第一章 聖徒の座⑤

「それと調査には幾つかの条件がある」

「どんな条件ですか?」

 平賀が身を乗り出してたずねる。

「第一に、調査によってなにが判明しても、バチカンが公開を許さないかぎり、誰にも口外しないこと」

「それは奇跡調査の常識です。今までもそうしてきました」

「第二に、調査とは関係ないと思うどんなさいなことでも見逃さず、その教会の現状を逐一報告すること」

「調査とは関係ないと思うことでも? 奇跡の調査に行くのに?」

 確かに奇妙な命令である。サウロ大司教は一段声を落とした。

「ニコラスすうきようが、わざわざそんな回りくどい言い方をした意図を考えたまえ。では直接的な物言いは忌まれるからね。つまり枢機卿は、奇跡申請の内容調査だけでなく、その周辺のこともよく探るようにとのお考えだ。

 平賀は戸惑った顔で、

「なぜそんなスパイのような真似を?」

 サウロは苦い顔で、バチカンの最も俗悪な部分について言及した。

「枢機卿の狙いが何かは私にも推測が難しいね。ただ、一つ確かなのは、ニコラス枢機卿が、次の教皇庁選挙のために活発に動いているということだ」

「……サウロ大司教様は、つまり枢機卿会議の派閥争いに、この調査がなにか関係しているとお考えなんですか?」

 サウロはウンザリしたようにめ息を吐いた。

 俗な話は彼の最も嫌うところであり、ある意味、彼ほど熱狂的に信仰に忠実で、バチカン内部の派閥抗争に背をむけてきた大司教はいなかった。彼は嫌悪感をむき出しにして答えた。

「ドミニコ会のパウロ大司教が枢機卿になることが内定していると、もっぱらの噂だ」

「パウロ大司教と言えば、バチカン銀行の最高責任者の一人でしたよね」

 ロベルトが二人の会話に口を挟んだ。

「ああ、バチカンのロビイスト。宗教家というより企業家といったほうがいいやり手だよ。まったく、腐敗したドミニコ会の連中を代表する名立たる一人だ。イエズス会の優柔不断さと神秘主義にも、ベネディクト会やシトー会の頭の固さにもまいるが、まだドミニコ会の金満体質に比べればましだ。彼らがバチカンの主流になれば、この神の国ももう終わりだろうな」

 サウロは怒りの溜め息をつき、また声を落とした。

「ともかくパウロ大司教は五十年にわたりバチカン銀行に君臨してきたつわものだ。P2とのルートを開いたのも彼だという疑惑もある。枢機卿になれば、その経歴からして順当に『聖職者省』の長官になるだろう。バチカンの財産管理を行う重職だ。だからニコラス枢機卿は、パウロ大司教が評議会に入ることを大いに敬遠している。彼が教皇庁のメンバーになれば、持ち前の強引な企業家手腕で、様々な策をろうしてドミニコ会をもり立てるために、議会を腐敗させるに違いないからね。パウロの息がかかった法王が誕生することなどあってみたまえ、考えただけで寒気がする。彼が法王になるという悪夢もあり得るやも知れぬ」

 バチカン上層部の動きなど平賀やロベルトにとって雲の上のことであり、また関知できる問題でもなかったが、バチカン内でこっそりとささやかれ合う噂で、公然の秘密とされるP2について二人とも多少は聞き及んでいた。

 P2とは、バチカン銀行と提携している謎の金融組織である。その正体は、イタリアンマフィアだとか、ネオ・ファシスト的な秘密結社だとか、フリーメイソンの息がかかっているなどと噂されているが、実際はよく分からない。ただ、P2に関しては、とかく良くない噂が多かった。「バチカン銀行はP2の違法な株取引の表看板となることで、どちらも多大な利益を得ている」といったものから、「P2との関係を切りたがっていた前法王が急死したのも、パウロ大司教を排除する動きを見せて毒を盛られたのだ」という噂まで。

 ともかく資本の流れが、純粋な神の国であるはずの市国に多大な影響を与えていることは確かであり、またそれは信仰を揺るがすほど魅力的な力であるに違いなかった。

 バチカン内には、派閥を超え、常にP2との関係に対立したり、協力したりする内部抗争が存在している様子である。結局の所、神の国であるべきバチカンといえども、金と権力への欲望には惑わされるのだ。

 ロベルトは、どうやらとんでもない事態に二人が巻き込まれようとしていることを察した。

 サウロは意味深に平賀に言った。

「枢機卿がわざわざ君を指名したのは、君がまさに優秀な科学者だからだが、一番の理由は、この任務に弟さんへのばくだいな援助がかかっているからだ」

 サウロが言わんとしている事が分かった。つまり、ニコラス枢機卿が探ろうとしている何かは大変な問題で、その調査には彼の命令に反すると大きなリスクを背負うことになる者が相応ふさわしい……ということだろう。

(こいつはかなりヤバイ調査だぞ……)

 ロベルトは平賀がどう出るか待った。なにしろゲームで三百手先まで読むというのだから、この調査のきな臭さなど、彼はとうに気づいているはずだ。しかし平賀は、けろりとした顔でサウロに身もふたもない質問をした。

「結論を言うと……その、セントロザリオ教会に、パウロ大司教を教皇庁メンバーから失脚させるような何か秘密があるというのですね。そして私は奇跡調査と称しながら、実はスパイ行為をして、それを探せばいいのですね」

 しっ、とサウロは声を潜めるように合図した。

「静かに。壁に耳ありだ。ニコラス枢機卿が回りくどい指令を出すのも用心せねばならないからだよ。パウロ大司教のスパイはどこにでもいる。ドミニコ会の人間でなくてもね、イエズス会にも、我がフランシスコ会にすら、彼にのある人間がいるんだ。今もそこで誰かが立ち聞きしているかもしれん」

 平賀はうなずき、サウロの耳元で再び同じことを訊ねた。サウロは小さく声を潜めて答えた。

「そういうことだ。最近、アントニウス司祭がお亡くなりになったのは知っているね」

 平賀は十字を切り、

「ええ、バチカン銀行でもパウロ大司教に見込まれて異例の昇進をなさった方ですね。まだお若かったのに、お気の毒にのうこうそくで突然死なさったとか……」

「それは表向きの話だ。アントニウス司祭は自殺したのだよ」

「自殺!」

 平賀とロベルトの口から、思わず大声が出る。

「しっ、声が高い」

「自殺だなんて……何故?」

 カソリックでは自殺は大罪だ。死してなおその魂はれんごくつながれると言われている。そのような大罪を司祭ともあろうものが犯したとは、ロベルトにとっても平賀にとっても衝撃としかいいようがなかった。

「分からんね。ただアントニウス司祭の死に最初に気づいた者が、フランシスコ会員だったのが幸いした。首をっているアントニウス司祭の足下に、これがあったことに気づき、即座に隠したのだ……。ドミニコ会の者達に阻まれることがなくて幸いだった」

 そう言うと、サウロは身をかがめて、机の一番下のかぎつき引き出しを開き、紫色の布で包まれた物体を取り出した。

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