第35話 風水僵尸・抱水の現状

 粉々に砕かれ、石畳を輝かせる数多の硝子片があり。その上には足の折れた椅子や机が投げ出されて散乱していた。


 その渦中で、胸倉を掴まれ、小さい身をつり上げられている子どもの姿がある。泣き続けたその顔は真っ赤に染まり、ひきつけを起こしたようにしゃくりあげている。


 そうして、その子どもを見つめて、今しもたっぷりとした筒袖の腕を振るい――白き鉄扇を顕現させる男の姿があった。


 風水僵尸、抱水である。傍に傘を持たせたお付きの者を従えているので明白であった。


 それは線の細い、神経質そうな男であった。


 痩せぎすの身に、折り目正しく涼帽りょうぼう(つば付き帽子)をかぶり、蟒袍マンパオ(龍の刺繍がある長袍)の上から長い補服うわぎを羽織っている。胸には文官の印の一つである“鴛鴦おしどり”の刺繍を持っており。


 まさに『他に仕える』を体現する僵尸は、哀れな子どもに狙いを定めたのである。

 その腕が大きく振り上げられる。


「やめてぇ!!」


 押さえつけられた若い娘が叫び、届かぬ手を伸ばす。


 見ていられなくて冽花はぎゅっと体を縮めた。胸の内で反射的に――おのが風水僵尸の名を叫んでいた。


 ――……っ、賤竜!!


 そうして、その瞬間であった。


 ズン、と腹に響く地鳴りがその場に湧きおこった。縦揺れの微振動である。そうして、それは立て続けに三度巻き起こる。地震にしてはあり得ない事象であった。


 そして、直後にその場に悲鳴が湧きおこった。誰あろう、それは。


「ッ、いっでぇえ!」


『おや、対不起すまぬ。手元が狂った』


 騒ぎの中心にいた男であった。抱水は振るった鉄扇を男の手の甲へと当てたのである。

 おもわずと子どもを取り落とすのを、空いた手でふわりと受け止める。


『だが、“いつもの扇でぶっ叩く”、その命は果たしたはずだ。――行け』


 痛がる男をよそに子どもを逃がす。そうして、抱水は明後日の――賤竜が駆けていった先の方角を見た。


 開いた扇をそのままに、彼はそちらへ体を向け直す。


 冽花はその唇が小さく動くのを見た。その小さい呟きをも耳に拾うのである。

 『やりすぎだ』という。


 抱水はその場で鉄扇に白き炎を纏わせる。鋭く見据える先には――水路に立つとは思えないほどに大きな『瘤』を思わせる大波が三つ。

 周囲の舟を軒並みかき分け、押し流しながら、現場へと殺到してきたのである。


 冽花は、尻尾があったら玉蜀黍とうもろこしぐらいに膨れさせている思いがした。遠目から見ても、色々と縮尺がおかしいのである。


 ――た、確かにやりすぎだよ、賤竜!! これじゃあ……。


 だが、泡を食って逃げだそうとする恶棍ごろつきども、群衆をよそに、抱水は落ち着きはらっていた。そうして一人、典雅に舞う。


 円を描くような柔らかい所作にて、波にむけて扇をひと薙ぎさせる。


 すると、扇に纏われていた白き炎が水路へと落ち、次の瞬間、どん、とまた腹へと響く重低音が生じたのである。

 水路の水がうねり、向かい来る『瘤』と相対するかのように三つの波が――否、うねる体の水蛇へと変わり、『瘤』に喰らいついていく。


 巨大な波と巨大な水蛇の激突である。その場にはおびただしい水飛沫が生まれ、水路の縁から波しぶきをあげて、場にいる者を等しく濡らしていく。


 豪雨のような有り様であった。が、三つの『瘤』が失せ、もろともに水蛇が姿を消した時には、頭上に見事な虹がかかっていたのである。


 一人、傘を差されていた抱水のみが無事であった。フン、と一つ鼻を鳴らすと、逃げていった恶棍ごろつきどもを追い、その場を後にしていく。


 後に残されたのは、水浸しの路面と人々と美しい虹と。すべてを目の当たりにして腰が抜けた冽花であった。


 やはり風水僵尸たちの力のぶつけ合いは心臓に悪い。


 そうして、ほどなく帰ってきた賤竜はというと。こちらももれなく濡れ鼠であり、薬問屋の店東に無理を言って、拭くものを借りるはめになったのであった。

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