第44話 攻撃の連鎖

 どうしてもウミ達の事が気になり、トレーニングの後からずっと気もそぞろに過ごしていた。

 オオイは対処してくれると言っていたが、それがどこまでの範囲になるのかは分からない。炎上がきっかけとなり、ミサキ・カラスマが親戚に居ると言ってしまった彼女が、その炎上の渦中でどのような環境に置かれているのか。思考は考えれば考えるほどに悪い方向へと進んでしまう。

 弟のトシツグやその嫁のミオだって気を揉んでいる事だろう。共働きの二人に余計な心労をかけさせてしまったことに、強い罪悪感が湧き上がってくる。

 地下には電波が届かない。チャットや電話で連絡を取ろうにも繋がらないのだ。一応固定の内線電話は置いてあるのだが、外線に繋がるかとゼロのボタンを押してみたが、反応がなかった。やはり外には繋がっていないようだ。

 多分、オオイに言えば一旦外には出してくれる。廊下に出て彼らに連絡を取る事は可能だが、オオイに任せた以上、あまり余計な手出しをするのも申し訳ない。彼女のことは信頼しているし、問題の対処も上手い事は良く知っているのだが、この胸の内に渦巻く不安ばかりはどうしようもない。

 あまりにもそわそわとしていたので、二人からもどうしたのかと心配される始末だ。彼女達にまで無用な不安を拡散するわけにもいかないので、雨が降りそうなので干してきた洗濯物が濡れないか心配だと答えておいた。

 出動要請も無く、じりじりと過ぎた時間はどうにか定時を示した。扉の前で待ち受けていると、オオイがいつものように感情の乏しい顔つきで出迎えた。

「ご心配無く。対処は終わっています」

「……そうですか」

 顔に出ていたらしい。こちらが何か言う前に二等陸佐は頷いてくれた。一先ずは安心、という事だろうか。

 ジェシカ達に別れを告げて、オオイと共に階段を上る。デモンストレーション集団が帰った後も、サカキは顔を見せなかった。ずっとホテルで仕事をしていたのだろう。

「小学校には、文科省事務次官とヤマシロ市教育委員会の委員長を送りました。子供に見せるに適さない、無用の情報を与えていじめの材料にしないように、と、緊急PTA集会を開いて通達したそうです。どうやら一人の親が炎上にも加担していた模様です」

 やりすぎである。

 事務次官って、ムサシ県にいるんじゃないのか。市教委のてっぺんにいる人まで。

 流石に大臣までは引っ張り出せなかったようだが、事務次官と言えば事務方のトップである。そんな偉い人をわざわざ。いや、ありがたい事ではあるのだが。

「そ、そこまでして下さったんですか。ありがとうございます」

 恐ろしく迅速である。しかも容赦が無い。そこまでやるのか。

「DDDのイメージにも関わることですから。それに、情報の漏洩に関しては今、この国は非常に敏感になっています。子供からある程度漏れるのは仕方がなくとも、封じ込めは必要です。火災は初動が大切ですからね」

「そうですか。いずれにしても助かりました」

 やや強硬手段のようにも思えるが、正論は正論だ。ただ、こちらを攻撃していた人に、ほぼ名指しでの注意のような形になったのではないだろうか。逆に反感を募らせて過激化しないかだけが心配だ。

 オオイにも別れを告げ、白い軽に戻る。エンジンをかけたあと、すぐにスマホでワイアードを起動した。

 通知は地下のトレーニングルームを出た瞬間、大量に入っていた。全て弟夫婦とのグループチャットからだ。


『集会で、明確ではなかったけど、多分ミサキさんの事言われた』

『子供に見せるのに適さない週刊誌の情報を子供に吹き込むのはやめろって』

『それでいじめが発覚した場合、学校も教育委員会も厳しい態度を取るって』

『ウミの同級生の親が一人、子供の教育に良くない人物がいるのは不愉快だって言ってる』

『個人の快不快を子供に代弁させるなって思いっきり周りから叩かれてる』

『あー、自白しちゃった。大丈夫かなこの人』

『訴訟とか言ってる。名誉毀損』

『終わったから帰るね』


 全てトシツグの発言だ。緊急集会には半休を取って出たのだろう。

 発言から類推するに、オオイの言っていた炎上に加担していた一人というのがこのトシツグの言っている、ウミの同級生の親の事だろう。黙っていれば何事もなく済んだのに、恐らくどうしても言わなければ気がすまなかったのだろう。雉も鳴かずば撃たれまいに。

 何が一体そんなに不快なのだろうか。こっちだって別にあの水着を着たくて着たわけではないのだ。まぁ、そんな事は雑誌を見ただけの人間にはわからないのだろうが。

 しかし、これはこれで問題だ、炎上に加担していた親の子が誰かという事まで分かってしまっただろう。ウミがいじめられる事はなくなっただろうが、逆にその子がいじめの対象になったりはしないだろうか。

 人というのは正義が大好きだ。正義という大鉈を振るえるとなると、気持ちよくそれを振り回す。それは快感を伴う行為だからだ。

 だが、それは時々鉈を振るわれる側の事を考えずに、やり過ぎてしまう事となる。いつぞやのレポーター自殺の繰り返しになっては困る。

 どうにかして止めたいが、こちらが直接関与するわけにもいかない。自分がしゃしゃり出ていけば火に油を注ぐだけだ。この問題は、弟家族と相手側の家族、それと小学校全体の問題なのである。

 面倒くさい。どうして人間はこう面倒くさい生き物なのだろうか。

 もっと皆が寛容になれば良いのに、寛容さというのは強い意見の前には無力だ。

 結果、強い意見がまかりとおってしまう。どれだけ寛容な人間が増えた所でそれは変わらない。

 大半の親は、その炎上親の事など無関心だろう。子供にも何も話さないに違いない。そういった家の子は、今までと変わらずウミにもその親の子にも接する事だろう。

 だが、夕食の場なんかで、うっかりと子供の前で『PTAでこんな事があってね』と口走る親だっているだろう。その場合、親から情報という意見を手に入れた子供は、炎上親の子にそういった目を向ける。

 良識を持った人間はあまり発言しない。無闇な意思表示は自分の立場が悪い方向に転ぶ可能性が高いという事を知っているからだ。だからこそ、それを知らない人間が発言する。世の中に、SNSに溢れている強い言葉は、大体において寛容性の足りていない人のものばかりだ。

 無論の事、強く否定しなければならない意見だってあるだろう。不寛容に対してまで寛容である必要はない。ただ、それとて関係のない者までもが四方八方から言えば良いというものでもない。

 ステアリングを切ってクルマを市内へと向ける。気の滅入るようなことばかり考えていても仕方がない。夕食の支度をしなければ。

 春の食材を使ったものを何か作りたい。柔らかいキャベツか、たけのこを使ったものか。スーパーで見て決める事にしよう。


 いつものスーパーでは美味しそうなアスパラガスを買うことができた。夕食はこれを使った揚げ物だ。豚バラ肉を使ったアスパラの肉巻きフライである。

 柔らかくて程よい歯ざわりのアスパラガスに脂たっぷりの豚バラ肉を巻き付け、小麦粉と卵、パン粉の衣をつけて揚げる。少し辛めのソースで食べれば絶品だ。考えただけで嬉しくなってくる。

 しかし、鼻歌でも歌いださんばかりに上機嫌だったその心は、部屋の前で無惨にも打ち砕かれた。

「なんだよ、もう」

 部屋の前、自宅である1309号室の扉に、紙がガムテープを使ってしっかりと貼り付けられている。少し黄色いので、近所の店舗のチラシの裏紙だろう。そこに、赤マジックででかでかと汚い文字で書いてある。『淫売 出ていけ』。

 見るからに適当かつ悪意満載である。あまりにも下らない。シュウワの村八分か。

 スマホを取り出して写真を撮影し、すぐにミズモト弁護士に送る。浮かれた気分が一気に萎えた。最悪だ。

 すぐにミズモトから電話がかかってきた。廊下で立ったままなのもアレなので、扉を開けて中に入る。冷蔵庫に買ってきたものを入れながら、駐屯地の弁護士との会話を開始した。

『ミサキさん、これはご自宅の扉ですね?』

「そうです。今、帰ってきたらガムテープでしっかりと貼り付けてあって」

 多分跡が残る。最低過ぎる。嫌がらせにしても悪質だ。

『なるほど、では、まず今すぐ警察に通報してください。それからマンションの管理会社』

 ミズモトに警察を呼ぶ時の説明の仕方と、エレベーター前の防犯カメラ映像の保存を管理会社に要求する方法を聞いた。防犯カメラの映像は一応、一週間から一ヶ月程度保存されているのが普通だが、そうでない場合は早めにバックアップをとらないと消えてしまうのだという。HDDやSSDの容量は以前より増えたとは言え、カメラ自体も高画質化しているので、実際に保存できる量はあまり変わらない場合が多いらしい。

 早く剥がしたいと言ったのだが、一応警察が来るまで待って下さいと言われた。現場状況を確認してもらったほうが良いとの事だ。

 仕方がない。気分は悪いが貼られた状態そのままにして、夕食の準備を始めた。油で揚げる以外はあまり難しくない料理なので、次々と肉巻きフライの下ごしらえが終わっていく。三分の二ほどを終えた所で、インターフォンが鳴った。カメラを見れば二人組の警察官だ。流石に早い。

 インターフォンのスイッチを押してエントランスの扉を開け、手を洗って共用廊下に出る。すぐに二人の制服警官はエレベーターで上がってきた。

「おお、本当にミサキ・カラスマさんだ」

「バカ!まずは仕事しろ!すみません、カラスマさん」

 二人組の片方、若い方がこちらを見るなりそう言って、年かさの警官に怒られている。なんとも反応し辛いが、確かに先に仕事をしてもらいたい。扉の前に案内すると、彼らは揃って苦笑した。

「こりゃまた、ガッチリ貼られてますね。おい、写真」

 若い方の警察官がデジカメを取り出し、黒板にチョークで日時場所を書いて様々な角度から撮影している。民事トラブルっぽいのに割と丁寧にやってくれている事に少し驚いた。

 写真を撮っている最中に、スマホが鳴ったので出ると、ミズモトも下に来たようだった。一旦部屋に戻ってインターフォンからエントランスの自動ドアを開け、彼が到着するのを待つ。丁度撮影が終わった頃に黒縁メガネの長身弁護士がやってきた。

「やー、どうもどうも。ご苦労さんです。弁護士のミズモトです」

 警察官に身分証を差し出すミズモト。警察官にまで名刺を渡したりはしないようだ。

「うん、ガッツリやられてますね。建造物損壊、侮辱罪、軽犯罪法違反。民事だと不法行為と復旧費用の損害賠償、慰謝料ってとこでしょうか」

「ですな。それと、『出ていけ』は強要罪でしょう。今どきここまで明白なのは珍しいですが。ああ、もう剥がして結構ですよ」

 やっと許しが出たので、薄っぺらいチラシを丁寧に剥がしていく。当たり前だがガムテープなので粘着糊が扉に残ってしまった。しかも貼り付けてから書いたのか、扉にまでうっすらと赤いマジックの跡が残っている。

「あー、おい。この状態も撮っといてくれ。しょうがねえな本当に」

 若い警察官と一緒にミズモトもスマホで写真を撮った。これも損害賠償請求のための証拠になるのだろう。

 ひとしきり撮影が終わると、警察官とミズモトは管理事務所に行くと言ってエレベーターを降りていった。確か、エントランスを入ってすぐ脇に警備室のようなものがあり、防犯カメラの映像はそこで見られるはずだ。

 後は任せておけば良いのだろうか。跡は残ったが一応は剥がせたし、専門家に任せておけばまぁ、大丈夫だろう。警察官と弁護士が一緒になって行動しているのは少し不思議な感じがしたが、よく考えたら彼はヤメ検だった。そう考えると違和感は無い。

 部屋に戻ってアスパラ肉巻きの準備を再開した。そう言えば、前掛けをつけっぱなしだった。


「ただいまーっと。なぁ、なんか扉が汚れてたけど、あれ、なんだ?」

 揚げ物の匂いに鼻をひくつかせながら、適当な男がリビングに入ってきた。

「おかえり。張り紙されてたんだよ。今、ミズモト先生と警察が下で防犯カメラの映像調べてる」

 上着を受け取ると少し汗の匂いがした。こまめに消毒してスチームアイロンもかけていたが、暖かくなってきたのでクリーニングに出す間隔が少し短くなりそうだ。

「張り紙?扉に?なんて?」

 あまり口に出したくないので、丸めてソファの上に置いてあるチラシを指差した。彼は近寄っていってくしゃくしゃになったそれを広げていく。

「なんだこりゃ。きったねえ字。ふーん」

 ソウは中身を確認すると、再びぎゅっと丸めてゴミ箱の中へそれを放り込んだ。いかにも興味がない、といった風情である。

「それより今日の晩飯、なんだ?とんかつか?」

「アスパラ肉巻きフライだよ。揚げるのにちょっと時間かかるから、先に風呂、入ってこいよ」

 嬉しそうにわかったと言って、適当な男は適当な下着を持って浴室へと消えていった。

 暫く黙々ときつね色になるまで細長い棒を揚げていると、丁度揚げ終わった所でインターフォンが鳴った。

『すみません、カラスマさん。ご確認頂きたい事があるのですが』

 カメラに映っているのは先程の警察官だ。サンダルをつっかけて表に出ると、ミズモトもその場にいて、大きめのタブレットを携えている。

「何度もすみません。この顔に見覚えありませんかね?」

 ミズモトがタブレットを操作して、動画ファイルを開く。多分防犯カメラの映像だろう。

 カメラは13階のエレベーターホールで、エレベーターの扉を斜め上から映しているものだ。暫くして、扉が開いて老人が一人出てきた。手にはあの黄色いチラシと赤い油性マジック、ガムテープは腕に通して携えている。ミズモトが一旦画面をタップして動画を止めた。

 映っている老人は比較的痩せている。カメラが高画質なのか、顔の造作までもがはっきりと見える。

「うーん、どこかで見たような。ただ、マンションで見たというわけではないんですが」

「見覚えが?怨恨かと思ったのでお見せしたのですが」

 正直、恨みを買うような事をした覚えはない。逆恨みならありえそうだが、そんな事をいちいち気にしてはいられない。ただ、この老人。頬骨の張ったいかにも気の強そうな人相はどこかで。どこだったか。

「確かに見覚えはあるんですが、最近ではないですね……ちょっと待って下さい。ええと……あっ」

 そうだ、この老人。杖こそついていないが、あの時の。

「ヤマシロ県にいた頃なんですが、体調が悪くて仕事を早退した事があるんです。その時、地下鉄の東西線で席を代われと脅されたことがありまして……その時の人です、これ」

 なんであの時のジジイがここにいるんだ。しかも、こちらの家の扉に張り紙を。まさかあの時の事を恨んで、なんて事は無いだろう。エドの仇をヒゼンで討つなんて事を、こんな形で行うだろうか。警察官もやや疑わしげである。

「そうですか。しかしまさかそのような些細なことで……というより、そんな事でカラスマさんの顔を覚えていて、部屋にまでやってきますかねえ?そんなに怒りが持続するわけがないし、そもそもどうして部屋の番号をこの老人は知っていたのか」

 分からない。確かにこれはあの時の老人だが、そもそも違う県での出来事である。

「その、電車の席以外で最近何か恨みを買いそうな事はありませんか?些細なことでも構いませんので」

「そう言われましても」

 思い当たる節が無い。そりゃあ自分の身体を全国に晒した以上、嫉妬や反感を買う事はあるだろう。年寄りであれば破廉恥でけしからんと正義感に燃える輩がいないとも限らない。

「ひょっとして、駐車場の件じゃないですか」

 ミズモトが眼鏡の位置を直しながら言った。駐車場の、ああ。

「駐車場?何かあったのですか?」

「ええ。民事の申し立て中なんですがね」

 弁護士が警官に説明する。なるほどねえと顎を擦った制服警官は、わかりましたと言って話を切り上げた。今日の所は一旦これで終わりのようである。ミズモトも、被害届はこちらで出しておきますからと言って、警察官と共に引き上げていった。

 中へと戻ると、既にスウェットに着替え終わったソウがテーブルについて待っていた。ビールの準備だけは二人分してくれてある。

「張り紙の件か?」

「うん。なんか、見たことあるジジイが犯人だった」

 普通、初動ではあまり制服警察官が調査をする事は無いらしい。今回は弁護士が一緒にいたので可能な限りやっておこうという事だったそうだ。

「知り合いか?」

「違うよ。生理できつい時にさ、電車で座ってたら席を譲れって脅された事があって」

 揚げ物を半分に斜めに切り、クッキングシートを敷いた皿に盛っていく。沢山揚げたので、これなら二人とも満足できるだろう。

「生理ってそんなにきついのか?」

「今はそうでもないよ。ただ、最初はヤバかったな。もう、立ってるのも辛いぐらいで」

 二度目以降は別にそこまでのような事は無かった。この身体はどうにも一般的なヒトと違うようなので、世間一般の女性も同じなのかどうかはわからない。

「そっか。まぁ、辛かったら言えよ。それにしても、それが理由であんな張り紙するって事はないだろうが」

「それなんだけどさ」

 春キャベツのコールスローサラダを冷蔵庫から出して、ガラスのボウルごと食卓に置く。スプーンでお好きなだけどうぞ。

「駐車場の件、あっただろ。んで、相手側にも昨日あたりに裁判所から書類が行ったはずなんだよな」

「駐車場?あれ、婆さんとその息子じゃなかったっけか?」

「そうなんだけど」

 自分達がこの部屋に住んでいる事を知っている人間で、直接恨みをぶつけられそうな相手といえば、直近ではそれしか思い浮かばない。恐らくあの老人はあの老婆の夫なのではないかと思ったのだ。

「なるほどねえ。そういや、あっちの住所はヤマシロ県だったよな。多分その爺さん、息子の所に行く途中でミサキに会ったんじゃね」

「だと思う。今考えれば、あの爺さんが降りていったのは相手方の住所の近くだし」

 ソースをどんとテーブルにおいて、おつかれさんと言ってグラスを掲げた。目の前の男はそれはもううまそうにグラスの中の液体を飲み干した。暖かくなってきたのでよく冷えたビールが心地よい。

「ま、恨みつらみはどうでもいいよ。勝手に人の家にびっちり張り紙なんてしちゃったんだし、立派な軽犯罪法違反だ。流石に刑事事件は無視できないだろ」

 気分は悪いが相応の罰が発生するはずだ。民事と違って刑事事件の被疑者に対する取り扱いは厳しい。ミズモトは証拠が明白な以上意地でも送検させると言っていたので、あの歳にして前科付きである。

「そうだな。駐車場の件もだが、割れ鍋に綴じ蓋ってやつか。にしてもとんでもない家族だな」

 むしゃむしゃと揚げ物を貪りながらソウが言う。できれば食ってる時にこんな話はしたくないのだが。自分もきつね色の細長い揚げ物を、ソースにつけて一つ齧った。

 辛口のソースと揚げ物の相性は最高だ。カリカリとした衣を小気味よく齧ると、中から豚の脂とアスパラの春の香りが一度に口の中に広がってくる。

 しゃくしゃくとした春野菜の歯応えと爽やかな香り。豚の脂と肉の旨味、衣とソースの甘辛さと歯ざわりが一度に押し寄せて堪らない。すぐにビールを流し込むと、仄かな苦味が脂をすっきりと洗い流して炭酸が喉を刺激し、見事なホップの香りが鼻から抜けていく。美味い。いくらでも食える。

「アスパラガス、うめえなあ」

「明日の弁当にも入れるからな」

「マジかよ、今から楽しみだ」

 ざくざくと揚げ物を齧ってはビールを飲み、コールスローサラダを頬いっぱいに詰め込む。大量に作った揚げ物とサラダは、瞬く間に二人の腹の中へと消えていった。

 フライパンの揚げ油を固めて捨て、キッチンの周りを丁寧に拭く。揚げ物は美味いのだが、この作業が増えるのが少し面倒くさい。どう頑張っても油は跳ねるのである。

 居酒屋のバイトをしていた時は、揚げ物の鍋のある場所の周辺だけが床が滑って危ない。居酒屋の小さな厨房でそれなのだから、中華料理屋などはきっと凄いことになっているのだろう。

 食器を洗っていると、キッチンのカウンターに座ったソウがこちらを眺めながら言った。

「今日、仕事場では何も無かったか?」

「あったよ」

「あったのかよ」

 矢鱈と濃密な一日である。あれで終わりかと思ったら、帰ってきても問題発生。自分の周辺は一体全体どうなってしまったのか。

「イノシシ、蹴っただろ」

「あぁ、そういやwisで話題になってたな。すぐに公式の発表で沈静化してたけど」

 多分サカキがやってくれたのだ。最初の頃は少しぎこちない部分はあったものの、彼はすぐにネットのセオリーを身に着けて如才ない立ち回りをするようになった。伊達に最高学府を出ているわけではない。

「そこから何故か、駐屯地に運動家が来てな、入るに入れなくなったんだよ」

「運動家?デモってやつか?」

「ああ、まぁ、そんな感じ」

 デモンストレーションというのは直訳すれば実演という事になるが、彼らの場合は示威行為という事になる。海外のそれは、それはそれはもう過激で、時折手榴弾とか持ち出したりする事もあるらしい。ただ、我が国ではそこまでではなく、集まって練り歩いたり座り込んだり、精々クルマの窓を叩いたり当たり屋の真似事をする程度である。比較すれば可愛いと言えば可愛いが、なんだか子供っぽい。

「でさ、もう凄いの。あ、動画見るか?こんな感じでさ」

 一旦手を拭いてスマホに保存してあった動画を再生して、ソウの目の前に置く。揚げ物を作った後の食器というのは結構洗うのが大変だ。

 最近の洗剤は凄くて、スポンジに付けて擦るだけで大体すぐに落ちる。だが、油汚れというのはそれだけではないのである。

 シンクをシンク用のスポンジで擦っていると、動画を見ていたソウの顔が面白い事になっていた。口を半分開けて、目元は何というか、呆れたような困ったような、眉尻が下がっているのに眉根にシワが寄っているという具合である。

「おま、これ……ゾンビじゃねえの?」

「ふ、ふふ。ゾンビか。言われてみりゃそうだなあ。感染はしてねえから安心しろ」

 必死の形相で窓を叩いたり大口を開けて叫んでいる様子は、確かにゾンビ映画のそれである。言われてみて初めて気がついた。我が夫は素晴らしい見識である。

「これ、本当に同じヒノモト人なのかよ。何ていうか、言語能力というか知能が」

「人間、我を忘れるとそんな感じになるらしいぞ」

 そう言えば、夜の生活でクライマックスを迎える間際の時のソウの顔も中々アレである。理性のある人間と言えども、必死になったり何かに夢中になると獣に戻るらしい。ホモサピエンスでございと偉そうにしていても、本能に任せると案外野生の頃と変わらないのだろう。どこかで射精時にはサボテン並の知能になるというのを見たが、流石にそれは眉唾である。

「オオイさんとミズモト先生も大変だな、これ。あーあ、道路に寝っ転がっちゃって」

「うけるよな。止まってるクルマの前でひかれた!ひかれた!救急車を呼んでくれ!だもん」

「アホか、マジで」

 警察が対象者を拘束する為に行っていた、転び公妨というやり方がある。少し相手の手が触れただけで大げさに転び、やられたと騒ぐわけだ。要するに、相手に手を出させて公務執行妨害だ、と現行犯逮捕するわけである。

 最近はあまり見なくなったが、昔は割と良く見かけた光景で、警察に対する不信感は概ねそういった強引なやり方に問題があったからであるとも言える。

 転び障害というのは、これは警察に対する対抗手段というか、真似である。昔の暴力団関係者も良く使った手で、要は当たり屋だ。対象が警察やたかり相手になるだけの違いである。そう言われれば警察もやくざもやり方は似ている。どっちが先だとは言わないが。

 バカバカしい。自分の意思を通すために被害を受けたふりをするというのである。

 それは相手が理性のある人間だからこそ通じる手であって、例えば恐竜相手にそんな事をすれば、構わず踏み潰されるか胃袋の中に収められるだけだ。猛獣相手に死んだふりをしても意味がない。

 泡の付いた手を洗い流して、タオルで丁寧に拭き取る。いくら素手で洗剤を扱おうが、肌荒れとは無用の体だ。これは実に便利である。いつでもつるすべたまご肌である。妹に言えば確実に嫉妬される。

「ん?なんだ?……おい」

 動画が終わった後もソウはこちらのスマホを手放さない。そのまま続けてこちらの保存していた動画を見続けている。

「お前、ほんっと猫好きだな」

「ほっとけ。可愛いんだからしょうがねえだろ」

 最近はクルマを運転しているので撮れなくなったのだが、以前は歩いている野良猫だか地域猫を見かけると、スマホを向けて動画を撮るといった事をしていた。後で酒を飲みながら見返してニヤニヤする為である。

 だって、本当に可愛いのだから仕方が無い。

 見た目から動きから行動原理から何もかも可愛らしすぎて、もう眺めているだけで悶絶してしまうのだ。猫は癒し、猫こそ全て、猫は神である。

「そんなに好きなら、飼うか?」

「……いや、それは」

 できない。だって、かわいがった猫が自分よりも先に死んじゃったら、もう生きていく希望を失ってしまう。そんな恐ろしいことができるはずがないのだ。

 考えてもみるがいい。自分の子供ならば、事故でもなければまず自分より先に死ぬ事はない。どれだけ愛情を注いだって自分のほうが大体先に死ぬのだ。

 だが、他の動物はそうはいかない。人間は、他の哺乳類に比べて非常に寿命が長い。大脳を発達させ、医療という技術を手に入れてしまったのだ。いかに動物医療が発達しようと人間の基本寿命にはかなわない。人生五十年とかいう武将の言葉にしても、五十年も猫が生きれば猫又どころの騒ぎではない。大妖怪だ。

「かわいそうだろ」

「なにが」

「だって」

 何故わからないのだ。そういえば、この男は実家で犬を飼っていた。豆柴のマルちゃんはころころしていて実に可愛かった。あの子が死んだと聞いたときは自分もひどく嘆き悲しんだものだ。

「飼ってて死んじゃったら、かわいそうだろ!」

「そりゃあ……猫の方が人間より遥かに寿命は短いし」

 分かっているのだ。それは。だが、どうしても割り切れないのだ。

「ソウ、お前は強いな」

 あの可愛い子の死を乗り越えてこの適当な男は生きているのである。強い。恐竜をぶった斬っている自分よりも遥かに強い精神力だ。

「いや、わけわかんねえよ」

 わからんのか。このたわけが。

「もういいよ、好きなだけ俺の猫コレクション見てろ。勝ったと思うなよ」

「もう勝負ついてるから。さっさと風呂入ってこい」

 敗北を胸に秘めて和室から下着を持ってくる。いつの間にか夕食前までの鬱々とした気分は晴れていた。


「イノシシの件、漏れたの、ウミからって言ってたでしょ」

 彼がこちらの中で果てた後、言い忘れていた、いや、意図的に言わなかった事を告白する。

「うん、それはしょうがないだろ」

「そうなんだけど。それでね、ウミの学校の同級生の保護者が、今回のwisの炎上を先導してたんだって」

「なんでまた」

「秋藝のあの特集、気に入らなかったみたい」

「……それで?」

「ウミがいじめられるかもって思って、オオイ二佐から学校に人を送ってもらったんだけど」

「その可能性はあるかもな」

 扉に貼られていた張り紙を思いだした。『淫売 出ていけ』。

 こちらがそのように見られるのはある意味仕方のない事だ。不本意だと言っても身から出た錆だ。だが、それが姪に向けられようとしていた。耐えられなかった。

「文科省の事務次官と、ヤマシロ市教育委員会の委員長をやったんだって」

「……やりすぎじゃね?」

「私もそう思った。でも、そのお陰でどうにか収まったみたい」

 かなりの力技だ。だが、そうでもしないと学校というのは基本的に隠蔽体質であり、特に親に対して学校側は弱腰だ。精々注意喚起のプリントでも配って終わりになっていた可能性は高い。

「そっか。収まったならいいだろ、もう」

 ウミがいじめられる事は多分なくなった。それはそれで良い。

 裸のソウの胸にぎゅっと額を押し付ける。

「ウミに、あの写真の事、知られちゃった」

「……それであの子がお前の事、嫌いになると思うか?」

 黙って額を擦り付けた。思わない。思わないが、彼女がこちらを見る目が少し変わってしまったかもしれない。それが、怖い。

 自分は彼女達の前では、ずっと素敵なお姉ちゃんでいたかった。だがもう、その幻想は消え去った。

 かっこいヒーローの筈のお姉ちゃんは、実は男に媚を売る淫売だったのだ。

「大丈夫だって。案外、ウミちゃんも同じ水着が着たいって言い出すかもしれないぞ」

「それはダメ」

 ダメに決まっている。例え大人になってもそれはダメだ。トシツグだって許さないだろう。

「そうかあ?俺は良いと思うけどな……いてて、おい、やめろ」

 適当な男の脇腹を抓る。何て事を言い出すのだこいつは。

「よりによってあんな小さい姪にスケベ水着を着せて浮気とか」

「そんなんじゃねえって。痛い、痛いって!あの水着はミサキが着るのが一番だよ!」

「本当にそう思ってる?」

「思ってる思ってる!でないとこんなんならないだろ!」

 こちらの腹に硬いものが当たっている。どうしてこんな状況でこんな風になるのだ。

「抓られて興奮した?マゾなの?」

「ちげえよ。お前の水着姿を思い出したからだよ。というか、目の前に裸のお前がいるんだから、興奮しないわけないだろ」

「わかった、そういう事にしとく」

 どちらにしても彼のやる気が出たのは間違いないのだ。こちらの乳房を揉み始めた彼に呼応して、固く反り返ったそれを両手で包み込み、再び受け入れ準備の整ってしまっている自分の腹の下へと、そっと誘導した。

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