第一章 聖徒の座④
サウロ大司教は赤いベルベット地の椅子にゆったりと腰かけていた。彼はサンタクロースの
「平賀を連れてまいりました」
「結構、ロベルト・ニコラス神父」
「お話というのは……?」
平賀が
「うむ。他でもない君が願い出ていた弟さんに対する援助だが……事と次第に
ニコラス枢機卿はサウロ大司教と同じくフランシスコ会の人物で、『列聖省』の長官である。教皇庁でも実力者だ。その枢機卿が約束するとなれば、援助は確定的である。
「本当ですか! ああ、信じられない。やっぱりお祈りが効いたんですね」
感激にのぼせた平賀に、サウロ大司教は、まだ早いという慎重な口調で言った。
「事と次第に依っては、と言っただろう」
「なんでしょうか。ニコラス枢機卿の命令なら、どんなことでもします」
「そうかね……ならば話は早い。ニコラス枢機卿が君に望んでいるのは、ある奇跡申請の調査だ」
「そんなこと、お安い御用です。もともと私の仕事です」
余りの他愛ない要求に、思わず顔を
「君の行く手には……悪魔どもがいる」
サウロが周囲を見回しながら平賀に囁いた。
「悪魔ですか?」
平賀が繰り返した。
「一度奴らに関わったことのある人間には分かるのだ。彼らが近づいてくる気配がね」
まるで本当に悪魔が潜んでいるのを視たかのような真剣な声だ。
「それでもやるかね? 私はあえて君に勧めはしないが……」
ロベルトは、サウロの
脅かして平賀の覚悟を試しているのか、あるいは純粋に彼の直感で言っているのか分からないが、いずれにしても平賀の答えは決まっている。
平賀は、好奇心を刺激されると、じっとしていられない男だ。それも弟の命までかかっているとなれば、迷うことなく受けるだろう。ロベルトが予想した通り、平賀は元気良く即答した。
「はい、やります」
サウロは
「ともかく詳しい内容を……。まずは申請書に目を通してもらおう」
サウロが引き出しを開け、資料の入った袋を取り出し平賀に手渡す。
「申請書はラテン語だが、アメリカから送られて来ている。君は英語が出来たね」
平賀は申請書の内容に目を通しながら答えた。
「はい、会話ぐらいならば不自由しないと思います。大学はイギリスでしたから」
「まぁ、それで充分だ。他に何ヶ国語
「英語、日本語、ドイツ語、それに
「ふむ。随分と勉強したんだね」
「いえ、父は日系人で、私の庚という名は、父が祖父の名を由来に付けたんです。父は仕事でアメリカに渡って、日系アメリカ人の母と結婚し、私はミッション系のハイスクールまではアメリカで育ち、それから父の仕事の都合でまたドイツに……。両方の家族が集まると、色んな言語が飛び交っていました。たんに環境のせいです」
平賀は申告書を夢中で読みながら答えている。時折、
「で、ロベルト、何が専門だね?」
「古文書と暗号の解読です。専門は古典ラテン語、古典ギリシャ語、古アラム語、ヘブライ語、ペルシャ語、アラビア語、古フランス語、他にも雑々としたところです」
サウロ大司教は頷き、この表情豊かな僧達を不思議そうに眺めながら、どうという意味のないことを言った。
「なる程、
その途端、平賀は申請書を読み終わったらしい。やにわにサウロに質問を始めた。
「この申請書の住所は、カソリック教会からのようですが、申請依頼は教会からのものでなく一修道女からですね。内容は『大天使のお告げで神の子を処女妊娠した』と訴えている……。本人は真剣なようですが……」
平賀は不可解な表情を隠さなかった。サウロもやや困惑顔だ。
「修道女の名はアンナ・ドロレス。所属はドミニコ会。ポーランド人、年は二十四歳。バチカンの記録によると、ミッションスクールを卒業後、インドの修道院で二年奉仕した。それからアメリカに宣教師として渡り、申請書にあるセントロザリオ修道院に移ってまだ半月とたっていない。教会が経営する寄宿学校ではラテン語と神学を教えている。きわめて真面目な良き尼僧なのだが、ある日、大天使ミカエルが現れ、彼女に受胎を告知した。現実に、
ロベルトは鼻白んで、
「馬鹿げてますよ。
サウロは深く頷いた。
「同意見だね。現在の
「ええ、理解しています」
平賀が頷き、
「カソリックの定義では……キリストはたった一度だけ受肉されて下界に降臨し、人類の為にただ一度だけ死なれることによって人類の罪を永遠に
そしてキリストご自身が仰られたお言葉……。マタイの福音書十六章、『あなたはペトルス(ペテロ)である。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。わたしはあなたに天国の
すなわち教会の創立者キリストは、『使徒の頭、聖ペテロ』を自分の代理人とされることにより、自らが世を去ったのち、教会を導く権限をお与えになったわけです。その権限は聖ペテロがローマで殉教されて後、後継者である『ローマ司教』に代々受け継がれ、よって最高のローマ司教である歴代の猊下は、最後の審判の時まで、聖ペテロの後継者にしてキリストの代理人を果たされるということです。なのに、カソリックの修道女が、自分の腹にキリストが再び受肉したなどと認めれば、猊下の存在意義も、バチカンの存在意義もなくなってしまう」
そこまで平賀が機械的に論じると、サウロは不快な顔をした。
「その通りだ。その申請書は主を
サウロは吐き捨てるように言った。
「なのにカソリック教義と矛盾した申請を調査するということは、余程、調査せざるを得ない特別な事態があるということですよね」
そう言って、
「そうとも。異常なことに、この処女妊娠の奇跡を後押ししようという一派がうごきまわっているのだ。法王も心を痛めていらっしゃる」
成る程、そういうことか……、と、ロベルトも思う。
サウロは平賀をじっと見た。
「いいかい、平賀、最も気をつけねばならんのは、悪魔が巧みに神を真似て人に近づこうとする時だ。奴らは
平賀は「ええ」と頷いた。
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