第一章 聖徒の座⑦

 二人は驚き、目を皿のようにしてそれを見ていたが、サウロはすぐにその写真を引っ込めて咳払いした。

「四十二年前に信者によって撮られた写真らしい。写真の真偽のほどはわからんがね。それと、セントロザリオに同じように奇跡調査に入った調査官がいたが、そこで壁に浮き出た聖母子像を調査した後、病に冒され、自分が奇跡を踏みにじったのが原因だと悔いて亡くなったともいう」

 サウロがへきえきしながら答えた。

『上層部の機密』とは、『質問は一切、受け付けられない』ことを意味している。

「調査官が亡くなったなんて……本当ですか?」

 ロベルトが硬い表情で聞き返した。

「さて、末端のことまではよく分からないがね」

 サウロはにべもなく答えた。

 ロベルトは戸惑っていた。しかし平賀は易々と答えた。

「分かりました。それで弟の援助が約束されるなら、やります。あっ、ではまず、この銅板と契約書の完全な模造品を造って下さい。それが出来たら調査を開始します」

「枢機卿はお喜びになるだろう。ロベルト、君は平賀とともに調査をしてくれたまえ。そうしてよく、平賀を補佐してくれたまえ」

 そう言うと、サウロは、突然、うめき、ゆがんだ顔で左上腕部をでた。

 サウロが悪魔に戦いを挑んだ時、腕に深い傷を負ったのは、バチカン内では有名な話だ。サウロは、現在においては希少な悪魔祓いエクソシズムを体験した、英雄的大司教でもあるのだ。

「平賀……。バチカン内の抗争以前に、この展開には、もっと邪悪な獣達の意図が働いている予感がする。腕の傷がこの話をするとびりびりと痛むのがその証拠だ。この傷は奴らの存在を感知して教えてくれる。平賀、もしいざという時が来たなら、悪魔の手練手管に立ち向かう知恵と勇気はあるかな?」

 サウロは古代の志士のような迫力で平賀にたずねた。

『悪魔』に対しては、サウロの心中に、経験から得た狂的なひようちやくがあるに違いない。平賀を凝視しているチャコールグレーの二つの眼に激情が渦巻き、彼の頭髪はにわかに逆立った。日頃の冷静さとか調和の仮面を打ち破って、別人のサウロが現れていた。

 それこそは『悪魔祓い師エクソシスト』、サウロの姿なのだろう。

 平賀は、ごくりとつばみ、サウロに訊ねた。

「サウロ大司教様は、エクソシズムの経験が誰よりも豊富なのでしょう?」

 サウロのこめかみがヒクヒクと動き、顔の筋肉が硬く引き締まった。

「若い頃に三度ある。とても科学では説明のつかない恐怖の経験をした。奴らは、いつでもえるのように、誰かを食い尽くそうと、その辺りを彷徨さまよっている」

「ええ、ペテロの手紙でも、そう言ってますよね」

 平賀のとした声の響きに、サウロはけんしわを寄せた。

「平賀。私は冗談で言ってるんじゃない。君は悪魔に対して認識が足らんようだ。奴らは本当に罪に満ちた汚い場所にはいない。初めからけがれている……そんなところに奴らは興味はないのだよ。むしろ奴らは、神聖な場所に好んで現れる。清らかなものを汚し、人の信仰を揺るがすのが狙いだ。神が我らを時に試すようにして、悪魔もまた我らを試す。もちろん、この『神の国』にだって奴らは潜んでいる。サンピエトロ大聖堂にだってね。私の知る限りでは……うようよとね。いいか、平賀。この世に真に聖別された場所など存在しない。何処にいけども、善と悪のすさまじい戦いの場があるだけだ。それも非常に複雑に入り組んだ構造をした……」

 平賀は真剣にあいづちを打ちながら、

「ええ、よく分かります」

「本当に分かっているのかな……?」

 サウロは意味ありげな眼で二人を見ると、今度は打って変わって明るい声で言った。ハッキリと聞こえる声で。どこかで耳をそばだてている者に、言い聞かせるかのごとく。

「平賀、君もエクソシズムの手順ぐらいは知っておいたほうがいい。奇跡調査などをしていると、いつ悪魔どもに会うか分からんからね」

「分かりました。その前に司教様がどんな体験をなさったか、お訊ねしてもいいでしょうか?」

 サウロ大司教は非常に複雑な顔をした。

「先月申請されていた聖痕現象ステイグマータを、単なる自己暗示だと断定した君に、私の話が素直に信じられるかな?」

「あっ、あれは仕方ありません。申請書では『金曜日になるとかならず聖痕現象が起こる』とありましたが、催眠術の専門家に、受難者に『今日は金曜日だ』と暗示をかけてもらったら、日曜日にもかかわらず聖痕現象が現れたんです。どう考えても自己暗示です。私も残念でした。せっかく奇跡が見られると思ったのに……。ですが、大司教様の悪魔の話はとても興味深いです。悪魔がいるなら、主も存在されるわけですし、せめてどちらかと死ぬ前に一度お会いしたいですから。私の一生の悲願です」

 平賀はしんな気持ちで言っているのだ。ロベルトにはそのことが分かるが、サウロには平賀が面白半分に訊ねているか、主の存在を疑問視しているように聞こえたらしい。長い息を吐いた。

「今のは問題発言だ。君は確かに優秀な科学者で、その腕を買って我々『聖徒の座』も君を迎え入れた。しかしバチカンに入った限り、君はカソリックの修道士でもある。神をわずかでも疑うなら、その修道服を着ている意味はない。科学者として客観的であることとけいけんなカソリックであることを矛盾なく受け入れるんだ。でなければこうかつに人の心の隙につけこむ悪魔には対抗できない。揺るぎ無い信仰だけがその隙間を埋めることができる。信仰とは悪との戦いに他ならない」

「はい、本当にそうですよね。信仰は大切です」

 平賀がまた真顔で素っとぼけた返事をした。ロベルトは頭痛を感じた。

 平賀はどこまでも悪気なくマイペースなだけだ。だがその優れた頭脳のどこか一本、二本は、確実にネジが抜け落ちているに違いない。

 サウロは一瞬、狐につままれたような顔をしたが、すぐに強い口調で論じた。

「確信して言うがね、『おごり』をそそのかすルシファー、『強欲』を唆すアモン、『劣悪な色情』を唆すアスモデウス、『暴食』に人をかりたてるベルゼブブ、他にもレビアタン、ベルフェゴール、こうした大悪魔やそのけんぞくは実際にいる。気を確かに持っていなければ、奴らは巧みに人に忍び寄る。ときに神の、ときに人間の、そしてときに動物の姿をかりて……。そして隙のある者を見つけ、憑依するんだ」

 サウロのひとみに、稲妻のような光がみなぎった。悪魔との死闘を何度もかいくぐってきた者だけがもつ強く鋭い眼光だ。彼が、生死をかいくぐる体験をしてきたことは確からしい。

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