第一章 聖徒の座②

 平賀は顔を上げ、真剣な顔でロベルトを見つめた。ロベルトは彼の妙な間合いと反応に苦笑いしながら、おもむろに平賀の末の弟のことをたずねた。

「ところでどう、りようの具合は?」

 平賀はたちまち暗い顔をしてうち沈んだ。平賀は喜怒哀楽が面白いほど顔に出る。無表情で厳格な老僧の多いバチカンには珍しいタイプだ。なにしろバチカンでは笑うことすら不謹慎であるという昔の考えをもっているものも少なくはないのだ。

「……それがあんまりよくないようです」

 ロベルトが知る限り、平賀の末弟・良太はまだ十二歳。平賀とは十歳以上年の離れた弟ということになる。

 それが、数週間前、こつにくしゆという診断を下された。今のままでは長く生きて二年。最新の治療法を用いれば、完治までせずともかなり回復する可能性があると医師に告げられたという。しかし最新の治療法には、ばくだいな費用が必要だった。そんな大金をねんしゆつするあてなど、平賀にも、その家族にもない。

 平賀の瞳はみるみる涙で潤み、鼻の頭が赤くなった。彼は無造作にテーブルに置かれていたティッシュペーパーを取り、大きな音をならしてはなをかんだ。

「ロベルト、良太はたった十二歳ですよ。なんのとがもないあの可愛い良太が、なぜ死ななきゃならないんでしょう? 私は共働きで忙しかった両親の代わりに、良太が小さい時からミルクをやったり、おむつをかえたり……息子のように面倒をみてきたんです。栗毛の可愛いベビーブラザー……」

 平賀はまた大きく洟をかみ、

「私がバチカンに行く事になったときには、『いかないで』って泣いてだだをこねたんです。だけど、数日後には、貯金の全てをはたいて銀製の美しい十字架を贈ってくれました。今も、一ヶ月に一度は手紙や写真を送ってくれてます。同じ年頃の荒っぽい盛りの少年達と違って繊細な優しい子です。私は……良太が運動音痴なのは単に大人しい気質のせいだと思っていたのに、骨肉腫だったなんて。もう足が動かなくなって、車椅子で生活しているんです」

「そいつは、つらいな」

「そうでしょう? このまま、思春期を迎えることもなく、恋やこの世界の本当の素晴らしさを知ることもなく、急速にガンが全身に転移して、最後には体のあちこちを切り取られて死んでいくなんて……。そんなむごい事実を信じたくありませんよ」

「昨日、君は珍しく一日中大聖堂で祈っていたけど、良太のこと?」

 平賀はしきりにうなずき、その拍子に大きな瞳から涙が一滴こぼれた。

「ええ、なにもしないよりは少しは気休めになるでしょう。それでゲームにも『願』をかけたんです。白が勝ったら、良太の病気がよくなるって」

 ロベルトは自分の額を、パチンとたたいた。

「そうだったのか、よこやりを入れてすまなかった。それにしてもゲームで『願掛け』なんて、占いじみたやりかただね。ここ三年の間、奇跡調査に全て懐疑的な結論を出してきた君らしくもない。君はフランシスコ会にいるくせに、本当のところは奇跡を信じてはいないんだろう?」

「そんなことありません。奇跡を信じていなかったら『聖徒の座』にはいません。私は奇跡を信じているから審査が厳しくなるんです。それに厳しいのは私だけじゃありませんよ。申請された奇跡の九割は、調査委員会に行くまでの間に却下されているじゃないですか。でもね、いつか、自分にも説明のつかない奇跡を見てみたいと思うのですよ。そりゃあもう、『奇跡調査』っていう響きには、魂を揺さぶられるほど素晴らしいものがあります。いつか、未知との遭遇ができるかもしれないんですから……。ロベルト、貴方あなたには話をしたと思いますが、私の父と母はけいけんなカソリックでした。二人が出会ったのは、ホームレス救済のボランティアをしていたときだと聞いています。父はいつもおしみなく教会に寄付し、それで何人かの人は助かったのかもしれません。しかし肝心の母が乳ガンになったときはその手術費用にまで事欠き、あたら死なせてしまいました。そして次が良太です。これが神のおぼし召しだというなら、私は神を呪いたい。何故、あなたに忠実なしもべをむち打つのか? と。だけど出来ないんです。神に信仰を試され、全てを奪われたヨブのように、私の中の何かが、神を求め、神を信じよと言うのです」

 と、言ったが、すぐに声のトーンを落として言葉を継いだ。

「……ですが、実際に今まで手がけた奇跡は、すぐに奇跡のネタが解明できるような陳腐なものばかりで……まだ本当の奇跡をこの目で見ていないのが残念です……」

 ロベルトは肩をすくめた。

「君の気持ちはよく分かるよ。なんでも安易に認めて奇跡を安っぽくするわけにはいかないがね、調査官に席を連ねて以来、いまだに一件も奇跡を認めていないのは君一人だけさ。皆、君を頑固者だと思ってる。そして、ルルドの泉に弟さんを連れていくより、バチカンに治療費の支援を願い出るのも君らしい措置だ」

 平賀は顔を赤らめた。

「無謀なことは承知してます。莫大な治療費をバチカンに期待するなんて、厚かましいでしょうね。そんなことを認めれば、世界中の難病人がバチカンに押し掛けてきて援助を願うでしょうし。期待しているわけじゃないんです。ただ自分に出来るだけのことをしようと思っただけで……。でもね、サンピエトロ大聖堂に飾られている小さな彫像でもいい。例えば天井にある小さな聖画一つでも売ったら、良太の治療代の何倍にもなると思うと……。そんなことをふと思う私は不謹慎ですか?」

 平賀はおずおずと上目遣いに問いかけた。ロベルトは首を振った。

「僕は君を責めても、いやしんでもいないから大丈夫だよ。確かに気まぐれな神の奇跡を期待するより、この世の中ではお金の方が役に立つことが多い。その点については僕は賛成さ。何か僕に出来ることがあったら言ってくれ。スコット大学の友人で、腕のいい医師がいる。君が望むなら、難病の専門家を紹介してもらうこともできる」

「有り難うございます。その時は是非お願いします」

 平賀は長く息を吐いた。平静を取り戻したようだ。ロベルトは力強く平賀の肩を叩いた。そして今しがた自分の描いた丸を指さした。

「でもどうしてここに打ったら、黒の勝ちって分かるんだね?」

 平賀はムスッとした顔になった。

「どうしてって、考えれば分かるじゃありませんか」

「だって、まだ升目は三分の一しか埋まってないじゃないか。それで勝負が見えたっていうのかい」

「もう三分の一です、残り五百六十三手しかないんですよ。そこにだけは絶対打ったら駄目だったんです。二百十五手で黒の勝ちになります」

 平賀の答えに、ロベルトはまゆひそめた。

「平賀、参考の為に教えてもらえるかな。君はいつもこのゲームをする時、一体何手先まで読んでるの?」

 平賀はおっくうそうに首を回しながら、

「よくて三百、調子が悪いと二百台ですね」

 三百手先だって! と、ロベルトは目をいた。

「どうしてこんな単調なゲームにそうまで熱心になれるかなぁ」

「単調じゃありませんよ。単純な決まりしかないからこそ、無限の可能性が盤の上に展開するんじゃありませんか」

 強く主張した平賀にロベルトは頭をいた。

「それはそうだけど、それだけの思考力を費やすなら、もっと建設的なことができるだろう。君みたいなタイプは科学博士のコースから脱線せずに、そのまま研究者になったほうが良かったんじゃないかい? 大学では天才とたたえられて、将来を嘱望されてたんだろう」

 平賀はつまらなさそうに首を振った。

「化学式を扱うのは単純、単調な作業なんですよ。化学式に比べたらこの白黒の世界のほうがずっとエキサイティングです。知ってますか? チェスや将棋はコンピューターがワールドチャンピオンに勝ってしまうのに、囲碁だけは人間のほうが勝つんですよ。それだけ奥が深くて複雑なんです。中国では碁盤の目に打たれた石の様々な配列が、森羅万象の事象に対応していると考えられたりもしたんです。私が思うに……、これは宇宙の秘密に近づくキーですね」

 平賀は升目に並んだ白黒模様を見て、うつとりと言った。

「それで宇宙の秘密に近づくだって? 悪い意味で言うんじゃないけど、君は魔術師か、もしくは天王星かめいおう星あたりから来た宇宙人みたいだ……。確かに、研究所にいないなら、俗世にいるよりはにいるほうが似合ってはいるね……」

 平賀は複雑な顔で、

「そうなんですよね。でも今は良太のためにドクターコースをとったほうがよかったかなと思ってます」

 と答えた。

「君なら可能だろうね。でも、こんな時になんだけど、奇跡調査の仕事がまた舞い込んだようだよ。サウロ大司教が君を呼んでいるんだ」

「あっ、それでロベルトが此処にいるんですか。……だけど、サウロ大司教様が直々に私を呼ばれていらっしゃるのですか?」

「そうだよ。珍しいことだろう。だから期待してもいいかもしれないね。今度は陳腐な奇跡じゃないってね」

 それを聞くと、平賀は頰を紅潮させ、ひとみをきらきらと輝かせた。そして壁のフックにかけてあったマントをはおり、さっそく家を出る用意を始めた。

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