プロローグ 天使と悪魔のゲーム②


    2 主の鉄槌


 バチカンの熱狂がピークに達しようとしていた頃。

 メキシコ中西部の街、ドゥランゴにある丘の上で、一人の忠実なる使徒が、夜のとばりに包まれた風景を見回していた。

 森厳たる聖堂の鐘の音が響きわたっていた。

 いつもより心持ち大きく見える月が、暗闇の中でギラギラと光っている。

 占星術では、月が支配宮のかに座の中にあり、その力を最高に発揮して、人々の霊感が研ぎ澄まされる日だ。青くてついた星々の輝きが、彼の意識を天高くまで導いた。

 彼は聖所から飛び出し、まるで一匹の飢えた狼のように荒涼とした丘の上を彷徨さまよっていた。そして開けた場所までやってくると、彼は声を振り絞ってえた。その声が辺りにこだまする。

 四方は林だ。だが、ここの丘には常緑樹が一本も生えていない。冬になると、枯れ木ばかりの不毛な大地になる。その枯れた林の向こう側には無縁仏を埋めた墓地が広がっている。それは北側に面した斜面のところにあって、夜になると冷たい北風が、びょうびょうと吹き上がってくるのであった。その風音はともすると、怪物の鳴き声のように聞こえた。

 彼はふらふらと林を抜け、墓地に立った。墓石と十字架の間を、悲鳴のような風の音が吹きすさぶ場所。

 世界の、人々の心の、向こうへと追いやられた者達が眠るところだ。


「これが君たちの主で、君達は主の栄光を担う子供である。とりわけお前は、この崇高なる信仰の具現者となる運命なのだ」


 使徒は幼い頃から暗示のように繰り返された言葉、耳にこびりついた言葉を思い出していた。

 しかし今や聖所は背徳と汚物にまみれ、かつての輝きを失っている。形ばかりに執着し、過去にはあったはずの「至高への意思」を忘れてしまったのだ。何もかもが不毛である。そう、何もかもが……。

 彼は信仰深き顔の中にある背徳の臭いにもウンザリしていたし、そのことで主が怒っていることも充分感じていた。

 彼は星を見上げて涙をこぼした。なさけなく女のように泣いているうちに、心はまるでくうとなる。

 彼は「至高への意思」を忘れてしまった者が辿たどりゆく運命をしておびえていた。

 強い予感がした。ずっと恐れてきたことが、今宵現実となるだろう。そう、ついに、時がやってきたのだ……。

 体が小さくけいれんし始めた。

 全身の血が泡立ち、並ならぬ霊気が使徒をからめ取っていくのを感じる。

 その恐怖に今にも逃げだしそうになるが、主のお呼びコールは激しかった。

 決して、使徒を逃がそうとはしなかった。

 長い時に感じられた。体の自由を失った分、五感が研ぎ澄まされ、意識がえとしてくる。

 聖霊のささやきが漂っている。

 使徒の耳はかすかな足音に反応した。

 何ものかの足音が、長い回廊を進み、聖所から出、木立の織りなす深い闇間を通り抜けて、地面に降り積もった落ち葉を踏みしめ、自分の背後に近づいてくる。その足音が彼の側にぴったりとくっついたとき、月光の淡い光が流れ落ちてきて、彼の後ろに立ったものの影を浮かび上がらせた。

 双頭の影……。

 彼はその影を見てむちに打たれた。のどがカラカラに渇き、この寒さだというのに、額から冷たい汗が流れてくる。身体が硬直した。

 やはり……。

 使徒の額から脂汗が滴り落ちた。

 聖所にまつられた主が、二十世紀最後のクリスマスに深い眠りから覚められたのだ。

 主の足音は、自信に満ち、かつ怒りに燃えていた。

 そして使徒の背後でぴたりと止まったのだ。

 使徒は振り向くことが出来なかった。

 主のせいが浴びせられた。

『何を無様に震えている!』

 使徒は唇をわななかせた。すっかり喉が渇ききり、声が出ない。

『皆が私の名を忘れて久しい。お前はどうだ? 私の名を言ってみろ!』

「あ……貴方あなたは全知全能、唯一の方、我らの救世主です」

 使徒はしわがれた声で、なんとか答えた。

『そうだ。お前達は、いつも何と祈っている』

 使徒はてのひらを合わせ、何十万回となく唱えたとう文を読み上げた。

「われらはあなたを魂の底から信じて疑わない。

 その信頼を、誰が奪うことができようか。

 あなたこそ、ただあなたこそ、

 我らが未来、我らに栄光をもたらす方」

『いいだろう。私は唯一無二の存在、私の代わりはこの世に存在しない』

「はい……その通りです」

『だがお前達は、私が眠っている間に許されざる背信行為をした。もはや彼らは誰一人として私の子には値しない。彼らは堕落した。神の偶像を造ることは許されないのだ。よって私は彼らに天罰を下すだろう』

「おお、主よ、どうかお怒りをお鎮め下さい。彼らは過ちをおかしていることに気づいていないだけなのです。我らは間違いなく主のしもべ。主を求めるものです」

『…………』

 主は答えなかった。使徒は耐え難い畏怖に、体も意思もしてくるのを感じた。

「主よ、どうかお答え下さい。我らに今一度、信仰に立ち返る機会を……」

 主は答えられた。

『私はお前たちに機会を与えるだろう。私は印を見せよう。お前達の内で真なる信仰を持つ者がいたならば、それに気づき、愚行を止めるだろう。しかし誰も気づかないようならば、この聖所を焼きつくし、全てを灰に帰そう』

「分かりました。私は皆が気づくことを祈ります」

『ならば、お前は沈黙を守らねばならない。印はその者が気づかなければ意味がないからだ』

「分かりました、お約束します。貴方との約束を、誰がたがえることなど出来ましょう」

 主の気配が突如消えると同時に、使徒の意識も薄らいでいった。

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