第45話 緊張

 サニーラルン国の未来を変える、運命の日。

 めでたい成人の儀に相応しく、雲ひとつない青空が広がっていた。

 窓からはクスノキの柔らかな香りが乗った心地よい風が入り込み、頬を撫でていく。


 希望に満ち溢れた爽やかな朝。

 王城にほど近いドハティ公爵邸の敷地内にある、使用人棟に見せかけた影の屋敷。

 ほとんどの影が早朝から出払っているが、そこには意外にも日常と変わらない空気が流れている。

 

 罪を犯した貴族たちを一掃するという大仕事を控えた影たちだが、何もそれだけが任務ではない。

 今夜から明日にかけて、昨日までと同じように護衛の任務に就く影もいる。

 そんな彼らは、いつもと変わらず仲間と談笑し、任務に就くその時をゆっくりと待っていた。


 笑顔と話し声が絶えず、燦々と降り注ぐ陽光で煌めくサロン。

 ライリーは吸い寄せられるようにして影たちに歩み寄った。


「おはよう」

「おう、ライリー。おはよ……って、なんだその顔!」

「え?」

「ちょっとちょっとちょっと!」


 ただ挨拶をしただけで、影たちは必死の形相でライリーの腕を掴み、食堂へ引きずっていく。

 ぼんやりとした頭では、彼らが何に驚いているのかもよくわからず、ライリーはされるがままになっていた。


 食堂のドアが、ばたんと乱暴に開かれる。

 途端、香ばしくて美味しそうな食事の匂いに包まれた。

 

 食堂はいつもと配置が変わっている。

 今日、いつ始まるともわからない戦闘。

 机と椅子は隅に積み上げられ、二脚のテーブルは食事がとれるように、カウンターにぴたりとくっついている。

 そして、隠し通路の近くには、怪我人が出た時に備え、ベッドが六台並べられていた。


「ケイト、助けて!」

「騒がしいわね。助けてって、まだ何も始まって……きゃぁあああ! ライリー、どうしたの?」


 カウンターから顔を出したケイトは、ライリーを見るなり顔を真っ青にして悲鳴を上げた。

 あまりの声量に空気がビリビリと震え、ライリーの体にぐわんと響く。


 ライリーを食堂に連れてきた影たちも、ケイトも、ライリーの顔を見て叫び声を上げる。

 彼らの反応を見て、ようやくその理由に合点がいった。


「ええと、寝れなくて……」


 昨晩のことだ。

 ライリーはユリウスから念入りに香油を塗り込まれつつマッサージを受け、部屋まで送り届けてもらった。


「前日だっていうのに、一緒にいられなくてごめんな」

「しょうがないよ。ユリウスにはユリウスの仕事があるんだから」


 成人の儀、当日。

 ユリウスは早朝から夜会が終了するまで、ミカエラの近衛騎士として護衛の任務に就く。

 休養を取り、朝のタイムロスを減らすため、ユリウスは王都のダウリング邸で就寝するのだ。


 ユリウスの部屋で、ユリウスと同じベッドで眠りにつく。

 昨日までが特別で、自分の部屋で一人で寝るのが普通のこと。

 そうとわかっていても、明日の任務への重圧が肩にのし掛かり、心細くて仕方なかった。


「これ、貸すよ」

 

 力なく笑ったライリーの手に乗せられたのは、ムスクの小瓶だ。


「ちゃんと寝るんだぞ」

「うん。ありがとう」


 ライリーは小瓶をきゅっと握り締めた。

 それは、アバロンシェルの髪飾りに次ぐ、二番目のお守りだ。


 ユリウスの香りに包まれれば、一人になっても寝られるだろうか。

 

 明日のために、早く部屋に入らなければ。

 しかし、消えない不安は、自室のドアを開けることを拒んでいた。

 

 縋るように見たユリウスから、ライリーは目が離せない。

 視線が、交錯する。

 二人でいれば、騒がしいと言われるくらいに会話しているのだが、今は沈黙がライリーとユリウスを支配している。


 どれくらいそうしていただろうか。

 沈黙を破ったのは、不意に微笑んだユリウスだった。

 

「じゃあ、おやすみ。明日な」

「おやすみ。明日ね、ユリウス」


 これ以上は明日に差し支える。

 それがわかっているからこそ、ライリーは寂しさと不安を胸に、手を振った。

 

 ユリウスと就寝の挨拶を交わしたのだ。

 ライリーは潔くドアを開け、しかし、未練がましくドアが閉まる瞬間までユリウスの姿を視界に入れていた。


 ぱたりとドアが閉まり、静寂が訪れる。

 見慣れたはずの自分の部屋は、無機質なように感じた。

 途端、寂しさが膨れ上がる。

 ライリーは手の内の小瓶を握り、枕元にムスクの香水を吹き掛けた。

 そして、ベッドに乗ると、枕に顔を埋める。


 しかし、ムスクの香りに包まれても、手の中で髪飾りを握り締めても、眠りは訪れてくれなかった。


 国を動かすとんでもない計画の一部に組み込まれているという責任感。

 ミカエラの影武者をやり遂げなければならないというプレッシャー。

 そして、今更になって自覚したユリウスへの気持ち。

 不相応の恋慕を抱え、明日には手放さなければならない悲痛。


 散らばった思考が頭の中を巡り、消えてくれない。

 深夜になり、うつらうつらと意識を飛ばしていたような気もするが、次第に夜が明けてしまった。

 カーテンの隙間から漏れる光が強くなれば、目を閉じていても眠れる気がしない。

 そのため、ライリーは寝ることを諦めて起きたのだ。


 ライリーの話を聞いたケイトたちは、神妙に頷き、口々に「わかる」と同意してくれた。

 

「でもね、ちょっとでも寝ないと体が持たないわ。軽く食べてさっさと寝ましょう」

「じゃあ、ご飯の間に安眠グッズかき集めてくる!」

「俺も!」


 ケイトの合図で、影たちは食堂を飛び出した。

 宣言通り、安眠グッズを持ってきてくれるのだろう。


 ライリーはというと、ケイトに促されてテーブルに着き、一口サイズのサンドイッチを食べていた。

 何かを口にする気分ではなかったが、不思議なことに、食べ始めると腹が減っていることを自覚する。

 ケイトが作るサンドイッチはとても美味しく、ライリーの視界がじわりと潤んだ。


 皿にあったサンドイッチを平らげ、ひと息ついていたライリーの元に、影たちが戻ってきた。

 ライリーは食堂に並べられたベッドに押し込まれ、アイマスクや耳栓、抱き枕を押し付けられて目を白黒させた。

 

(人がいるところで寝られないよ)


 しかし、影たちの圧は強い。

 戸惑うライリーを横に寝かせると、その胸を優しくリズム良く叩いて寝かしつけてくる。


 されるがままになっていたライリーは、ふと孤児院にいたときのことを思い出した。

 パタパタと響く歩く音。

 誰かの話し声。

 美味しそうな食事の匂い。

 懐かしい記憶はライリーの気を落ち着かせる。

 心地よい振動に、ライリーはいつの間にか夢の世界に旅立っていった。


 ライリーがケイトに起こされたのは夜会が始まる三刻前だ。

 少し遅めの昼食を軽くとり、衣装に腕を通す。

 成人の儀の衣装は白を基調とし、差し色として襟元や袖に金が配色されている。

 ライリーのためだけに作られた服は、まるで体の一部になったようにぴったりだ。

 数日前に会ったマーリーの得意げな顔は、今でもライリーの頭に残っている。

 

 着替えが終わると、ライリーはケイトに顔と上半身をマッサージしてもらい、仕上げに薄く化粧を施してもらった。

 これで準備は滞りなく終わり、あとは城にいる影が頃合いを見て呼びにくるのを待つだけだ。


 ケイトや影たちとお茶を飲みながら談笑し、その時を今か今かと待つ。

 逸る気持ちと、ぶり返す緊張。

 影たちがあの手この手でライリーを笑わせようとするが、それに気付いたライリーが愛想笑いをするという悪循環。


 微妙な空気が流れる。

 それを変えたのは、年長者であるケイトだった。


「短気は損気よ。役割分担はしっかりしてある。準備も打ち合わせも万全。あとはどんと大きく構えて自分のするべきことに集中するだけよ。ほら、肩に力入りすぎ」

「うわ、ちょっ、ケイトさんくすぐったい! やめ、やめてっあはっはははは!」


 痺れを切らしたケイトは、ライリーの脇腹を突いて実力行使に出た。

 引退しても、彼女は影だ。

 ライリーにそれを防ぐことは至難の業で、強制的な笑いは、自然と肩の力を抜いてくれた。

 

「どう? ちょっとリラックスできた?」

「おかげさまで。ありがとうございます」

「よかった。緊張していたらできることもできなくなるからね。楽しむくらいの気持ちでいかなくちゃ」

「ケイトさん、強いですね」

「なるようにしかならないのよ」

「そうですね」


 ケイトの言う通りだ。

 なるようにしかならない。

 目尻に浮かんだ雫をそっと拭い、深呼吸する。


 ライリーはユリウスや影たちに支えられ、今日のために必死に努力してきた。

 あとは、全力で為すべきことを為すのみ。

 

 今、ユリウスから貰った髪飾りは手元にないが、あの赤色の温もりは胸にある。

 そして、これから向かう城には、ユリウス本人がいるのだ。


(大丈夫。俺はやれる)


 ゆっくりと目を開いた時、ライリーの心は静かに凪いでいた。


 その時、隠し通路のドアが開いて影が一人出てきた。

 朝から成人の儀の護衛をしていた影だ。

 その顔に疲れの色はない。

 これから始まる一世一代の大仕事に、やる気を漲らせているようだ。

 

「ライリー。迎えにきたぜ」

「あら、もうそんな時間。気をつけていってらっしゃい」

「はい、いってきます」


 ライリーはケイトに別れを告げ、夜会の護衛を担当する影たちと隠し通路から王城へ向かった。

 動く道を進み、王城に着くと階段を上がり、いくつもの角を曲がって目的地を目指す。

 途中、国王や妃たちを護衛する影たちと挨拶を交わして別れ、最終的にライリーを含め五人になった。

 そうして辿り着いたのは、この二ヶ月通い詰めたミカエラの私室だ。

 

 それぞれの配置についた影たち。

 一人はミカエラと遊撃に出るため、ライリーがミカエラと入れ替わる瞬間まで一緒にいてくれた。

 

「今だ」


 覗き穴から中の様子を伺っていた彼が小さく合図したと同時に、ライリーは隠し扉を開けた。

 

「ライリー」

「ミカエラ殿下」


 ミカエラは夜に紛れるため、動きやすそうな宵闇の服を身に纏っていた。

 プラチナブランドはフードに隠れているが、美しい蜂蜜色の瞳には好戦的な炎が煌めいている。


 不意に、ミカエラがライリーをきつく抱き締めてきた。

 

「僕の代わり、頼んだよ」

「はい。殿下もお気をつけて」

「うん。ライリーにはユリウスがいるから安心してね」

「はい」


 ライリーはミカエラを抱き締め返す。

 託された仕事は、ライリーにしかできない。

 互いの耳元で交わす激励は一瞬で終わる。

 

 殊更に強く抱きしめ合った体。

 一呼吸の後に離れると、ミカエラは狩人となって隠し通路に消えていった。

 部屋に残っているのはライリーとユリウスだけだ。


「ライリー」

 

 優しく落ち着いた声でライリーを呼ぶユリウスは、式典用の近衛騎士服を着ていた。

 白地に、銀の装飾。


(かっ……かっこいい)


 まるで物語に出てくる王子様のようだ。

 はっきり言えば、ミカエラに扮するライリーよりも王子様然としている。

 ライリーの頬が熱くなり、心臓が緊張とは違うリズムで走り出す。

 思わず見惚れてしまったが、呆けている場合ではない。


「おい、大丈夫か」


 赤面しているであろうライリーが心配だったのか。

 ライリーの顔を覗き込むユリウスは、眉間に皺を寄せている。

 

「うん、大丈夫。やれるよ。それが、俺がここにいる理由だから」


 ユリウスの心配を消し飛ばすように、ライリーは精一杯笑ってみせた。

 

「ああ。何があっても、絶対に俺がライリーを守る。だから、ミカエラ殿下になりきるのに専念してくれ」

「任せとけ」


 拳を突き合わせ、視線が重なる。

 ユリウスがいてくれるなら、何も恐れるものはない。

 二人なら、なんでもできるような気がした。


(大丈夫。上手くいく)

 

 ライリーとユリウスが強気な笑みを交わすと、ドアをノックする音が響いた。

 軽快なその音は、ライリーがミカエラになる合図。

 そして、長い夜の、始まりを告げる音だ。

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