第六章
1.両価性
「
完全に無意識なまま呟いた自分の声に、悠哉はハッと我に返る。
おれは今、なんと言った?
愕然とする悠哉に、胡桃の姿をした別人はニヤリと笑う。
「久しぶりだな、
草薙という名は、おそらく悠哉のことだろうし、自分が呼ばれたのだとごく自然に認識したことが、不思議だった。
「けど助かったぜ。少し前から意識はあったんだけどな。わずかな間ならともかく、なかなか表に出られなくて、もどかしかった。けどどうやら、お前のおかげで自由に動けるようになったらしい」
うーんと大きく背伸びする姿は、驚くほどに無邪気だった。
その姿が、誰かに重なって見える。
なのに、その誰かがわからない。
影はちらつくのに一向に正体が見えないのが、じれったくてたまらない。
「――烈牙、くん」
胡桃本人よりもトーンの低い声、荒っぽい物言いから男と当たりをつけて、呼びかける。
「なんだ?」
なにが気に入らなかったのか、心底嫌そうな顔を見せる。
けれど、不機嫌をあからさまに示しながらも、否定はしなかった。
――やっぱり。こくりと喉を鳴らして、息を飲む。
「では本当に、君の名前は烈牙くんというのか」
「まぁな。けど気味が悪いぜ。昔みたいに、烈って呼べよ」
「――昔、とは?」
「昔は昔だ。こいつがおれで、お前が草薙だったときのことさ。しかしなんだな。生まれ変わる度にこうも会っちまうんだから、やっぱり因縁ってヤツなんだろうな」
まったく理解不能な事柄を、さも当然のように並べ立てる。
しかし、そうだなと頷きかけた自分の反応もまた、理解しづらいものだった。
下手をすれば感情に引きずられかねない状況だからこそ、切り離す努力をする。客観的な視点を意識しながら、ひとつ深呼吸した。
「烈牙くん」
「れ、つ」
一音ずつ切って、悠哉を睨む。
ため息が洩れた。別人格である彼からの信頼を得るのは重要だが、できるだけ馴れ合うのは避けたかったのだけれど仕方がない。
「――烈」
名を口にするだけで、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
「その……非常に言い辛いのだけど、僕は草薙という人じゃない。
感性を無視し、慎重に言葉を選ぶ。きょとんとこちらを見る顔は、胡桃同様、純朴そうなものだった。
「お前――もしかして、覚えてないのか」
覚えていないではなく、知らないのだ。
喉元まで出かかった反論を飲みこみ、ゆっくりと頷く。
「なんだ。出てくるなり名前呼ぶもんだから、てっきり覚えてるもんだとばかり」
バサバサと頭を掻くつまらなさそうな仕草に、無理もないと思った。
たとえば街中で名を呼ばれて振り返ったのに、呼びかけてきた方があんた誰だっけ、と言っているに等しいのだから。
「僕が考えている推測では、胡桃ちゃんは解離性同一性障害という、一種の病気なのだと思う。胡桃ちゃんの中に、胡桃ちゃん以外の人格が存在している。それが君だ」
「別の人格、か。そりゃそうだな。おれはこいつじゃねぇし」
座ったまま、手でスカートをひらりとめくって見せる。こんなになっちまったと、うんざりした調子だった。
「君は、自分が彼女の昔の姿――前世、というのか。そう思っている様子だけど、違う。実際には、そう思いこんでいる別人格なんだ」
「――じゃあなにか? おれが覚えてる、おれの時代の、おれの生き方ってのもすべて、こいつの想像の産物だと?」
こいつ、頭は悪くない。
Aを言われて即座にBを理解した烈牙を、そう評価する。
「じゃあ訊くけどな。お前がおれの名を知ってた理由は? どう説明するつもりだ」
「そ、それは」
当然、されてしかるべき指摘だった。一瞬つまるも、すぐに返答する。
「もしかしたら僕が、思いつきで呼びかけてしまったせいかもしれない」
「――烈牙、と呼ばれたから、烈牙になった。おれはそれだけの存在だと――そういう意味なんだな」
半ば苦し紛れの説明を、咀嚼するようにゆっくりとくり返す。無邪気な印象の強かった瞳に、剣呑な光が見え隠れし始めていた。
「そういうこと言うか、お前が――他でもない草薙、お前が」
睨んでくる鋭い目つき。さらに低くなった声が、脅しをかける色彩を帯びていた。
胡桃の声帯を通していても、すでに少年の声のようにも聞こえる。
「――ハッ。やめだ」
どこか悲しげだった烈牙の、それでもなお強かった眼光が、ふっと緩む。
「おれがこいつの中にいる理由はわからねぇ。ただ、尋常じゃねぇってことくらいはわかるさ。だからお前の力を借りたいと思ってたんだが……もういいや。こいつはおれだけで守る。邪魔したな」
向けられたのは、軽蔑の浮いた眼差しだった。
けっ、と吐き捨てて立ち上がったのは、明らかにここを立ち去るつもりで――
「待ってくれ」
静かな怒りと拒絶の見える態度に、思わず腰を浮かした。多重人格を患った胡桃を、医師として放っておけない。
否、それは建前だと気づいている。
本当はただ、烈牙の信頼を裏切ることが――まして、二度と会えなくなるのが、耐えられないだけだ。
すでに歩き始めていた烈牙は、憮然としたままながら顔だけで振り向く。
「正直に言うと――無性に懐かしく思う。烈……お前のことが」
あえて「お前」と口にしたのは、「君」よりもずっと、距離がないからだ。一気に親しみが増して、切なさに涙まで出そうになる。
「だがおれは、人間の転生なんて信じていない。だから前世などと言われても、即座には承服しかねる。しかし――」
ゆっくりと語る悠哉を、じっと肩越しに見つめている。見定めを受けている気分だった。
「お前の言い分を全否定すると、今、こうして感じている懐かしさが説明できない。感情と理性が、矛盾している」
「
互い違いの眉に、呆れの色が濃く浮き出ていた。とはいえ、身を包んでいた刺々しい空気が消えていることに、とりあえず安堵する。
同時に、驚きもあった。
両価性――アンビバレンスという心理学用語を、さらりと口にした。
胡桃は知らないだろう単語だし、もし言葉としては偶然それに行きついたのだとしても、判断力、語彙力はかなりのものだ。
「ま、気持ちはわからないでもねぇけどな……しかし、だとしたらどうするか」
烈牙は口元に手を当てて、床に落とした視線を左右に揺らす。これが考え事をするときの癖だとわかる。
――わかってしまった。
動揺する悠哉には構わず、烈牙はひとりで、いやしかしと逡巡をくり返している。
やがて、ま、いっかと体ごと振り返った。
くるんとひらめくスカートは可憐なのに、歩み寄ってくる仕草は溌溂とした、少年の歩き方だった。
「座れ」
悠哉の前で足を止めて、短く命じる。突然のことに戸惑うと、若干イラ立ちの浮いた声が続いた。
「届かねぇんだよ、手が」
「え? ああ、すまない」
反射的に謝り、ソファに座り直すも、なにがどう届かないのかわからない。問いを発するよりも早く、しっ、と制されて口をつぐんだ。
烈牙は軽く瞼を合わせ、胸の前で右手を構える。
人差し指と中指だけをそろえて立てた形は、指の腹と背がちょうど日本刀の反りにも見えた。
半開きの唇が短く声をかける度に、刀の如く構えた右手を、小さな動作で縦横に走らせる。
――まるで、空間を切り刻むように。
「
呟きと動きで、知らないはずの呪術的な意味合いを、把握してしまった。
「――
最後の一音を、小さいながら鋭い呼気に乗せ、指先を悠哉の額にピタリと突きつける。
その瞬間だった。
刹那の間に、クリアな映像が頭の中を駆け巡る。
森林を駆け回る少年、屈強な体躯をした甘い顔立ちの青年、柔らかな空間と微笑みに包まれた少女――
幾多の時を経て、何度も巡り合った相手が胡桃だと知るのは、あまりにも容易だった。
映像に伴い、記憶もまた流れ込んでくる。自分と相手の関係も――その、感情も。
胡桃に、そして烈牙に覚えた懐かしさや切なさの正体が、そこには凝縮して詰めこまれていた。
時間でいえば、ものの数秒に過ぎない。けれど確かに、膨大な自らの「過去」を見た。
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