幕間

第37話 奔る赤錆

 死にかけの獣が、緑豊かな川べりを歩いていた。


 その歩みは遅々として進まない。

 四つ足がもつれて、今にも倒れそうになっている。


 さもありなん、彼は全身に幾条もの矢を浴びている。動くつどに刺さった矢が、唸りをあげたくなるほどの痛みを発していた。


 が、獣は唸りもせず、歩くこともやめない。


 なぜならば、声をあげたが最後、立ち止まった時が最後だからだ。

 力尽きて動けなくなったが最後、追手が来て、とどめを刺されるのは確実だと、本能で知っていたのであった。


 獣は生きながらに死に瀕していた。歩くごとに血が滴り、地面を濡らす。逃げようと、命は風前の灯火にあるのだと知っていた。


 だが、それでもなお逃げるのはなぜか。

 単純な話である。彼は『死ぬのが恐ろしい』からに他ならない。


『……っ』


 普通、獣は『先のことなど考えない』ものである。だが彼は考える。思考し、恐怖してしまうのである。


 他ならぬ、半端に持ち得ている『人の思考』が存在するために。


 獣は『蟲獣』と呼ばれる存在であった。


 虎である。人面虎じんめんことでもいうべき異形の虎であった。


 虎の頭の一部に、唇をひん曲げて涙を流す、男の顔がけ合っている。肌は汚らしい灰白色かいはくしょくであり、うっすらと『梅の花の絵図』が頬にうかんでいた。


 人面虎は、男は、恐ろしくてたまらなかった。

 自分はもうすぐ死んでしまう。他ならぬ――武器を幾つも携えている人の手で殺されてしまう。

 自分が一体、何をしたのだ。ただ生きていただけ。生まれただけだというのに。


 懸命に足を動かす。少しでも遠くに、追手から逃れるために。少しでも長く、生き永らえるために。


 だが、死に物狂いで歩き続ける彼の鼻に、ふいと触れる『香り』があった。


 嗅いだ途端に彼は歩みを止めてしまっていた。


 それは奇妙な香りであると同時に――気配であったために。


 血と膿と、薬草の匂いが入り混じる強烈な香りが、風上から匂ってきていた。


 嗅ぐ者の顔を歪めてしまいかねぬほどの不快な香りであり。獣である人面虎からすれば、『弱った者が纏う』はずのものであると、容易く判別することができた。


 弱者、のはずである。おのれと同じぐらいに傷つき、死が近い者のはずだ。


 だが、体が動かないのはなぜだろう。


 心臓が早鐘を打つかのように脈打ちだしている。自分のなかのどこかが、『逃げろ』と警鐘を発していた。だが、蛇に睨まれた蛙のごとくに動くことができない。


 得体の知れない香りの主は、もうすぐそこまで迫っていたので。


 きぃ、と軋み音があがった。人が言い表すに、車輪が草を潰し、回る音が聞こえてきた。

 目の前、三丈(9メートル)先の茂みからである。


 そして人面虎は、その場に広がる『新たな血臭』を敏感な鼻で感じ取った。


 香りの主は怪我をしたようである。だが、ちっとも安心できはしない。


 人面虎はなおも近づく音が聞こえるので、ようやく後足を一歩だけ下げることができた。


 だが、その時であった。彼は自分以上に奇妙なものを見つけたのであった。


 それは『ぬめぬめと濡れ光る赤錆色をした』、『蛇に近い軟体』であった。素早く地面を蛇行し進んでくるのだが、顔がない。無頭の蛇もどきであった。


 しかし、蛇もどきはどうやってか真っすぐに、人面虎を目指し進んでくるのである。


 逃げなければ。逃げなければ……! 気持ちばかりは逸るものの、人面虎は。


 茂みの向こう側から現れた姿をみた瞬間、釘付けになってしまった。なぜだかはついぞ、分からなかった。


「ひゃひゃひゃ」


 ひどく意地の悪い嗤い声が耳を打った。


 それとどうじに這い進んでいた蛇もどきが距離を縮めて助走を、そうして、人面虎へと跳びかかっていった。


『がぁう……!?』


 人面虎は吼えた。吼えざるを得なかった。


 さすがに硬直が解けて、反射的に前足で叩き落してやろうとした折に、ずぶりと。足に蛇もどきが食い込み、そのまま体内に沈みこんでいったためである。


 意味が分からなかった。体を振りたて、跳ね飛んで、血を滴り落としても、体のなかを這い進んでいる蛇もどきは追いだすことができない。


 やがて蛇もどきは人面虎の腸へと到達する。柔らかい肉を食い破って、背へと身を突きだしたのである。血しぶきがあがった。


『がぁうッ! ぎゃぁああ!』


 人面虎はもう恐慌状態に陥っている。痛い。痛い痛い痛い痛い!


 体を内部から食い荒らされている。あまりの痛みに視界が明滅した。


 蛇もどきの進撃は速さを増す一方だ。はらわたを食い破っては突きでて、また沈んで、を繰り返す。その度におびただしい血しぶきがあがる。


 人面虎はさんざん跳ね、暴れて躍らされた挙句、地面へと倒れ伏した。


 ついに頭に到達した蛇もどきが人面虎の片目を突き破って生える。くぐもった呻き声を発する。


 まだ、まだ死ぬことはできない。なぜなら蟲獣もまた、蟲人と同じく強い体と回復力をもつ存在だからであった。強靭なる肉体が苦しみに彼を繋ぎとめていた。


 力なく四肢をばたつかせて痙攣させていると、香りの主はより近づいてくるのだ。


 車輪の回る音が聞こえて、隻眼になった人面虎はどうにか顔をそちらへと向けた。


『ゃえお……ゃえて、くで……!』


 弱々しく告げる。これも中途半端に前世から持ち込んだ拙い人の言葉を使い、命乞いを図るのである。だが、その人物は静かに嗤い、人面虎を指さすのであった。


 血の滴る、包帯を巻かれた手にて。


「ひゃひゃひゃ。許せよ。お前の命は有益に使わせてもらうでな」


 その無情な言の葉ののちに、人面虎の首筋から蛇もどきが顔を出した。


 蛇もどきが次に鎌首をむけるのは、人面虎の『人のがわの顔』である。風を切って奔り抜けていく。


 その頭蓋が貫かれ、砕ける音を聞く。だが、まだ死ねないのである。まだ。

 血と脳漿のうしょうにまみれながら、人面虎は絶望にまみれた咆哮(ほうこう)をあげるのであった。

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