敗北から得られたもの

第30話 交差する思い

 その後。――賤竜にどうにか連れ帰られて以降、冽花は。三日もの間、高熱にうなされることになった。


 賤竜いわく『虚熱証きょねつしょう』だ。体を冷やし潤す役割をもつ陰気の過剰流出。そこから生じる陽気の熱暴走オーバーヒートであった。


 熱に魘されている間、冽花はさまざまな夢を見た。


 今まで見た夢、見なかった夢。


 賤竜と玉環の他愛もない日常から、戦場の一幕。いつもは自然と同化し、自分のなかに落とし込むそれに冽花は抗い続けた。そうして、うわ言のように呟くのであった。


「あた、しは……っ、玉環あんたじゃないんだ……もう……っ」


 そう言い続けると、決まって夢は潰えて。代わりに土舞台での最後の一場面が目の前に現れるのである。苦しい呼吸のなか、足元を見下ろしていると。


 失望したような貴竜の声が聞こえてくるのである。賤竜に話しかけている、あの。


 賤竜は何も言わない。


 冽花はぐっと奥歯を噛み締めるなり、夢でも緩慢な動きで顔を上げて。


「……………っ、賤、竜……ッ」


 あの時、言えなかった謝罪をするのであった。


 冽花の意識は朦朧とし、熱く分厚いスープの膜に包まれたがごとく、判然としなかった。

 煮えたぎるような熱感、そうして、度重なる玉環の夢。おのれを浸食してくるような。そうして、それに繋がる悔恨の――。


 一度だけ、あまりに辛くて小さく嗚咽をもらしたことがある。涙を流して詫びながら。


 すると、冷たい何かが額に触れた気がした。


 汗にじっとりと湿った額にしばらく置かれて、浮かされては前髪を潰すように置かれ、滑り降りて額へと至る。


 ――っ……誰かに……


 撫でられてる?


 反射的にうっすらと瞼を上げて。


爷爷じいちゃん……?」


 死んだ養い親のことを思い出し、呼びかけてみる。


 けれど答えはなく、熱で湿り涙で歪んだ視界をいくら瞬かせようと、額に手を置く者の仔細は判じられない。


 ただ。ただとても冷たく気持ちのいい、優しい手であることが印象に残った。


 その心地よさに誘われるよう再び冽花は眠りに落ちる。今度は夢も見ない深い眠りへと落ちていって。三日後の朝、ようやく目覚めることができたのだった。




 目覚めて最初に感じたのは、強い喉の渇きである。


 喉の粘膜が痛み、張りつく心地を覚えるほどの渇きだ。おもわず唇を曲げて、反射的に喉を鳴らし、なけなしの唾を飲みこむ。冽花は瞼を上げた。


 最初に目に飛び込んだのは、見慣れない木目の天井である。おもわずとすぐ傍らに瞳を転じると、半透明の小柄な体が伏せっているのが見えた。


 妹妹である。眠っているようだ。この亡霊はたまにこういうところがあった。長く世に留まっているのにも関わらず、ところどころ生前の癖が抜けない。


 愛すべき隣人の――眉尻さげた、どこか悩ましげな寝顔を見ていると、ふと足音が近づいてくるのに気付く。


 そういえば、ここはどこなんだ。慌てて瞳を動かし、瀟洒しょうしゃな――どこか覚えのある調度品に違和感をおぼえ、動きを止めたところで、扉の取っ手が下がる。


「っ」


 もうどうにでもなれとばかりに、布団をひっかぶった。


『っん……』


 妹妹の、くぐもった可愛らしい唸りが響く。けれど、冽花は布団のなかに丸まったまま、息を殺していた。足音は傍らにまで近づいてくる――!


 そうして。


『目覚めたようだな、冽花』


 響く低く淡々とした声色に、冽花は反射的に布団を跳ね上げ、飛び起きていた。


「じぇ……賤竜」


『是』


 見紛うことなき賤竜であった。夢のなかで何度も出会い、何度も繰り返し詫びた相手が目の前に佇んでいた。その手には盆があり、水差しと木杯が置かれていた。


 ――水!!


「じぇ、賤竜……水……!」


『是』


 目の色を変えた冽花は即座に欲しいと手を伸ばし、それに応じた賤竜は傍らの棚に盆を置くと、水差しの水を杯へとそそいだ。


 待ちに待った水分だ。両手ではっしと掴み取るなり無我夢中で飲み干す。体に染み渡りゆく甘露……一杯では足りない。


「賤竜、もう一杯!」


『是』


 二杯めをきっかり飲み干し、ようやくホッと人心地つく。


 そこで気付いた。思いっきり賤竜を給仕に使ってしまったことに。


 我に返り、ちらりと上目遣いに彼を伺うと、何一つ変わらない真顔がそこにはあった。

 杯を抱きしめるようにしつつ、冽花は俯いた。


「賤竜……ここはどこなんだ?」


翠森軒すいしんけん二階の別室である』


「翠森軒? ……っていうと、リウ叔叔おっちゃんのところか。どうりで……」


 置かれている調度品に見覚えがあると思った。劉皓轩リウ・ハオシェン。現在お世話になっている、いわゆる『お向かいの店』の店東てんしゅに、新しい部屋を貸していただいたようだ。


 有難さと申し訳なさに頭が下がり、後ろ頭を掻く冽花である。


「あとでお礼言わないとな。それに、よければ迷惑かけた分の――」


『代価は必要ない、と言伝を受けている。ご巡幸効果で十分儲からせてもらったから、と』


「うぐ」


 さすがは一代で店を大きくした男である。綺麗に先回りされており、冽花は頭を抱えた。


 だが、それもつかの間のことである。太く溜息をついて――開け放たれた窓の外を見やった。外の喧騒は、記憶のなかのものよりも随分と落ち着いて見える。


「……あれから何日経った?」


『三日。今は朝方にあたる』


「三日か……そりゃあ、外が静かにもなるよな」


 そよ風が心地よい。瞳を移すと、むかいの『好吃食堂』は今日もそこそこ繁盛しているようであり、冽花は目を細めた。


「……行っちまったなあ、貴竜」


 ぽつりと呟く。


 ご巡幸の日程は五日だ。冽花が倒れている間に、皇太子一行は街を出たことになる。


 もう一日早く目覚めていれば――ほんのわずかに、胸にくすぶる苦いものが湧きあがる。だが、かぶりを振った。もう一度『好機』があったとて結果は同じに違いない。


 自分たちは負けたのである。


「……賤竜」


『是』


対不起ごめん


 冽花は賤竜へと顔をむけるなり、杯を置いて、拱手きょうしゅをした。深く首を垂れる。


「『思いっきりやれ』とか大口叩いておきながら、このざまだ。あたしは……玉環の記憶があったから……上手くやれると思った。思ってた。でも、第三段階のこと……第三段階があることすら、知らなかった。知ってるふりして、あたし、あの時、お前に……」


 賤竜は答えない。


「玉環の記憶は、本当、断片的にしか見てない。それで。それで、お前のこと知った風な気になってたんだ。それで、お前にお前のこと聞かないで……聞いてなかった、ってこと、あの時になって初めて知って。あたし……あたし……」


 賤竜は応えはしない。

 冽花は、ぼやぼやと目の前が滲んでくるのを感じた。


対不起ごめん……大事な戦いだったのに……お前が、やりたいって思った戦いだったのに……思いっきりさせてやれなくって、対不起」


 ぎゅっと組み合わせた両手を白く染まるまで握りしめる。ぽた、と音をたてて、布団に雫が零れ落ちた。


「あたし……またお前に嘘ついちまった……。いや、あたしは玉環じゃないけど……っ、でも……お前に、嘘、つきたくない、って……お、もってて……ッ」


 歯の根が合わなくなり、冽花はより深く俯いた。たまらずと、丸い染みだらけになった布団へ両手を縋りつかせるのであった。


「対不起、賤竜……ッ」


 体を倒し、両手で顔をおおって、冽花はすすり泣いた。


 悔しかった。情けない、不甲斐なかった。なにより申し訳なかった。


 あの時、確かに賤竜は『是』と答えたのである。「思いっきりやれ」という冽花の言葉に応えて、『是』と。


 信じていたのである。自分のしたいことを全うさせてくれるのだと信じて。


 賤竜は応えなかった。応えようと、しなかった。


 そのことは冽花に、また玉環の記憶を思い起こさせた。玉環が彼の内面に踏みこんだ折に、沈黙をもって答え、見つめていた時と。


 そうして、それは。この場の冽花においては、深い絶望をもたらすものであった。


 賤竜は、この謝罪を受け取ってはくれないんだ、と。それぐらいに自分は彼に、失望を――……。


 ぽん、と冽花の後頭部に載るものがあった。

 遅れて、載せられたものの柔らかさと、冷たさが伝わってくるのである。


「…………え?」


『嘘などついていない、お前は』


 冽花は、耳を疑った。おもわず顔を上げようとすると、ぐっ、と上から圧がかけられてくる。見るな、ということなのであろう。そのため、冽花は姿勢を維持する。耳を傾けるだけに留めるのである。


『あの戦いは、偶発的に起こり得たものであった。これとお前にとって。此は……有用性を発揮しうる機会として応じた。そして、久しぶりに貴竜と務めを果たすことができた』


 賤竜が語ってゆくのは。


『お前があの場に留まり、此の稼働状況を見守り、かつ最適な時機に命を下したからだと判じる』


 冽花が告げたことへの反証である。


『確かに、後半において不備があったことは認める。が、しかし、お前は命じた。“思いっきりやっちまえ”と。……此は“思いっきりやっちまった”と判じる』


 冽花への肯定だった。


『契約者、冒冽花マオ・リーホアよ。……お前は、お前のなし得る最大限に』


 するりと頭上の手が滑り、前髪を押し潰すように置かれて、離れた。


『此を運用してくれたことを認める』


 ぱちぱちと冽花は瞬いた。そうして、新しい涙が溢れてくるのを感じた。


 あの賤竜が。


 自分のことにはだんまりであり、こと契約者は十把一絡じっぱひとからげという顔をしている賤竜が。

 冽花を認める言葉を告げてくれた。


「ぅ、あ……」


 そうして。


 後頭部に置かれた、確かな手の優しさと、冷たさ。

 すべてがない交ぜになってしまい、冽花は泣いた。その場に伏せり、声をあげて。


「ぅあ……あああ……ッ」


 胸にこみ上げる熱いものに従い、涙を振り絞った。


 苦い。苦い経験であった。自分の大きな落ち度、過ちを思い知った事件であった。


 だが、得るものはあった。教訓と――確かに、見ていてくれたらしい、賤竜からの言の葉だ。


「あああ――……ッ!!」


 冽花は、この時を忘れない。

 賤竜がどんな顔をしているのか、顔を上げる余裕もなかったし、何より『見るな』と示されていたので、そのまま見ることはなかった。だから知らなかった。


 泣きじゃくる冽花を見下ろす賤竜が、目を細めて。ごく薄っすらと、唇に弧を描かせていたことを。


 途中から寝たふりをし続けていた妹妹が起き上がり、冽花の世話を焼き始めるのを見て、すぐに消してしまったので、誰も見ることはなかった。


 冽花は忘れない。


 見なかったけれど、確かに触れた。触れてくれた暖かさを。

 忘れることなく、また前を向いて歩きだすための糧にするのだろう。

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