第90話 遠謀

 リーという女から聞いた、メイユィのいるという広い部屋に入ると、まだそこには人民軍の将校一人と兵士が二人、部屋の中で立ったままベッドの方を見ていた。

 巨大な幅広のベッドの上にはメイユィが仰向けに横たえられており、その脇にはジェシカが跪き、心配そうに彼女の顔を覗き込んでいる。

 傷が痛むのか、メイユィの眉間には深い皺が刻まれている。寝かせただけで何もしていないのか。

『ちょっと、そこの少佐。暇なら痛み止めを買ってきてください。強めの鎮痛剤を、買えるだけ。軍人なら規制も無いでしょう』

 央華語でそう呼びかけると、面食らった軍人は何故自分が、という顔をした。

『ワン大人ターレンは帰られましたよ。別に彼女に見張りは必要ありません。英雄が痛がっているんです。さあ、早く』

『何!?副主席が来られていたのか?』

 面倒くさい男だ。軍人ならば素直に言うことを聞け。

『そうですよ。彼はこちらの言うことを聞いてやるようにと言伝を残していきました。これは彼の命令と同じです』

 嘘だが問題はない。彼がこれからやる事を考えるのであれば、メイユィの為に将校を使う程度は、当然のように認めてくれるだろう。

『そ、そうか、わかった。おい!お前たちはもういいぞ!後は俺がやっておく!』

 彼がそう言って急き立てると、兵士たちは何故か渋々と外へ出ていく。少佐もその後ろをついて、薬を買いに出て行った。

「何か変な反応ですね。ジェシカ、彼らは何故ここに?」

「知りません。何もせずに、ずっとそこに突っ立っていました」

 不可解だが、使いとしては便利だ。別に表のリーという女を使っても良いのだが、彼女には他にもやってもらいたい事や聞きたい事がある。

 再生の過程で熱が出ているのか、メイユィは痛み以外にもうっすらと額に汗をかいている。あまり脳に熱が籠もってはいけないので、冷やしてやろうと思って洗面所を探した。

 入って右手奥にそれらしき扉があったので開けてみると、果たして中には洗面所と脱衣所があった。奥の扉は浴室だろう。

 棚からタオルを一枚拝借して、洗面所で水を含ませて絞る。

 それにしても妙に広い脱衣所だ。メイユィの寝ていたベッドも、どう見ても一人用ではないし、どういう部屋なのだろうか。

 少し気になって、浴室の扉を開けてひょいと中を覗き込む。そして絶句した。

「これ……ここってつまり、そういう施設なんですか」

 呆れた。何て所にあの可憐な少女を宿泊させているのだ。これもマオの差金だろうか。

 複雑な気持ちを抱えたまま、床に落ちていた洗面器に水を入れて二人の所に戻ってくる。

「どうしました?ミサキ。変な顔をしています」

「ええ、いえ。後で話します。ジェシカ、身体を拭くので、メイユィの服を脱がしてください」

「わかりました。でも、これでは」

 無理に脱がすと傷が痛むだろう。本当は痛み止めが手に入ってからするつもりだったのだが。

「前と、首元だけで構いません。剥がすだけなら大丈夫でしょう」

「そうですか、わかりました。メイユィ、ちょっと脱がしますよ」

 ジェシカが腋あたりについているボタンを外しにかかる。布を合わせる形になっていたドレスは比較的簡単に前がはだけられ、慎ましやかな彼女の胸元が露わになる。

「あれ?メイユィ、胸が成長したかと思ったら、これ、詰め物が入っていました」

「ジェシカ、それはどうでもいいです。まずは拭いてあげましょう」

「あっ、はい、そうですね」

 汗の滲んだ彼女の肌を、濡らしたタオルで拭き取っていく。メイユィも意識はあるのか、少しだけ身体の力を抜いて穏やかな表情になった。

「メイユィ、今、痛み止めを買ってきてもらっていますから。もう少しの辛抱ですからね」

 そう呼びかけると、彼女は小さく頷いた。この怪我で意識があるというのは地獄の苦しみだろう。大の大人でも痛い痛いと呻き続けるレベルではないだろうか。

 子供の頃、原因不明の高熱で総合病院に運び込まれた事があった。

 救急患者が一時的に置かれる病室でうなされていると、別の救急車で大人の男性が隣のベッドに運ばれてきた。

 どうやら工作機械に挟まれて腕を失ったらしく、肘あたりまで短くなった左腕を包帯に包まれて、彼はずっとうんうんと唸っていた。

 途中、麻酔が切れる度に彼は痛い痛いと呻き出し、当直の看護師を呼び出すのだが、どうやら一度に処方できる麻酔の量が決まっているらしく、結局プラセボ薬と思われるものをもらっただけで、彼はずっと朝までうなり続けていた。

 腕だけでもそうなのだ。足までこんな風になってしまって……改めて命令を下したマオと恐竜どもに怒りが湧いてくるが、今ここで怒った所でどうしようもない。落ち着いて痛み止めが届くのを待つしかないだろう。

 メイユィの身体を拭き終わり、額に絞ったタオルを乗せる。それから僅かばかり間をおいて、部屋の扉がノックされた。

 半分扉をあけると、先程の少佐が紙袋を持って立っていた。彼はこちらに紙袋を押し付けると、そのまま薬の説明を始める。

『鎮痛剤と、消毒薬に包帯、抗生薬が入っている。抗生薬は一日二回、鎮痛剤は一回二錠で、再使用は5時間以上あける事、だ、そうだ』

『そうですか、ありがとうございます。ここはもう良いので、少佐も戻って大丈夫ですよ』

 そう言ったのだが、何故か彼は戸惑ったように視線を泳がせている。そわそわとして、手持ち無沙汰なのか手のひらを組み合わせて指を動かしている。

『その、ジュエ、さんの、具合はどうなのだろうか。駆逐者は大怪我も再生してしまうと聞いてはいるのだが、その、大変辛そうなので、気になって』

 意表を突かれて思わず思考が停止した。何だ、この態度。先程までとは別人ではないか。

 しかし、これは説明しておいたほうが良いだろう。無敵の存在と勘違いされたままでは困るのだ。

『駆逐者は確かに頑丈ですし、失った組織も時間をかければ再生します。ですが、痛みは皆さんと同じ様にありますし、大量出血したり、頭を潰されたり、首を切られたり、まぁ、通常の人間が即死するような怪我をすれば当然、死にます。メイユィのあの状態だと、完全に元の状態に戻るには、一週間は必要じゃないかと』

 実際にはここまで大きな怪我をした事は今までに無かった。ただ、駆逐者の生体細胞の研究自体は進んでいて、メカニズムはまだ正確にはわかっていないが、どうやら失われた器官も元通りに再生するらしい。これはマツバラから聞いた。

『そうなのか……聞いていた話と違っていたから、驚いて。先程はすまなかった。命令なので、ああするしか無く』

 なるほど、彼も言われたまま、聞いた話をそのまま信じていただけだというのだ。

『大丈夫ですよ。私達が皆さんとそう変わらないという事は、他の方にも教えてあげてください。お薬、ありがとうございました。かかった費用はヒノモトの防衛省に請求してかまいませんので』

 そう言うと、彼は一つ頭を下げて、ジュエさんに謝っておいてくれと言って去っていった。

 誰も彼も悪人というわけではない。それぞれの立場と、知識の差による勘違いが分断を生んでいるだけなのだ。少なくとも先程の少佐からは、ある程度正しい情報が伝わることになるだろう。

「どうしたのですか?ミサキ」

「いえ、一人、誤解が解けました。メイユィ、痛み止めです」

 洗面所からコップに水を汲んで来て、彼女に抗生物質と一緒に飲ませた。胃には何も入っていないし駆逐者は抗菌力も高いが、ある程度の助けにはなるだろう。

 少佐は気を利かせて包帯を買ってきてくれたが、どういうわけか血は止まっているので圧迫する必要は無い。傷口に巻くと逆に治りが遅くなるので、これは身体を固定する為に後で使わせてもらうとしよう。

 暫くすると痛み止めが効いてきたのか、メイユィは穏やかな寝息を立て始めた。眠っていると治癒力が高まるそうなので、ひとまずは安心だろう。

 ただ、駆逐者は薬剤耐性の獲得も早い。故に、痛み止めは数回使うと効きが悪くなってくる。それまでにどうにか再生が進んでくれるのを願うしかない。

 ジェシカをその場に置いて、再び外に出た。入口に戻ってくると、カウンターの裏に座っていたリーとかいう女がこちらに気がついて立ち上がった。

『ああ、座っていてもらって結構です。少しお話がしたいものですから。私も座っても?』

 彼女は頷いて、震える手で横にあった椅子をこちらに押し出した。随分怖がられているようだが、首をへし折るぞと脅したのだから仕方のない事か。

『先程は脅してすみませんでした。ああでもしないと呼んでくれないだろうと思ったもので。リーさん、と仰いましたよね』

 頷いた彼女にこちらも頷き返す。不可解なことが幾つかある。それは多分ワンの策によって齎されたものなのだろうが、恐らく彼女ならば知っているだろうと思ったのだ。

『いくらマオ主席が駆逐者の詳しい事を知らなかろうが、Sクラス15体規模の災害に単独派遣の命令を出すというのは異常です。何があったのですか?』

 彼女は言い淀んだ。言うべきかどうか躊躇しているようにしか見えない。

『教えて下さい。別に誰かに漏らしたりはしませんから』

 促すと、渋々ではあるが彼女は、新しく国家主席となる人間、ワンが撒いた種の事を語り始めた。



 退屈だった。

 支度をする間もなく央華に連れ戻されたので、娯楽に使えるようなものを何一つ持ってくる事ができなかった。

 せめて携帯ゲーム機だけでも持ってくれば良かったと思って、持っているスマホを眺める。

 このスマートホストには、ジェシカ達と撮った写真や、クマガイから貰ったデータなんかが収められている。

 他にもオフラインで使えるアプリなんかは入れてはあるものの、基本的にSIMカードを入れていないので情報端末として使うことは殆どできない。

 近くに無料の無線回線があれば別だが、どうやらそれもここには置いていないようだ。

 通話は一応、ハルナから貰った携帯電話の方ですることができる。中にはジェシカの携帯の番号だけが登録されていて、ミサキやハルナ、ヒトミの番号は入っていない。情報保持のために遠慮してくれとハルナに言われているのだ。

 どっちにしても、この部屋は盗聴されているような気がする。衛星回線を使ったとしても、迂闊に変なことを口走ることはできない。ミサキ達に迷惑がかかってしまう。

 それでも、何度かジェシカの番号に国際電話をかけてみた。決まって『電波の届かない所におられるか、電源が切られています』と女性の音声で流れるだけだった。仕方がない。ジェシカのいる場所は地下で、駐屯地の回線を使わないと通信ができないのだから。

 テレビを点けてみても、チャンネルが制限されているのか国営放送しか流れていない。

 一応ニュースの他にドラマやバラエティなどもやっているようだが、あまり好みに合わなかったので、すぐに見るのをやめてしまった。

 多少かさばってもゲーム機を持ってくれば良かったかと思ったが、そもそも電源の規格が違うので、あちらのACアダプタが使えない。変換器を買えば多分大丈夫なのだろうが、基本的に外出が許されていない。

 外に買い物に生きたいのだがとリーに言ってみたものの、必要なものはこちらで買ってきますのでとやんわりとお断りされてしまった。まぁ、元々ヒノモトでもあまり外出する事はなかったのでそこは問題ない。

 ただ、シュウトやハルナにお願いして買ってきてもらったように、気軽に嗜好品や娯楽品を頼めるような雰囲気ではない。

 あのリー・シンユェという女性は、どうにもこちらと距離があるような気がしてならない。別に怖がられているだとか嫌われているといった感じではないのだが、何となく、感覚的に間に壁を置いて話しているような感じがする。

 あまりに退屈なので、この建物の中をあちこち探検してみたものの、自分のいる部屋と同じか、少し小さな同じ作りの部屋がいくつか存在するだけだった。

 あとはリーのいるカウンター裏の部屋と倉庫だけだが、倉庫はただの倉庫であり、カウンター裏も彼女の控室となっているだけだろう。見て面白いものではなさそうだ。

 トレーニングもここしばらくはしていない。体がなまる、という事は多分無いのだろうが、それでも鍛錬ができないという事は、他の皆に置いていかれる事と同じだ。折角戻れる時が来たとしても、二人の足を引っ張っては申し訳がない。

 あちこち使ってトレーニングはしてみたものの、自分の軽い身体を動かすだけでは柔軟体操ほどにもならない。毎日千キログラム以上のものを持ち上げていたのだから当然だ。

 ここでやる事と言えば、ご飯を食べる事と寝ることだけ。食事は相応に豪華で美味しいのだが、よそ行きの料理ばかりでなんだか微妙な気分になってくる。

 美味しいのだから問題ないだろうと頭では思うのだが、毎日駐屯地で、皆で作っていたお昼ごはんが懐かしい。ジェシカと二人で作った肉野菜炒めや、ミサキの作ってくれたカレーライスが食べたい。

 むくりと起き出して冷蔵庫を漁る。毎日お昼を少し過ぎた辺りで、何人かの業者さん達が備品の補充や清掃にやってくる。そのため、冷蔵庫の中には常に新しいお酒が決まった量補充されているのだ。

 やることが無いなら食べるか飲むかしか無い。お酒はあまり好きではないものの、度数の低い甘いものならばジュースと変わらない。

 というよりも、どうしてここにはお酒しか置いていないのだろうか。他の飲み物があったって良いはずなのだが、どういうわけか冷蔵庫にはお酒しか補充されない。

 リーに頼めば水やお茶、コーヒーなんかは持ってきてくれる。ただ、毎度毎度頼むのも申し訳ない――というよりもあまり顔を合わせたくない――ので、結局喉が渇けばこうやって甘い酒に手を出すようになった。

 業者もよく減る飲み物は把握しているのか、自分が好んで飲むものは最初の頃より多めに入れてくれるようになった。ありがたいのだかありがたくないのだか良く分からない。

 真っ昼間からベッドに寝転がって酒の瓶を手にしていると、一体自分が何の為にここにいるのかわからなくなってくる。

 今の所出動が必要な竜災害は発生していないし、毎日食べて飲んでごろごろしているだけだ。太りはしないものの、なんだかこれではいけないような気がしてしまう。

 そういえば今日の昼、リーが部屋に食事を持ってきてくれた時に、何かご不満はありませんかと聞いてきた。

 正直に退屈ですと答えたら、でしたら夜に話し相手でもいかがですか、と言われたので承諾しておいた。

 同年齢ぐらいの女の子であれば、友達にはなれるかもしれない。ただ、こちらの待遇を考えると相手を恐縮させてしまわないか心配だ。

 腹が満たされた状態で酒を飲んだせいか、また少し眠くなってきた。ため息を天井に向かって吐き出して、ゆっくりと瞼を閉じた。


 夕食の後、風呂に入り、やる事も無いのでそろそろ寝るか、と思っていると、いつも出入りしている扉と反対側、外に面している扉がノックされた。

 そういえば、夜に話し相手を送るという話をリーがしていたのを思い出し、扉に駆け寄る。ぼけっとした生活を送りすぎて、感性が鈍くなっているようだ。

 扉を開けて固まった。

 外にいたのは他でもない、先日顔を合わせたばかりのこの国のトップ、マオ・エンフォン国家主席だった。

「マオ主席?どうして、ここに?」

 驚いて固まっていると、彼は石段の所で靴を脱いで部屋の中に入ってきた。

「シンユェから聞いていないかね?話し相手が欲しいと言っていたそうじゃないか」

 確かに、暇だとは言った。話し相手を呼ぶというのにも承諾はした。だからといって、よりにもよってこんな人を呼ぶなんて思いもしない。

「それは、確かに言いましたが」

「いいじゃないか。私も君とゆっくり話してみたいと思っていたんだ。飲み物でもどうだい?」

 マオは勝手知ったる様子でスリッパを履き、冷蔵庫からグラスを二つと酒の瓶を二本、取り出してテーブルの上に置いた。

 片方は自分がいつも飲んでいるオレンジのカクテルだ。もう片方は度数が高くて絶対に手を出さなかった透明な酒。

 逆らうわけにもいかず、ベッドに腰掛けたまま、グラスに入れられたオレンジ色の酒を受け取る。マオが乾杯、と言ったので、仕方なく中身をぐっと飲み乾した。

「いい飲みっぷりだね。メイユィは普段からお酒を飲むのかい?」

「いえ、あまり。ここではすることが無いので」

 丁寧に話すのは疲れる。目上も目上、一番上の人に対して失礼な事は言えない。どうしても言葉は少なくなってしまう。

「そうか、することが無いか。それは申し訳ない事をしたね。ヒノモトでは普段、何をしていたのかな」

 マオは立ち上がってこちらの横に腰掛けると、手元に入れた強い酒をぐいっと呷った。きつい酒精の臭いがこちらまで漂ってくる。

「普段は、午前中はトレーニングで……あと、ゲームをしたり、アニメを見たり」

 部屋で冒険者になりきって黙々とロールプレイングゲームに没頭したり、ジェシカの部屋へ行ってオススメだと言われるアニメを見て騒いだり。

 お昼ごはんはミサキも一緒に三人で作って、シュウトも一緒に賑やかに食事をして。

 思い出すと恋しくなって涙が滲んできた。帰りたい。

 離れてそんなに時間が経っていないというのに、彼のいるヒノモトが恋しくて恋しくてたまらない。彼と、優しいミサキと元気なジェシカのいるあそこに帰りたい。

「どうして泣いているのかな」

 いつの間にかマオがこちらににじり寄っていた。体温の高い、脂肪割合の多い身体がこちらに触れている。

「ヒノモトを、思い出して。寂しくなりました」

 早く帰して欲しい。皆のいるあの駐屯地へ。マオの命令だというのなら、帰れと命令してくれればそれで終わる話なのに。

「寂しいか、そうか。かわいそうに。それじゃあ、私が寂しくならないように慰めてあげよう」

 そう言うと小太りの中年男性は、ベッドの上にこちらの上半身を押し倒した。呼気に含まれる酒精の臭いがツンと鼻につく。

「え?何?やめてください、マオ主席」

 軽く胸を押してどかそうとするが、その程度では大きな体は動かない。

「いいじゃないか。寂しいんだろう?これを知ったら、きっと寂しいなんて思わなくなるはずだよ」

 こちらの服の裾に手をかけて無理矢理脱がそうとするマオ。手を添えて必死に阻止していると、びりりと音がして少し服の繊維が千切れるのを感じた。

「いや、いやです。こんな事で。マオ主席には奥さんも子供もいるのでしょう?」

「妻や子はまた別の話だよ。君が寂しいのなら、慰めるのが私の仕事だからね」

 どんな仕事だ。不貞ではないか。第一、こんな太った、全く自分の好みではない男に初めてを奪われるなんて絶対に嫌だ。初めては、彼に捧げると固く誓っているのだ、こんな、こんな男に。

「やめてください!」

 思い切って少し力を入れて、胸を突き飛ばした。

 そこまで強く押したつもりは無いのだが、必死だったせいか力加減を誤ったらしい。マオは軽く空中に飛び出し、勢いのまま、肥満体はごろごろと絨毯の上を向こうの壁まで転がって、頭を軽くぶつけて呻いた。

 大した怪我もしていないのか、男はすぐに頭を振って立ち上がった。先程までの猫なで声はどこへやら、目を怒らせて憤怒の形相でこちらを睨んでいる。

「何をする!この私に逆らう気か!折角寵愛を授けてやろうというのに!」

 知るか。そんなもの必要だと言った覚えはない。

「いくら寂しくても、マオ主席の愛人になったりはしません。帰ってください」

 怒りたいのはこちらだ。いきなり夜中にやってきて、酒を飲ませたかと思えば欲望を剥き出しにして襲ってくるなど。こっちが駆逐者でなければひどい目にあっていたところだ。

「調子に乗るなよ、黒社会の貰われっ子が。私がその気になれば、お前の身の回りの人間なんか、全て処刑できるのだぞ」

 身の回り。鼻で笑った。

「私のファミリーはもうみんな、恐竜に殺されちゃったよ。マオ主席でも死んだ人は殺せないでしょ。それともミサキやジェシカに手を出してみる?私達がどういう存在だか、知らないわけじゃないよね」

 そちらがそういう態度なら、こちらも丁寧に話す必要などない。

 殺せるんなら殺してみろ。自分を殺したら、そのうち世界は恐竜に殺される。自分で自分の首を締めるだけだ。

「こいつ……!可愛いからと優しくしてやれば調子に乗りおって!」

 掴みかかってきそうになったので、こちらも立ち上がった。ジェシカの真似をしてファイティングポーズを取ると、途端にマオの顔が真っ青になる。

「私達はね、ミサイルでも殺せない竜を素手で殺せるんだよ。それにね、マオ主席。私はミサキやジェシカと違って、もう何人も人を殺してるの。今更それが一人増えたところで、どうってことないよ。例えそれが国家主席だとしてもね」

 流石にこちらの出自を思い出したのか、血の気の失せた小太りの中年は、こちらを睨みながら来た扉を出て行った。大きく息を吐いて、ベッドに座り込む。

 やってしまった、とは思うが、これは自分が悪いわけではない。

 千切れた服の裾をくるくると弄って、残っていた酒をごくごくと一息に飲んだ。

 あの晩餐会の時、マオがこちらの事をじろじろと見ていたのには気がついていた。

 ワンとの会話も聞こえていたので、てっきり諦めたのだと思っていたのだ。それでも襲ってきたという事は、やはり性欲に勝てなかったという事だろうか。あの時は比較的理性的な人間だなと思ったのだが。

 これでこちらの待遇が悪くなるだろうか。別にそれならそれで構わない。いっそのこと、追い返してくれれば良いのだ。逆にすっきりした。

 何故か急激に眠気が襲ってきて、破れた服を着替えもせず、ベッドの上に仰向けになった。



「どういう事だ!シンユェの言う通り、寂しがっていたから慰めてやろうとしたのに!」

 広い広い彼の部屋で、マオ・エンフォンは重厚な机に拳を叩きつけた。縁に置いてあった筆立てが転がり落ちる。その様子を、副主席であるワン・シーピンは若干冷めた目で眺めている。

「だから言っただろう、エンフォン。駆逐者に手を出しても何も良い事は無いと。殺されなかっただけマシだよ」

「だがな!シーピン!確かに飲ませたんだぞ!彼女が手配してくれた酒には、睡眠薬を入れたはずじゃなかったのか!」

「そりゃあ入ってただろうね。だがね、エンフォン。こないだ見せた資料に書いてあっただろう。駆逐者は薬剤に対する耐性と順応力が高く、アルコールも代謝に慣れてしまうと殆ど酩酊しなくなると。入れた睡眠薬はアルコールとの相乗効果があるものじゃなかったのかね」

「何!?……だが、彼女は今まで殆ど酒を口にしなかったと」

「暇だから日常的に軽い酒を飲んでたってシンユェからの報告書にあっただろう?しっかりしてくれよ主席。こういうのは、総合的に情報を統合しないといけない。今まではできていたじゃないか」

 ワンがそう言って、叩きつけられたはずみで絨毯の上に転がった筆立てを机の上に戻した。至極落ち着いた態度で続ける。

「どうするんだい。国家主席が少女に夜這いをかけて追い返されたなんて言いふらされたら、君の威信は台無しだよ。折角二人で築き上げてきたというのに」

「そんなもの、黙らせれば良いじゃないか。金でも、脅してでも」

「だから、相手は駆逐者だって。彼女に脅しが通用したかい?まぁ、周囲ならある程度は黙らせる事は可能だろうけど」

 事実を突きつけられてマオは黙った。いくら金や権力があろうとも、どうにもできない純粋な力というものがある。今まで彼はそれを行使する側だったのだが、逆にそれを見せつけられた思いになっていた。

「駆逐者を黙らせることはできないよ。幸い、ほぼ全員がまだ精神の幼い子達だから大きな問題にはなっていないけど。彼女たちを黙らせる事ができるのは、竜災害だけさ」

「……どうにもならないのか、シーピン」

「彼女が黙っていてくれる事を願うしかないな。残念だが、彼女を隔離しておく以外、私にもどうしようもないよ」

 ワン副主席はそう言って、明日も大事な会議があるから寝坊するなよと言って部屋を出た。

 部屋を出た彼は、小さく唇の端を歪めて持ち上げた。

「この国の駆逐者が、ミサキやフレデリカでなくて本当に良かったよ」



『なるほど、彼を煽って判断力を狂わせ、保身の為だけにメイユィを勝てない戦場に放り込ませたと。こう言っては何ですが、随分と穴の多い作戦です』

 怒りは湧いて来るものの、それを隠せない程に若いわけではない。ここで怒りを顕わにしたところで何の意味もない。リーを萎縮させるだけだ。

『まず、次の竜災害の発生地が央華とは限らない事。それに竜災害の規模も不明な点。更に言えば……本当にメイユィが死んだ場合、央華の実権を握った所で、それは滅びゆく世界での一時的な栄華にしか過ぎません』

 本末転倒だ。治める国も人も居ない所で王を名乗った所で虚しいだけだろう。

『私もその点をシーピンに聞きました。けれど、問題ないと。竜災害はどこで発生しようが、現状であれば三人で対処するのが最上であるので、ジュエさんの派遣を遅らせれば良いのです。愚策も積み重なれば同じ効果を得られると』

『実際に敗北した場合の対処は?』

『それもなかろうと。シーピンは、あなた方の近くにわざと情報を流していました。すぐに駆けつけられるように。彼は常に部下の動向に目を光らせています。ヒノモトに留学していた経験のある役人ともなれば特に』

 ヒノモトに留学。誰の事だろう。だが、今回の情報がいつもよりも遥かに迅速にこちらに届けられたというのは事実だ。情報ルートが違っていた。

『そうですか。可能であれば今後も情報を流し続けてくれれば助かりますが』

『それはわかりません。シーピンがどういう判断をするかは……』

 彼女は恐らくワンの愛人だ。恐らくはマオにも取り入っていて、それとなく主席の行動を誘導させるような役割をしていたのだろう。メイユィの生活状況を、必要な部分を省いて流したのがそれだ。

『良く分かりました。ああ、別にこの事を言いふらしたりはしませんので安心してください。ただ……二度とこのような事に我々を使わないでください。我々であれば、その気になればいつでも国のトップの首を落とせるということを、良くご理解頂きたいものです』

 顔を引き攣らせた彼女は、小さく頷いてシーと肯定した。

 踵を返してメイユィの下へと戻る。

 下らない。実に下らない。こんな下らないはかりごとのせいで、彼女は死にそうなほどの大怪我をしたというのか。

 果たして我々の敵は本当に恐竜だけなのだろうか。

 我々を取り巻く環境というのは複雑だ。それを複雑たらしめているものは、言うまでもなく人間の欲望と悪意、あるいは善意である。

 ワンにしてもこのままマオにこの国を任せていたのではダメだと思ったのだろう。それは彼にとっての善意である。

 絶対的な権力を持つ者を降ろそうと思えば、周囲を固めるだけではダメで、何らかの引き金が必要になる。彼はじっと我慢して、そのトリガーが自分の手元に転がり込んでくるのを待っていたのだろう。

 動機がどうであれ、彼が我々を、そして竜災害を道具として使ったのは事実だ。これ以上ここに居ても何も良い事は無いだろう。

 央華に限らず、世界中に彼のような考え方をした人間はいる。ヒノモトだって例外ではないだろう。果たして自分達は今後、そんな人間たちの思惑から身を守る事ができるのだろうか。

 痛々しい姿になってしまったメイユィを眺めながら、鬱々とそんな事ばかり考えていた。

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