第一章 聖徒の座③


    2 秘密の花園


 観光客が行き来するさざめきの中。

 二人はバチカンの中枢ともいえるサンピエトロ大聖堂の内を歩いた。

 世界中のカソリック信者が巡礼に来る聖所である。

 目もくらむような荘厳な祭壇の中心は、聖者の銅像に取り巻かれたベルニーニ作の「ペテロの玉座」だ。聖者たちの銅像に囲まれてある玉座の背後からは、黄金の浮き彫りが入道雲のようにわき上がり、天上で主を祝福する天使達が舞い飛ぶ姿が表現されていた。

 浮き彫りの最上部中心にあるステンドグラスには、聖霊を象徴する鳩が描かれ、幾筋もの金色の光を聖堂中に放射している。

 ロベルトと平賀は二人が所属する『聖徒の座』へと向かっていた。

『聖徒の座』とは、バチカン中央行政機構の『九つの聖省』の内、列福、列聖、聖遺物崇敬などを扱う『列聖省』に所属し、世界中から寄せられてくる『奇跡の申告』に対して、厳密な調査を行い、これを認めるかどうかを判断して、十八人のすうきようからなる奇跡調査委員会にレポートを提出する部署である。

 基本的にそこに勤める者は、元来、科学者や医学者、歴史家などの各専門家であるが、バチカンに勤めることによって自動的に誓いを立て、洗礼を受け、聖職者となる。もちろん、もともとの聖職者が、バチカンの奨学金を受けて大学に通い、博士号を取ってから、『聖徒の座』に配属される場合もある。ケースは様々だ。

「なんだか緊張しますね。サウロ大司教が直々だなんて、どんな申請なのか」

 サウロ大司教とは、平賀やロベルトと同じフランシスコ会に所属する、『聖徒の座』の最高責任者の一人だった。

「さて、僕は君を呼んでくるように言われただけだからね」

 ロベルトは淡々とそう言った。

 ミケランジェロがデザインしたという華麗な制服──黄色と青のたてじま模様の上下に、赤い羽根飾りのついた帽子──をまとったスイスようへいが守る裏門を抜け、オリーブの小道を歩く。

 まもなく彼らは、バチカン宮殿内にある秘密の部署についた。

 観光客や市民には知られざる、バチカンのもう一つの顔。情報巨大国家としての顔がそこにある。

『聖徒の座』……。

 身分証明書代わりの磁気カードでその扉は開かれる。

 古めかしい装飾が残された壁や古書に囲まれて、最新型のコンピューターを設置する机がずらりと二百は並ぶ室内の様子は、部外者が視ると実に異様にうつるだろう。

 古文書の翻訳をコンピューターに打ち込んでいる一群、写真を分析している一群。小型テープに耳を傾けている者、カルテやX線写真を取り囲んで議論している医学調査部の医師達、皆、なりは聖職者で、脇目もふらず自分の仕事だけに専念している。

 女性は極端に少ない。もともとバチカンは男性社会である。数百年の歴史の中で、『聖徒の座』に女性が迎えられたのは、たった四年ほど前からのことだ。

 まず、『聖徒の座』では、人の仕事にちょっかいを出したり、違う調査をしている人間に親しく話しかけたりすることは、タブーである。皆、互いに他者の存在を無視することになっている。

 上層部から下される命令は絶対で、その指示を他者に漏らすことや、上層部に異議を申し立てることは許されない。完全なピラミッド型の縦社会だ。

 バチカンでは、ドミニコ会、イエズス会、フランシスコ会の三大派閥の上層部が、れつな派閥争いを繰り広げている。派閥は他にもカルメル会、トラピスト会、サレジオ会、シトー会などの中小の派閥があるが、これらの会の関係には決して良好とはいえないものがある。よって、違う派閥のもの同士はかつな会話が出来ない。ここは、FBIやCIA並みに緊張感漂う秘密の花園だ。

 解読された古文書一つとってもそうだ。上層部が目を通して世に公開すべきではないと考えられた古書が、守衛が守る鉄格子の向こうに山と積まれていた。最近ではそのタブーの鎖も緩んできて発禁処分を解かれる本もでてきたが、秘密文書はまだまだあるのだ。

 ロベルトは、その脇を通り過ぎる時、鉄格子の向こうにある古文書の山を、まるで恋しい女性を見るような視線でめ回した。

 ロベルトは古文書の解読家なのだ。そして、平賀の耳元で小さくささやいた。

「見てくれよ、あの本達。たまらないなぁ。柔らかい光沢、美しいきんぱくの装飾、それだけでも美術品なのに、中には異教や異端とされた豊かな知識がぎっしりと詰まっているんだよ。キリストの手によって書かれた聖書とされるものから、悪魔が書いたとされる魔法書や魔界の黙示録まであるという話だ。上層部は全て『悪魔の幻術』だと決めつけて禁書にしているけど、あれを世から隔離している方が余程罪深いね。もし古書のコレクターなら、殺人を犯しても手に入れたいところだよ」

「怖いこと言わないでください」

 平賀が日本人特有の神経質な反応をした。ロベルトはかすかに笑った。日本人の奇妙な真面目さは、ジョークが人生だと思っている彼にとっては、興味深いものだった。

「本当のことさ。実際、僕はその断片でも拝みたいから此処にいるんだ。上層部は僕らに古文書の原本を三分割して、それぞれの派閥の解読者に一つずつしか資料として与えてくれない。勿論、一部だけでも解読できるのは総毛立つほど興奮するけどね。残念なことに内容の全てを知り得るのは限られたトップだけだ。できれば出世していつか自分が解読した本の断片を完全な形で拝みたいものさ」

「そんな危険思想を知られたら破門ですよ」

「分かってる。だから君にしか言わないんだよ。君なら僕の気持ちを理解できるだろう。君にとってのあの白黒ゲームが、僕にとっては古文書なんだよ」

「は……あ。そう言われると分かる気がしますね」

 平賀とロベルトは部屋を通り抜け、突き当たりの階段を昇った。

 二階にはそれぞれの派閥責任者の部屋がある。ロベルトと平賀はサウロ大司教の部屋に入った。


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