新たな同行者の懊悩

第16話 『己の路を探す者』、探路(タンルー)

 それは、ある日の夜半の出来事であった。

 ひどく苦しげな――男の呻き声を耳にして、冽花は目を覚ました。


 明かりを落とした部屋のなかは暗い。が、『転化』していずとも多少の夜目は利く。

 墨壺をひっくり返したような闇のなか、冽花は沙发ソファーから身を起こした。


 声の出所をたどると、予想通り、それは部屋のすみのベッドから聞こえている。


 よく見ると牀の傍らに長身の人影が佇んでおり、視線の気配に気づいたのか、肩ごしに振り向いてきた。

 賤竜。胸のうちで彼の名を呼ぶなり、冽花もまた立ち上がり、その隣へ向かう。


 賤竜に迎えられて、ともに牀を見下ろした。

 そこでは一人の男が、どこか悲しげな声をもあげながら、悶え苦しんでいた。


「……っ、不起まない対不起すまない……っ」


 しきりと詫びる声を絞りだし、呻きまじりに小さく身じろいでいる。


 年のころは三十代ほどか。げっそりとこけた頬に落ちくぼんだ目元。

 手足は女の細腕のように細くなっており、弱々しくかぶりを振る顔と、敷き布をつかむ手以外、まともに動いてはいない。


 賤竜が寝返りを打たせてやり――その折に、武骨な『首輪』があらわになった。赤錆た色みをした、恐らく鉄製の首輪である。


 冽花は唇を結ぶ。


「……按摩してやってくれ、賤竜」


『是』


 体の各所に靠垫クッションをはさみ安定させてから、陰気の炎を纏う手が、男の背へと伸ばされていった。触れられた途端に、びく、と身を跳ねさせてから。


フー……ラン……っ」


 顔を歪めて。どこか泣きだしそうな声色にて、その言葉が紡がれる。


 見て聞いている冽花の胸は否応なく締めつけられた。

 それほどに深い悲しみに満ちた姿だった。


 ――嗚呼。今日も呼んでいる、と。


 身につまされるような思いで、冽花は唇を噛むのだ。


 背を擦り続けられていくと、徐々に男の呼吸は落ち着いていって再び眠りに落ちていく。


 ほっと息を吐いて、眉尻をさげる冽花と、淡々とした賤竜の真顔が見合わせられる。


 静寂が戻る室内。

 夜は長く、まだまだ明けそうにはない。


 冽花たちが新しい旅の仲間を迎えて、実に一週間もの月日が流れていた。


 


 あの後。明鈴とあの男を連れて、場を離脱したあとのことである。


 二人は秘密裏に明鈴の母親を呼びだし、娘と再会させた。

 母親の喜びようといったらなかった。明鈴の顔にも生彩が戻り、ようやく、声をあげて泣くことができた。


 ひしと抱き合い、涙をふりしぼる姿を見て――少々涙腺が緩くなった冽花である。


 そうして娘と無事に再会を果たした母親は、何度も礼を告げてきた上で、次に男へと注目したのであった。


 同席しながら岩のように黙しており、なにより賤竜に抱えられていたからである。

 長きにわたる幽閉生活の影響か、その手足はひどくやせ細っていた。いわゆる、手萎え足萎えである。


 その境遇を聞いて眉を寄せてから、では、と母親が教えてくれたのが、とある街の薬問屋であった。知り合いの店であり、それら消耗によく効く薬を売っているのだという。


 それを聞いて顔を見合わせた冽花たちは――とくに冽花は、先だっての恩があった。


 連れていく気満々で男に確認をとったのである。方向的にもそう福峰と離れていぬ上に、旅の準備を整えなおす面でもちょうどいい、と。

 男は何も言わずに、ただ目をつぶって一つ頷いたのみであった。


 彼が口を開いたのは、その後、すぐさまに渡し船に乗って川をくだり――到着した村で、食事と洗身の機会に恵まれた後であった。


 食事をへた上で賤竜に連れられて、その溜まりに溜まった垢と脂を落とし、髪と髭を整えられて。ようやく彼本来の姿に近づいて、人心地ついたに違いない。


 おもむろに、掠れていつつも柔くよく通る声で礼を告げてきた。そうして、休み休みに話してくれた身の上話へと、冽花は驚愕を受けたのであった。


「な、なにも覚えてないって……真的ほんとうに?」


「本当だよ。名前はもちろん、家族のことも……どこで何をして生活していたのだとかも、まるで分からないんだ。気付いたらあそこに捕らえられていた」


「……真的卧槽めちゃくちゃやべえじゃねえか」


「うん。我ながら真的卧槽と、そう思ってるよ」


 そう言って目を細める男は、未だ消耗の色が濃くも、穏やかで理知的な光を目に宿していた。結構気さくであった。また、長い幽閉生活を送ったとは思えぬほどに、その精神は頑強であり健全だった。


 冽花は瞬きを落としつつ、おそるおそるとその首を指さした。


「その首輪についてはどうだ? それも、あいつらに着けられたのか? あそこにあった鍵のなかに、それらしき鍵は見当たらなかったけれど」


「ん? ……ああ、うーん……対不起ごめん、それも覚えてないんだよ」


 その長い髪を梳いたことによって露わになった、武骨な首輪。


 赤錆色の、おそらく鉄の首輪である。賤竜に言わせると、指先すらも入らぬぐらいに密着している。


 言われて男は見下ろしたものの、首を振った。そうして、ひどく硬く冷たく窮屈であるだろうに、冽花の瞳を見ては、より目を細め返した。


「心配してくれるんだね、有難う。でも、大丈夫だよ。息が詰まるということもないし。ちょっと悪目立ちはするけれど、それだって隠していればバレやしない」


 あるかなしかに口角を引く。


 おどけるような声色に瞬いた後に、冽花も少しだけ笑い返した。「服を買わないとな」と言い返していると――ここで、男の顔色が少しだけ変わった。


 その顔から柔和な色が消えて、真剣な顔つきになった。


「でも、一つだけ覚えていることがあるんだよ」


「お?」


「僕は『帰らなきゃいけない』、それだけは覚えてるんだ。……どこに帰ればいいのか、それは分からないんだけど」


 それまで強い意思の力でもって生彩を保っていた顔が、光を失くしたかのように悄然(しょうぜん)としてしまう。


 冽花は慌てて口を開き――開け閉めする。


 自分は医者でもないのである。人の記憶について、どうこう言えるはずがない。

 まして、彼はあの場にいた以上、蟲人である可能性があるのだから。今のところ、その兆しは見られぬけれど。独自の形態をもっている可能性があった。


 が、契約者の懊悩を見かねてか、賤竜が口を開く。


『ひとまず今は、体の回復に注力すべきである。“病打心上起やまいはきから”という言葉があるように、心と体とは密接に結びついている。身が足りてこそ、心が満ち得もしよう』


「っ、良いこと言うな、お前!」


 弾かれたように顔をむけて、おもわず賞賛の目を向けてしまう冽花だった。


 そんな二人を目を丸めて眺めていて――ふと男が、目を和ませて笑ったようなのには、その時は気付かなかったが。少しだけ眉尻がさがり、切なげな顔をしたことも。


 冽花が顧みた時には、元の表情に戻っていた。


 悄然とした気色が薄れたのに安堵して、冽花は言葉を継いでいた。


「じゃあさ、ちゃんとした名前が思い出せるまで、アンタを『タン』って呼んでもいいか? 帰り道を探す意味で『探路タン・ルー』ってさ。呼べる名がなきゃ不便だし」


「ああ……いい名前だね。気に入ったよ。じゃあ、今から僕は探路だ。よろしくね?」


 そう言って、目尻をさげる探路に、ほっと胸を撫で下ろす冽花であった。

 その後は妹妹を紹介したり、賤竜に話したように蟲人について教えるなどして、穏やかな時を過ごした。


 まさかにその夜。問題が生じるなどとは、思ってもみなかったのである。

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