バチカン奇跡調査官

藤木稟

黒の学院

プロローグ 天使と悪魔のゲーム①

 一息、一息を吸うのにこんしんの力を振り絞らねばならない。

 空気が鉛のように重かった。

 私の体は、確実に死へと向かっている。

 これも聖なる母子をぼうとくした報いであろう。

 我々、人間は、神のあわれみなくしては、息を吸うことさえままならぬのだ。

 私は今、神が初めて人であるアダムを創られた時、

 その鼻に息を吹き込みたもうたことを思い起こしている。

 私は、その息を奪われて死ぬのであろう。

 信仰あつき者は、セントロザリオには近づくな。

 そこには神の怒りの息吹が吹き荒れている。

 ゆめゆめそのことを忘れることなかれ。


                      グレゴリオ・カミュ


――


プロローグ 天使と悪魔のゲーム



   1 主の支えによりて我は目覚める


 聖年のクリスマスイブ、十二月二十四日、晴天。

 いつもと違うバチカンの朝が明ける。

 おとぎばなしに出てくる白亜の城、その何十倍ものスケールを持ったいかめしいほどの建物がバチカンの中心となるサンピエトロ大聖堂である。その巨大な建築物には六万人という人々が収容出来るのだというから、これはもう一個のようさいというしかない。そうしてには聖人、殉教者、天使の像など百六十ものせいな彫像が世界中の神の愛に飢えた人々を出迎えるようにして飾られている。

 大理石の石柱がいくつもならぶ神殿のファサードの前はサンピエトロ広場となっているが、それもまた神殿に負けぬほどの規模を誇っている。御影石の石畳がひろがる広場は、実に広大で、えん形をしており、古代ローマのコロシアムを想像させる。

 この広場はバチカン市民にとっての憩いの場であり、いつもは、天まで抜けるような青い空の下で観光客の声とともに鳩の鳴き声が聞こえている穏やかな空間であり、老若男女があいさつを交わしながら行き交ったり、広場の石柱にもたれた若者達が、思い思いの絵を描いたり、本を読んだりしている。

 だが、そんなサンピエトロ広場が、その日ばかりは、世界中から集まったカソリック信者や修道士、修道女達、およそ六十万人で埋め尽くされていた。朝から熱狂的な興奮が広場に渦巻いている。

 神父ロベルト・ニコラスは、朝早くから、この日の為に用意していた新品の礼服に着替え、家を出た。通りすがる同僚や上司達にささやくように挨拶しながら彼が目指したのは、バチカンで勤める日本人神父、ひら・ヨゼフ・こうの家であった。彼の家は、サンピエトロ大聖堂の近くにある小さな平屋建ての白い家だ。しかし一見すると、とても人が住んでいる様ではない。通路ほどの狭い庭には雑草が生い茂っているし、郵便ポストは傾いてさびている。その上、窓のカーテンは常に閉じられていた。

 呼び鈴を何度も鳴らしたが応答がない。そこでロベルトはドアノブを回した。かぎがかかっていない。これは平賀がいる証拠だ。いない時は鍵がかかっているのだ。ロベルトはドアを開け、奥に向かって大声で平賀の名を呼んだ。すると、中から何かを倒したような大きな音が響いてきて、ばたばたと走る足音がした。そしてしわだらけのパジャマ姿の、寝ぼけ眼で、髪の毛もくしゃくしゃのままの平賀が、手に服の束をもって現れた。平賀の肩越しに家の中をのぞいてみると、沢山のメモ書きが床一面に散らばっていて、洋服だんを片っ端から開けて中を物色したこんせきがある。大きな天球儀が床に倒れているところを見ると、さきほどの大仰な音は、それを机から床に落とした音だったのかもしれない。ともかく、平賀も平賀の家の中も、パニックを起こしていることをありありと物語っていた。

 部屋のあちこちを眺めてみると、この部屋にはやたらと無駄なものが多い。部屋の半分はそんなガラクタで埋まっていると言って良いだろう。万華鏡や望遠鏡、中世の騎士のよろい、その他、何に使うのか分からない小道具や、ドリームキャッチャーなどという異教的品物まである。

 何はともかくとして他のことは平賀は日常的なことに興味を示さない男である、というか非常に疎かった。

 やはりな……。と、ロベルトは内心吹き出しそうであった。

「まだ何も用意が出来ていないようだね」

 ロベルトが言うと、平賀は多少どもり気味に、

「さっ、さっきから去年のクリスマスの時に着た礼服を探してたんです。たしかに簞笥の奥にしまい込んでいたはずなのに、みつからないんですよ」

 平賀は礼服探しにやっきになっている様子だ。

「君に探し物は似合わない。それより、もくよくをして、髪を整えたらどうだい? 服のほうは僕が探しておいてやるよ」

「そうですか、じゃあお願いします。いつもありがとう、ロベルト・ニコラス神父」

「なんのなんの、慣れっこだよ」

 平賀はくるりと向きをかえるとまたばたばたと足音をたててバスルームの中に入っていった。しばらくするとシャワーの音。そしてドライヤーの音が聞こえてくる。身なりを整え始めたようだ。ロベルトは勝手しったる他人の家で、二つある簞笥の中から、あっというまに礼服を見つけだしていた。

「なんでこんなのが、見つけられないんだか……。それにしてもくしゃくしゃじゃないか」

 ロベルトは仕方なく洋服簞笥の横にある簡易なアイロン台で、礼服の皺を伸ばしていった。

「ありましたか?」

 平賀がバスルームから半裸で現れた。その体は実にほっそりとしてきやしやである。日本人としては色白で、肌はぞう色に輝いている。黒く真っ直ぐな髪はエキゾチックだ。アーモンド形の大きなひとみは、長いまつげで覆われていて、鼻筋は高く細い。唇は意外にセクシーで肉感的だ。そのまま女にしてもいいくらいの容姿である。だが、意志の強そうな真っ直ぐで濃いまゆが、そのことを拒んでいるかのようだった。

「あったさ。今、アイロンをかけている」

 ロベルトがそう言うと、「自分でやりますから」と、平賀がアイロンを取り上げた。そうして危なっかしい手つきで、アイロンをかけ始めた。ロベルトは近くの椅子に腰を下ろし、彼の愛するこの日本人の青年神父の後ろ姿を眺めていた。一時間近くかけてアイロンはようやく仕上がった。平賀が興奮気味に礼服を着ながら言った。

「今夜、いよいよですね。私にとっては初めての聖年のクリスマスです。緊張します。しかも大聖年ですし」

 ロベルトは、鏡を見て硬くなっている様子の平賀に歩み寄り、その肩をたたいた。

「緊張せずとも大丈夫だよ。大聖年のクリスマスといったって、僕らが特別なことをするわけじゃないんだから。といっても、やることはいろいろと多い。さっさと聖堂のほうへ急ごう」

 聖年とは二十五年に一度、罪のあがないを神のまえで行う年である。

 とくにキリスト生誕の二千年目にもあたり、聖年でもあるこの年には大きな意味があった。何故なら、キリストは自らを門であるとし、その門を通らなければ神と出会うことができないと示した。その門を「聖なる扉」というのだ。そしてキリスト教では西暦二〇〇〇年を新たなる三〇〇〇年紀を迎える年として「大聖年」と位置づけていたからである。

 平賀がうなずくと、ロベルトは平賀の肩に腕を回し、軽くウインクして歩き出した。

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