等間隔で響く、水の弾ける音。

 優しいせっけんの匂いに僅かに混じる、ムスクの香り。

 湿った空気が肺を満たし、吐息に乗って宙へと溶け込んでいく。

 重たい瞼を開くと、見慣れた天井が目に入った。


(ユリウスの部屋だ)


 腫れぼったい瞼は熱を持っている。

 全身が鉛のように重たく、腰にはじんとした痺れが残っていた。

 ライリーは喉のひりつくような痛みに顔を顰め、小さく空咳を繰り返す。

 体を横たえるシーツは柔らかい。

 寝返りを打てば、ゆったりとした寝衣が肌を撫でた。


「ライリー、起きたか。まずは水飲め」


 横になって初めて、人の姿が視界に入った。

 水差しを口元に差し出され、ライリーはゆっくりと水を嚥下していく。

 冷たい水が喉を潤し、痛みが和らいだ。


 視線を上げた先に、部屋の主はいない。

 その代わり、懐かしい姿がそこにあった。


「ジャクソンさん」


 冒険者ギルドのマスターをしている時より髪が整っている。

 身に纏う服は、冒険者というよりは高級品ばかりを扱う商人のような上品さがあった。


 ジャクソンはミカエラと同じく、昨晩の作戦の要だ。

 小綺麗な身なりをしているのは、おそらくドハティ公爵と会って結果を報告していたからだろう。


 ライリーから名前を呼ばれたジャクソンは、ベッドサイドに水差しをことりと置きながら苦笑した。

 

「ごめんな、ユリウスじゃなくて」

「え……?」

「顔に出てる」


 ジャクソンは自身の頬を指先で軽く叩く。

 心を見透かされライリーは、心臓をびくつかせた。


 ユリウスではなくジャクソンの姿を認めた時、ライリーの胸に広がったのは落胆と寂しさ、そして悲しみだ。

 痴態を晒してしまった羞恥は今も燻っている。

 しかし、だからこそ目を覚ました時、他の誰でもないユリウスに、傍にいてほしかった。

 大丈夫かと、心配してほしかった。

 

 だが、ユリウスがここにいないのは、ライリーの醜態を目の当たりにし、嫌悪したからだ。

 恐れていたことが現実になった。

 心臓が無数の刃で貫かれ、指先から熱が引いていく。

 そんな錯覚に襲われ、熱を帯びた目にじわじわと涙が浮かんだ。


「おいおい、そんな顔するなって。ユリウスはな、さっきまでずっとライリーの隣にいたんだ」

「さっきまで?」

「そうだ。事後処理に駆り出されちまってな」


 涙声で問いかけるライリーに、ジャクソンは眉尻を下げ、ぐしゃりと髪を掻き回す。

 小綺麗な格好をしているが、細く長く吐き出されるため息には疲労の色が滲んでいる。

 転移の魔術陣を使って移動していたとはいえ、一晩中、国内を奔走し、罪の証拠を掻き集めていたのだ。

 無理もない。

 

「事後処理……あの、計画は?」

「成功だ。ミカエラ殿下と俺たち潜入部隊は妨害を受けることなく任務完了。でも、オーウェン王太子殿下とライリーが襲撃を受けただろ。刺客も何組かいて、最終的に大乱闘になったらしい」


 ライリーの胸に隙間風が入り込む。

 乱闘を見たことも、当然、乱闘に飛び込んだこともない。

 しかし、想像するまでもなく危険な行為だ。

 

「怪我人は?」

「何人かいるが全員軽傷だ、心配ない。一番重傷なのはライリーだ」

「そう、よかった……」


 それを聞いて、ライリーは胸を撫で下ろした。

 王であるシェイマスをはじめとする王族、影たち、そして、影の存在は知らないまでも、必死に戦った近衛騎士たち。

 一年にも満たない期間だったが、寝食を共にした、志を同じくした仲間だ。

 彼らに何かあっては、心穏やかにいられない。


 頬を緩めたライリーだったが、ジャクソンは険しい顔をして首を横に振った。

 

「よくねえよ。ライリー。毒を防ぎきれなかった。その上、コリンズの裏切りを見抜けず怪我までさせてしまって……本当、申し訳なかった」


 窓の外が暗くなる。

 雨粒が窓を叩き、静かだった雨音が強くなった。

 嵐に薙ぎ倒された麦のように、深く下がった小麦色の頭。

 枕に頭を預けているライリーの視界には、その襟足しか見えない。

 

「え、いや……頭を上げてください! ジャクソンさんも、影の誰も、謝ることじゃないです」

「いいや。絶対に怪我させない、死なせない。それを前提に契約を結んでもらったんだ。謝るだけじゃ済まされない」

「でも、生きています。だから、いいんです」


 媚薬に冒された体の熱。

 コリンズたちに向けられた殺意。

 その恐怖は、今も体の奥底に刻まれている。

 刻まれた負の記憶は、きっとこれからライリーを苛むだろう。

 

 しかし、あの混乱した状況で、命があるのは奇跡だ。

 どこか歯車が狂っていたら、ライリーは今ここにはいない。

 もう二度と、ハルデランに帰ることも、家族に会うこともできなくなっていたかもしれない。

 そう考えると、生きているだけ儲けものだ。

 

 ゆっくりと頭を上げたジャクソンはひとつため息を吐くと、呆れたように目元を緩ませた。

 

「人が良すぎるぜ、ライリー」

「そんなことないです」

「で、その毒……媚薬なんだが。顛末、聞きたいか?」


 表情が綻んだのも一瞬、ジャクソンはライリーと目を合わせつつ、言葉を濁して聞いてきた。

 媚薬を盛られてライリーがどうなったのか、ユリウスから聞いているのだろう。

 猥談とするには重すぎる話だ。

 ジャクソンがかなり気を遣っていることが、視線や声色から感じ取れた。


 知る権利と、知らずにいる権利。

 その両方を持ったライリーは、迷うことなく知る権利を行使する。

 

「そうですね。自分のことですから」

「わかった。シェリダン伯爵夫妻は、子どもを母方の親族に誘拐されてしまい、生きて返す条件としてミカエラ殿下の暗殺を命じられた」

「子どもは無事なんですか」

「ああ、影が救出した。精神的に弱っているが、怪我はなかったよ」

「よかった」


 シェリダン伯爵夫妻の子どもは、幼児の息子一人。

 貴族名鑑に載っていたその子どもは、ふくふくとしていて可愛らしかった。

 あんな幼い子を人質にするなど卑劣にも程がある。

 

 怪我がなくてなによりだが、あとは心の問題だ。

 心の傷は、体の傷よりも治りが悪い。

 一生、付き合っていかなければならない場合もある。

 そうならないようにと、ライリーは願うばかりだ。

 

「そうだな。あっと……続きなんだが。夫妻は死毒を渡されたが、人を殺めることなんてできない。でも、毒を盛らなきゃいけない。それで、苦し紛れに夫婦が使っていた媚薬とすり替えてライリーにかけた」

「処遇はどうなるんです?」


 被害を受けたのは影武者のライリーだったとはいえ、王族に危害を加えようとしたのだ。

 通常、死罪は免れない。

 

 しかし、シェリダン伯爵夫妻にはやむを得ない事情があった。

 情状酌量の余地はある。

 何より、罪のない子どもから親を奪いたくない。

 甘いかもしれないが、それがライリーの気持ちだった。

 

「事情が事情だからな。表向きは爵位剥奪、王都からの永久追放になる予定だ。その後、ある程度は影がサポートするから安心していいぞ」


 ジャクソンはライリーの心配を否定するように力強く頷いた。

 慣れている様子からして、ままあることのようだ。

 ライリーの心配事が、ひとつ減った。


 次に頭に浮かんだのは、もう思い出したくもない顔だ。


「あの、コリンズは……」

「あれは論外だ。察してくれ」

「はい」


 コリンズの名前を出した途端、黒い何かがジャクソンの輪郭をなぞるように揺らめき、ぶわりと膨れ上がった。

 ぴしゃりと跳ね除けられた、彼の今後について。

 それは想像に容易く、ライリーは胸がすくような、それでいて苦虫を噛み潰したような、複雑な気持ちになった。


 重い沈黙がライリーとジャクソンを取り囲む。

 ジャクソンから発せられる怒気が少しずつ軽くなり、ライリーは思わず止めていた息を吐き出した。


 やがてジャクソンは強すぎる圧を引っ込めると、ふと思い出したように頬を緩めた。

 怒りから一転、浮かべられた笑み。

 その理由がわからず、ライリーは小さく首を傾げる。

 すると、ジャクソンは柔らかな笑みを深めて口を開いた。


「ユリウスなんだが、俺が交替と召集を知らせに来た時、手負いのドラゴンみたいに殺気立ってな。ドハティ公爵からの命令だっていうのに、ライリーから絶対に離れないって言い張って手が付けられなかったんだ」

「そうなんですか?」

「ああ、俺も久々に肝冷やしたぜ。結局、王城は混乱していて近衛騎士としても召集されてることも伝えたら、渋々出発したよ」


 ジャクソンの言葉を合図にしたように、雨が上がった。

 分厚い雲が風に流されていく。

 風に散った灰色の雲の隙間から細く煌めく光が梯子のように伸び、地上を照らした。

 

 ライリーの胸につっかえていた大きな鉛の塊が消えていく。

 ジャクソンから聞いたユリウスの様子は、ライリーを嫌っているようには感じられない。

 

 ユリウスがライリーから離れたがらなかった。

 それだけで、ライリーの心が満たされる。

 夜空を駆ける星のように、儚い一瞬の夢は終わりを迎えた。

 ユリウスへの恋心も、命を終える時が来たのだ。


 ライリーは蝋燭の火を消すように、胸の奥に温めていたユリウスへの想いに息を吹きかけた。

 だが、小さな炎は消えかけても、完全には消えてくれない。


(なんで……? 今日までだって決めたじゃないか)


 理性がおかしいと叫んでいる。

 しかし、本能はそれを嘲笑った。


 意図的に操作することができないのが心というもの。

 気付かないうちに芽吹き、大きく育ち、深いところに根を張る。

 あるいは、芽吹く前に消えてしまう。

 時に力強く、時には儚い感情。

 理性で押さえつけようとすること自体、無駄なのだ。


 では、消えたくないと足掻くユリウスへの慕情を、どうしたらいい?

 その答えを、ライリーはひとつしか持ち合わせていなかった。


(いつか思い出になるまで、ユリウスを想い続ける)


 訓練に明け暮れた日々。

 何度も対戦したチェス。

 二人で出かけた王都の街。

 分け合った屋台の食べ物。

 夕陽を眺めながら贈られた、アバロンシェルの赤い髪飾り。

 花びらが散る王都で渡された赤いアネモネの花束。

 最初で最後に触れた、ユリウスの熱。


 すべてがセピア色に褪せるまで、胸の中にしまっておこう。


 そう決めた途端、ライリーの胸の奥で欲が疼き出す。

 ライリーは、自分で思った以上に強欲だった。

 ユリウスとは一緒にいられない。

 それでも、僅かでも繋がりが欲しい。

 

「それで、だ。ライリー。これからどうする? ハルデランに戻るってことでいいのか?」

「はい。でも、ジャクソンさんにお願いしたいことがあって」


 ライリーは今後の身の振り方について問うてきたジャクソンに、ある提案をした。

 ジャクソンは驚き、何度も確認してきたが、ライリーは動かせるようになった体を起こし、頭を下げて頼み込んだ。

 そこまで言うならと、ジャクソンはライリーの提案を了承した。


 そうと決まってからは早かった。

 皆と顔を合わせれば里心がつき、別れが辛くなる。

 転移陣を移動手段とするなら、早くハルデランに帰ってからゆっくり休みたい。

 それを理由に、ケイトとイーファだけに挨拶をし、ライリーはジャクソンに転移陣を発動してもらった。


(さよなら、ユリウス)


 床に現れた幾何学模様の転移陣から光の粒が立ち昇っていく。

 それは徐々に輝きを増し、周囲の景色が揺らめく。

 白くなる視界の中、ライリーの脳裏に浮かんだのは、ユリウスが微笑んでいる顔だった。

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