冥合奇譚
月島 成生
プロローグ 始まりの夢
一陣の風に、ふわりと髪が舞った。
ゆっくりと辺りを見渡した。
やけに空が近い。手を伸ばせば星が掴めそうと、月並みな表現が浮かんだ。
高い建物はなく、たくさんの樹木が不規則に並んでいる。
森の中なのか、皓々と輝く月光を浴びてなお、世界はモノトーンに包まれていた。
ここはどこだろう。
これほどの自然が残っている場所は、近くにはない。
どうして、ここにいるのだろう。
疑問は脳裏を掠めるのに、違和感を覚えないのも不思議だった。
寒いのは苦手なはずなのに、肌を蝕むほどの冷たい風が、なぜか心地いい。
しかも――視線を巡らせた
宙に浮いた自分の足と、地面との距離に目が眩む。
高い木の上に腰かけているのだと気づき、慌てて瞼を下した。見えなければ、とりあえずは高さを意識せずにすむ。
――ああ、これは夢か。
唐突に悟る。
目を閉じる前に、自分の姿が見えた。
時代劇で観るような着物を纏い、わずかに乱れた合わせの間から覗いた逞しい胸板は、どう見ても男の身体だった。女子高生の胡桃本人であるはずがない。
道理で、と納得する。
高所恐怖症の胡桃が、あえて木に登るとは思えない。この状況に平然としていられるのも、夢だからだ。
ひと安心して、次に気づいたのは笛の音だった。
風に踊る葉擦れに混じった、美しい旋律。顔の横で動く指に、奏者が自分と知った。
胡桃は楽器の演奏はできない。まして横笛など、触れたこともなかった。
だから夢の中とはいえ、自分の指から紡ぎ出される繊細な響きに、感動すら覚える。
同時に、胸が痛い。
寒空に響き渡る笛はどこまでも澄んでいて、それだけに物悲しい色を帯びていた。
――辛いことがあったの?
呼びかけは、無意識だった。
音色には奏者の心情が表われると聞いたことがある。ならばこの人はとても、悲しんでいるのではないか。
声をかけたあと、ひっそりと苦笑する。
そもそも夢なのだ。問いかける意味があるとも、また、伝わるとも思えない。
――けれど。
ぴたりと笛が止んだ。なにかに気づいたように――呼びかけに、反応したように。
視覚や聴覚、そして気配でも声の主を探そうとしているのか。再び開けた目の中で、静かに風景が流れていく。
色彩を失った森にいたはずだ。なのに、ぽっかりと拓けた場所がある。しかも、まるでスポットライトのように光を浴びた、そこにだけは色があった。
ぽつんと置かれたベッドは、森の風景にはそぐわない。ピンクのチェック柄のシーツが、さらに違和感を際立たせている。
その柄には覚えがあった。ベッドだけではない。そこに眠る人物に、目が釘付けになる。
茶色がかった髪、白い肌――全体的に色素の薄い少女は、胡桃自身だった。
幽体離脱でもしているのか。
傍から自分の寝姿を見る怪異に、愕然とする。
否、驚愕を示したのは胡桃だけではなかった。
「お前……?」
すぐ耳元で、男の声が聞こえた――その瞬間だった。
視界に広がる景色が、目まぐるしく入れ替わり始める。
一面の花畑、豪奢な着物が掛かった部屋、金色の化物、西洋の甲冑を纏った男達、美しい神殿と炎に包まれた城。
助けなければ。
思った時にはすでに、無我夢中で走り始めていた。
なのに、いつの間にか炎の中で座っている。誰かを探して飛び込んだのに、今は誰かが来てくれるのを待っているのが自然に思えた。
声が聞こえる。
ずっと、待っていた人の声だ。ああやっぱり来てくれたと、場違いな安堵に包まれる。妙に満ち足りた気分だった。
だが、鼻をつくのは焦げ臭さと錆びた鉄の匂い。同時に、ぽたりとなにかが頬に落ちてくる。
自分に覆いかぶさってきた男の――炎から庇ってくれた人の、血だ。
一瞬とはいえ、守られる喜びに浸った自分の、なんと愚かしいことか。
男の顔は、陰になって見えない。けれど深い湖を思わせる瞳が悲しげに揺れて、それでもなお満足げに微笑んだのがわかった。
違う、こんなことを望んだんじゃない。
声にならぬ悲鳴を上げた途端、場面がまた変わった。
立場が入れ替わったのだろうか。今度は胡桃が、倒れた少女を抱き起こしている。
――血に濡れた、少女の身体を。
「――っ!?」
布団をはねのけ、飛び起きる。
反射的に両手を見るも、暗闇の中では影で形を捉えるのが精一杯だった。
濡れた感触は、ない。
おそるおそる、手を鼻先に近づける。血臭がしないことを確認して安堵し――
安心した瞬間、自分の行動が滑稽に思えて苦笑した。
途中で夢だと気づいていたはずなのに、いつの間にか忘れて感情移入してしまっていた。なにかにつけてすぐに共感するのは、胡桃の癖だ。
それにしてもと、ゆっくり両手を握りしめる。
自分の意思で体が動く、そんな当たり前のことにホッと息を吐いた。
祖父宅に越して来てから、一週間になる。それからというもの、ずっと変な夢を見ている――ような気がする。
曖昧なのは、起きたときには忘れているからだ。
内容を覚えているのは、今日が初めてである。
切ない夢だった。
庇ってくれた男性を見上げたとき、倒れた少女を見下ろしたとき、感じた絶望は夢とは思えないくらいにリアルで。
リアルなのは感情だけではない。
頬に落ちた血も、手を濡らした少女の血液も、匂いと共にぬめる感触があった。
切なく、それだけに怖い。
怖いけれど、悲しくもあった。
なにがあったのだろう。断片的に観ただけでも、悲劇は容易に想像できる。
きっと辛かっただろうな、大丈夫だっただろうかと心配が頭をもたげた。
だが、すぐに我に返って頭を振る。
夢は夢だ。いくら物語のようになっていたとしても、大した意味などないに決まっている。
ましてストーリーを知ったところで、なにができるわけでもない。考えるだけムダだ。
もっとも、だからといってまったく気にせずにいられるわけもなく――夢の場面を思い出しかけて、慌てて首を左右した。
明日から新年度が始まる。
前に住んでいた家よりも、祖父宅の方が学校にはやや遠い。その分早く起きなければならないのだから、おかしなことを考えていないで眠らないと。
改めて体を横たえると、頭の上まで布団を引き上げた。
だから気づくことができなかった。
夢がただの夢ではなかったことに――どこからともなく、視線が注がれていることにも。
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