2.ドメスティックバイオレンス

 そして今日もまた、愚痴が続く。


「今日はね、いつもよりもイヤな感じだったの。だって、殴られちゃうんだもん」


 嘆息の割に、口調が幼いせいか悲壮感はない。

 とはいえ、内容が内容だけにさすがに驚きはあった。


「殴られたって、例の男に?」

「うん。何回も往復ビンタされて痛いし。よくわからないけどすごい責められてるみたいで、すごい怒鳴られて」

「そりゃあ怖いよな」


 首を絞められる方が死に直結するのだけれど、痛みより苦しさ、しかもすぐに意識を失うから悲しさが強いと言っていた。

 ならば長く続いた分、具体的だった分、殴られた方が怖かったのも頷ける。

 気持ちが想像できるだけに、あえて声の調子を明るくして言った。


「でもそれもたぶん、悪い夢じゃないと思うよ」


 死、暴力、罵声――彼女の夢は不吉に思える。けれど心理学的見地によれば、逆に吉夢とされるものだった。


「殺されたり殺したりするのが、今までの自分との別れや新しい自分への期待の表れってのは前から言ってるけど、今回のもそれに似た意味合いみたいだな。しつこいほど怒鳴られるのも、面白い出来事との出会いの暗示らしい」


 専門家ではないから根拠はわからないけれど、夢分析の本にはそうあった。


「ついでに、暴力も愛情表現だし」

「えーっ、まさか!」

「ああいや、夢の中では愛情とか親しさとか、そういうのが暴力の形で現れるってこと」

「……そっか。夢の中では、ね。実際には好きな人のこと、叩いたりしないもんね」

「――――」


 そうだそうだと頷く姿に、残念ながら同意はできなかった。

 「好きな子ほどいじめる」という言葉もあるし、小学生男子などは確かにその傾向がある。


 また、大人になってからも恋人や配偶者に暴力を振るうドメスティックバイオレンスも、社会問題化していた。

 それらの心理を、まったく理解できない。したいとも思えない。けれど、現実として行われているのは事実である。

 もっとも、それを説明する気はない。胡桃の夢とは、関係のない話だ。


「暴力を振るわれる、イコール、愛情をぶつけられてるってことになる。恋人に殴られる夢って、その人との結婚を暗示してるとか言うけど」

「け、結婚なんてそんなっ」

「まぁ、まだ現実的じゃないよな」


 瞬間的に赤くなった胡桃に、くすりと笑う。反応がいちいち素直で面白い――可愛い。

 そもそも「恋人に殴られる夢」というが、確かに夢の中では恋人だろうが、現実の胡桃に彼氏がいないのはわかっていた。

 本人に直接聞いたわけではないけれど、もしそんな相手がいればわざわざ克海に相談しないだろう。毎朝一緒に登校することもないはずだ。

 そう思うことが、ほんの少し嬉しかったりする。


「まったく知らない人でも、異性に叩かれるのは恋愛運がアップしてるってことみたい。近々いいことあるんじゃない?」


 よかったなと続けたのは、からかい半分本音半分だった。


「だったらいいけどねー」


 胡桃も、あははーと軽く笑いながら応じ、それでも恥ずかしいのか赤いままの顔を片手で覆った。


 ――途端、声が聞こえた。


「うるせぇな。余計なお世話だ」


 ぼそりと、吐き捨てる語調だった。

 耳を疑う。胡桃の台詞とは、到底思えなかった。

 けれど車内に人はほとんどいない。しかも、トーンはいつもより数段低くはあったが、声自体は胡桃のものだった。


「……えぇっと、今、なんて……?」


 数秒経って、聞き間違いの可能性に気づいた。

 問い返す克海を、胡桃がきょとんと見やる。


「ん、なにが?」


 首を傾げた、不思議そうな表情だった。

 とぼけているようには見えない。聞き間違いですらなく、空耳だったのだろうか。

 顔は手で覆われていたから、口元の動きを見ていないのは事実ではあるけれど。


 ――だが、そんな勘違いをするか?


「――あっ」


 自問のために黙り込むも、沈黙はわずかの間だった。克海を見上げていた胡桃が、不意に声を上げる。


「よかった、エプロン忘れてなかった」


 カバンの中をガサゴソと漁った後、ホッとしたように微笑んだ。

 急に忘れ物の可能性を思い出すことは、確かにある。また胡桃自身、思い立ったらすぐ行動に移る傾向もあった。

 そう考えれば決して不自然ではないけれど、なんとなく違和感が残る。

 とはいえ、勘違いかもしれない話を蒸し返しても得はない。話題に乗る形で、質問を返した。


「そういえば広瀬って、料理できるの?」


 エプロンが必要なのは、三、四時限目が家庭科で、調理実習だからだ。


「あたし? 苦手だよ」


 胡桃はにっこり笑いながら、きっぱり断言した。

 ほらな、と苦笑が洩れる。たとえ本当に料理が苦手だとしても、少しはいい格好をしたいと思うのが普通ではないのか。

 胡桃にはそういったところがない。この天真爛漫さが、幼い印象を強くする。


「草野くんは?」

「まぁ、困らない程度には」


 母親が、今時は男子も料理くらいできないと、という考え方で、小さい頃から一通りの家事はやらされた。毎日一人で食事を作れと言われれば厳しいけれど、メニューが決まっていてレシピを見ながらであれば、きっとできる。


「よかった! じゃあ今日は、草野くんにお任せしちゃおう」


 調理実習は男二人女二人、計四人で行う。それぞれ同性で組み、そのペアを男女ひとつずつ合わせてグループが編成された。

 教師が強制的に作るのではなく、生徒たちで自由に組めたのだが、胡桃と仲のいい女子が一緒にやろうと声をかけてきたのだ。

 断る理由もないので承諾し、今日は同じグループなのだが――まさか最初からお任せ宣言されるとは思わなかった。


「じゃあ広瀬はなにするの」

「草野くん作る人、あたし食べる人」


 もちろん冗談だろうが、あっけらかんと言ってのける明るさに、呆れ半分微笑ましさ半分の作り笑いが滲む。

 こういうのがやはり、彼女らしい。

 余計な世話だと吐き捨てたあれはやはり、気のせいだったのだろう。

 胸にわずかに残るもやっとしたものを、半ば無理やり飲みこんだ。

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