第1章



 帝都から遠く離れた、ロレーヌ地方のとある村——。

 ダルキア家が所有する先祖代々受け継がれてきた小さな畑は、青々と茂った木々が立ち並ぶ林のかたわらにあった。


 眩しい日の光が差す景色の中に、美しい蝶『フレイア』がふわふわ飛んでいる。

 畑仕事の手を休め、セリーナ・ダルキアはその優雅な姿をぼんやりと眺めていた。


 フレイアは野菜の葉っぱにとまったり、気まぐれに白い花の蜜を吸ったり。

 淡いブルーと碧色みどりいろで編まれた美貌のはねを、光の中にキラキラと煌めかせている。


 ——なんて綺麗なの。


 セリーナは憧れに似た眼差しで蝶を見つめ続けていた。

 あのフレイアさえも精一杯に飛んで、生きて。あんなに美しくかがやいているのに。

 なのに……自分は。


 身体中が泥にまみれ、髪は小さく頭の上に引っ詰めて。

 自分の女子力の無さを気にすることすら、ずっと昔に忘れてしまった。


 村の若者たちがセリーナに付けた異名あだなは『ガイム』。

 嵐の夜にだけ泥の中から顔を出し、地を這い回る醜悪な嫌われ者の虫だ。

 若者のみならず幼い子供たちまでもがセリーナを、ガイムにちなんで『蟲姫』などと呼ぶ。


「蟲姫がなんか食ってら〜っ!!」


 林の影からセリーナを嘲け笑う子供たちの声が飛んできた。

 拳を上げて「コラ!」と叫ぶと、うわぁぁぁっと大きな歓声があぜ道を走り、遠ざかっていく。


 幼子といっても秀麗・醜悪を見定めるがちゃんと付いている。村人から罵られることにすっかり慣れてしまったセリーナの感情が揺さぶられることはなかった。


 ひとしきり野良仕事を黙々とこなしたあと、ライ麦パンに薄いハムを一枚挟んだだけの昼食を食べながら頭上に広がる青空を仰いだ。

 一人きりで摂る食事。

 いつもは一緒の父親も、今日は市場に野菜を売りに行っている。


 畑仕事は辛くないけれど、せめて自分にも何らかの『能力』が備わっていれば、父親をもっと楽に働かせてやれていたかも知れない。


 恵まれた者たちは、ある種の『能力』を持って生まれて来る。

 それは世襲性をもち、『能力』の備わった両親のうち強力性のある性質が子に継がれるとされている。


 雷、風、土、光……それらの種類は多岐にわたるが、いづれにせよ『能力』を持つ者たちはこの世界で優等とみなされ、持たない者たちは劣等……能力者でなければ生きづらい世の中だ。


 白い雲がのんびりと、澄みわたった空に流れて行く。

 あの雲が向かう先に広がる世界。

 セリーナが見たことのない、煌びやかな『帝都』。


 人びとが他所行きの服や装飾品で着飾り、食事を提供する飲食店が軒を連ねる。

 立派な建物や商店がそびえ立ち、傍らに豪奢な馬車が行き交う……母からもらった絵本に、そんな街を舞台にした物語が描かれていた。


 大小十数国を纏めあげるオルデンシア帝国の帝都は、昼夜を問わずに馬車を走らせたとしても三日はかかる。


 まだ一度も行ったことはないけれど、物語よりもきっとはるかに豪奢で素晴らしいのだろう。

 蝶にでもなれたら、飛んでいけたかも知れない。


「はあ……」


 傷だらけの両手を光に翳して見つめてみる。

 セリーナは数日前に十九歳の誕生日を迎えた。来年はいよいよ行き遅れのレッテルを貼られる二十歳になる。


 小さい頃の夢は『大好きな人と結婚すること』。

 平凡だけれど、この小さな田舎の村でつつましくも穏やかな家庭を築くことが、何よりの幸せだと思っていた。


 セリーナの両親のように、優しい夫と仲睦まじい夫婦になることが。


 ——私は何にもなれなかった


 おそらくこの見た目の醜悪さでは、母のように夫に愛される妻になることなど叶わないだろう。



 夕方、畑仕事を終えて家に入ると、 戸口に娘の姿を見た母親が炊事の手を止めた。


「ねぇセリーナ、聞いて。宮廷からね、おふれが来たのですって。使用人の公募が今年も始まったそうよ!」


 毎年この時期になると決まって母親のイリスがソワソワし始める。

 そしてセリーナは苦悩する……どうやってこの母親の気持ちをなだめようかと。


「あなたはずっと帝都に憧れてきたでしょう? 今年こそ思い切って出願してみない?」


 ——お母さんは、毎年同じことの繰り返し。

 私なんか……『ガイム』の私なんかが、採用されるはずがないじゃない。

 せめてお母さんみたいに美しく生まれていたら、この人生だって違っていたかもしれないのに。 

 美しい両親、美貌に恵まれた弟。

 なのになぜ、私だけが……こんな。


 自分でも大嫌いな、この陰鬱で卑屈な想いにまたとらわれてしまう。全力で払拭し、母親にはいつものように精一杯の笑顔で応じた。


「あれからまた一年が経ったなんて、早いわね」


 母親に暗い顔は見せたくない、絶対に。

 心配するから。

 ただでさえ母親のイリスはセリーナの惨めな容姿を気に病み、腫物に触るように扱うのだから。


 ——笑わなければ。

 いつも笑顔でいなければ……いつも、どんな時でも。

 ほんとうの気持ちを悟られないように。


「ほら、またそうやって笑ってはぐらかす。一度でいいから真剣に考えてみて? ねっ?」


 ああ、それから……と、イリスは机の上に置かれていた封筒を手に取り、セリーナに渡した。


「さっきアベルが持って来たのよ。あなたに読んで欲しいって」


 ——アベルが?! 私に、何の用だろう。


 心の底からいぶかしんだ。

 村で一番の美丈夫からの手紙だなんて、想定外すぎて耳を疑ってしまう。


 夕食の片付けのあとすぐ部屋にこもり、恐る恐る手紙を開けてみた。

 内容が気になって、せっかくの食事がほとんど喉を通らなかった。


『セリーナ、君にずっと伝えたかったことがある。水曜日の午後三時、役場裏の薔薇庭園に来て欲しい』


 高価な白い便箋に丁寧に書かれた文字が並んでいる。

 しかしアベルは一体、どういう心づもりだろう。


 村中の若者たちから蔑まれているセリーナをわざわざ呼び出してまで伝えたいことなんて、頭の中をどうかき回しても思いあたらないのだった。



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