第16話 拒否できぬ勧誘

 翌日、いつものようにソウに弁当を持たせて送り出す。洗濯物をある程度干し終わった所で、スマホに着信があった。非通知だが、言われていた通りに出る。

「はい」

『カラスマさんですね。サメガイ議員からお聞きと思いますが、本日15時頃、お迎えに上がります。それでは』

 一方的に言うだけ言って通話は切れた。名乗りもせずに要件だけ伝えるというのは大変失礼だが、防衛省という立場上それは仕方のない事なのかもしれない。暗号化がされているとは言え、無線電話はいつどこで傍受されているかわかったものではないのだ。

 しかし、15時、という事は、連れて行かれる場所によってはソウの帰宅に間に合わないかもしれない。先に何か作り置きしておいたほうが良いだろう。

 買い物に使っている手提げを持って部屋を出ようとすると、再びスマホが鳴った。またか。

 画面を見ると、非通知ではなかった。マツバラ医師からだ。

「はい、カラスマです」

『カラスマさん?マツバラです。どうしているかと思って』

 抽象的だ。だが、このタイミングで掛けてきたという事は、サクラダであったあの事についてだろう。

「今の所問題は無いようです。周辺にマスコミがいるということもなさそうですし。ただ、少しを受けていまして」

『招待?そう、それは信じて大丈夫なところ?』

「大丈夫です。伝手もしっかりしたところなので」

 議員から連絡があった上に、自分を喚び出しているのは国家の機関である。これ以上疑わしくない所を探せと言われても無理である。

『わかった。でも、あんまり無理しないように。動画、見たよ』

「ええ。制御は出来ています。問題はありません」

 五階から飛び降りた所までは動画に上がっていないだろう。ただ、落ちてきた所は映っていたかもしれない。

『そう。それで、貴女の友人君とは、どうなった?』

「あー。ええ。今の所、手を出されてはいません」

『……本当?嘘はついていないでしょうね』

「嘘ではないです。というか、酔っ払ってこっちが迫ったんですが拒否されました」

『拒否された!?そんな馬鹿な。あ、ああ、いえ。わかった。安心な相手みたいで、ほっとした。それじゃ、また何か、気になる事でもあったらいつでも連絡して』

「はい、ありがとうございます」

 通話は切れた。気になって電話してきてくれたのだ。実にありがたい事である。

 実際、ソウとやってしまったら一度相談しようかとは思っていたのだ。確か、女性には安全日だとか危険日だとかいうのがあったはずなのだ。

 果たしてこの身体が普通に妊娠するのかどうかはわからないが、生理も含めてその辺りは普通の人間と変わらないようなので、警戒しておくに越したことは無い。まだ自分には戸籍が無いのだ。ソウの事だからこちらを捨てるなどという非情な事はしないだろうが、子供を育てるには金も時間もかかる。一昨日のように安易に迫った上でほいほいと作るのは、流石に問題だろう。反省しよう。

 というか。

 ぞっとした。自分は、あいつとの間に子を成す事に抵抗感がまるでない。これは一体どういう事だ。

 寧ろ、作って良いと言われれば積極的に作ろうとさえ考えている。男の思考、女の思考というだけのものではない。何かこう、本能的に子供を作って当たり前だ、と認識してしまっているような感覚だ。

 既に結婚している男女であればそれは問題は無い。だが、自分達は単なる友人同士であり、こちらは精神が男なのだ。普通、単に女の身体になったからと当たり前のように考えるような事ではないだろう。明らかに、自分の中の何かが変化してきている。

 恐ろしい想像に恐れ慄きながらも、やるべきことはやっておかねばならない。手提げと財布とカードキーを持っていることを確認して、高層階の廊下へと出た。


 悩んだ挙げ句、作り置きには普通の肉野菜炒めを作っておく事にした。

 電子レンジでの温め直しを考えれば、あまり凝ったものを作っても仕方がない。それに、早く帰ってこれたならまたもう一品足す事だって出来る。

 防衛省かららしき電話の主は、迎えに来る、と言っていた。つまり悠長にこの部屋でお話するというわけでなく、然るべき場所に連れて行くという事だ。距離にもよるが、近場なら帰ってこれる可能性はある。

 15時きっかりにインターホンが鳴って、出ると随分とイケメンの若い男がカメラの向こうに立っていた。

『地下駐車場までお願いします』

 彼はそれだけ言って画面から離れた。本当に必要最低限の事しか言わない。

 仕方なく身の回りのものを持って外に出る。先日サクラダで買ってきたブランド物の服で身を包み、ついでにソウが買わされた小さな女物のバッグに鍵と財布を入れて部屋を出た。

 別におめかしして出たいわけではない。連れて行かれるのは国家機関の人がいる所だ。失礼があってはいけないだろうという、最低限の服装である。

 薄いピンク色のフリルがついた長袖に、膝上までの紺色のタイトスカートという、ワンセットとバッグで15万近い、自分の価値に見合わぬ服装に恐れ慄きながら、エレベーターに乗って地下駐車場へと降りる。

 鍵が無ければ内側からしか開かないエレベーターホールから駐車場に出ると、周辺をきょろきょろと見渡す。いない。どこだ。

「こちらです」

 低く落ち着いた声がして振り向くと、カメラの死角になっていた柱の裏に男が立っていた。近くで見るとなんともまぁ、随分と整った顔をしている。

 短く整えた清潔感のある髪型に、芸能人なのかと思わせるほどに左右のバランスが完璧な造作。すらりと通った鼻筋に、肌には一点の曇りも無い。高い身長はモデルだと言われても違和感が全く無い程だ。これが防衛省の人間なのか?

 言われるがままついていくと、空いた駐車場のど真ん中にぽつんと一台、黒塗りの乗用車が止まっている。恐らく公用車だ。ナンバーが6桁のみなので、防衛省のクルマだというのは間違いないだろう。

 扉が開けられたので後部座席に乗り込むと、運転席に座ったイケメンはこちらにアイマスクを手渡してきた。

「着けて下さい」

 なるほど、どこに連れて行くのかは秘密だという事だ。言われるがまま、アイマスクを着用した。これは良く眠れそうだ。

 柔らかい背もたれに身体を預けて息を吐くと、クルマはゆっくりと動き出した。どこに向かっているかは振動や慣性の向きで大体わかる。地下スロープを上がって公道に出ると、どうやら南に向かって進んでいるようだ。

「聞きたいことはありますか」

 意外にもイケメンは質問をしてきた。こちらがか弱い女性に見えるので、目隠しをされて連れて行かれるとなると恐怖を感じるのではないか、という配慮だろう。

「あなたは背広組ですか?」

「……いえ。私は外務省の人間です」

「総合職ですね。しかし、外務省ですか。ナンバーは防衛隊のものだったので、てっきり防衛省の方かと」

「何故、総合職と?」

「一般職を迎えになど上がらせないでしょう?目隠しをしないといけないほど情報管理を徹底しているのに」

 防衛省幹部には庁舎に勤める官僚である背広組と、防衛官幕僚の制服組がいる。防衛省の人間だろうと思ってそう聞いたのだが、外務省の人間だという。

 国家公務員には基本的に官僚であるエリートの総合職と、それ以外の一般職がある。総合職だと判断したのは先程の理由もあるが、議員も関与している仕事に一般職が一人でやってくるはずがないのだ。

「随分とお詳しいですね。あぁ、そういえばサメガイ議員のご関係者でしたか」

 彼は勝手に勘違いしたが、別にソウやフユヒコから聞いたわけではない。

 在学時に一度、国家公務員になってみようと思って調べたのだ。試験は問題なさそうだったが、採用は自分の在籍していた大学では絶望的だと見て、早々に諦めた。総合職は殆どが旧国立大学新卒者しか取らないという事だったのだ。

「その服、随分お似合いですね」

 嫌味か。嫌味だ。確かに似合うだろう。こちらは絶世の美少女なのだ。何を着たって服の方が勝手に合わせてくる。だが、ヤマシロにずっと住んでいた自分にはわかる。これは嫌味だ。

 つまりは、『そんなに若いのにブランド品に身を固めて、議員のボンボンに囲われてさぞや楽な生活をしているのでしょうね』と言いたいのである。余計なお世話だ。

「カスミ勤めは大変ですね。でも、私はサメガイ上院議員とは直接関係ありませんので」

 そう言うと、流石に面食らったイケメンは黙った。まさか意味を理解して反撃してくるとは思わなかったのだろう。

 外務省の庁舎は、議員のいるナガラ町とは隣り合う場所にある。故に彼はこちらの事を議員の関係者と決めつけ、嫌味を言ってきたのだ。議事堂にいないなら議員の顔色をそれほど伺う必要もない。

 とりあえず初対面の印象は最悪である。ソウと比べて顔は圧倒的にこいつの方が上だが、性格は明らかにソウの遥か下である。話にならない。

 というか、なんで自分はこいつとソウを比べているのだ。意味がわからない。

 揺れの少ないクルマは意外とすぐに速度を落として止まった。サイドウィンドウが開く音が聞こえて、すぐに閉まる。ゆっくりと防衛隊所属のクルマは再び動き出した。

 どこにいるかは分かる。駐屯地だ。防衛隊の空港もあるあの場所だろう。

 暫くしてクルマが止まった後、横の扉が開く音がして、手を引かれた。

「こちらへ。目隠しはつけたまま、足元に注意して下さい」

 あまり鍛えていない白魚のような指だ。男性なので多少骨ばってはいるが、綺麗な肌をしている。

 言われるがまま、目隠しをつけた状態で引っ張られて歩く。いくつか段差を乗り越えて、階段も登った後に扉を開ける音が聞こえた。

「どうぞ、目隠しをお取り下さい」

 やっとか、と思いつつ目隠しを取った。眼の前には円卓。そこには三人の男性が座っており、周囲にはアサルトライフルを肩にかけた防衛隊、だけでなく、合衆国と央華の制服を着た兵士まで部屋の隅に並んでいる。

 そして、円卓に座っているのは。

「……アシダ副総理。それに」

 こちらから見て円卓の右側に座っているのは、時の政権の副総理大臣、ジョウジ・アシダ。中央に座っているのは合衆国の。

『エルドリッチ副大統領、お初にお目にかかります。お会いできて光栄です』

 合衆国の公用語である連合王国語で大国の副大統領に挨拶する。ヒノモトを取り囲む超大国のナンバーツーが揃い踏みである。つまり、円卓の左側に座っているのは。

『ワンターレン。ワン・シャーチン国家副主席。はじめまして。こちらのお食事はお口に合いましたか?』

 央華語は地方によって通じない事があるが、彼は首都であるキンヤン出身である。問題ない。

 三人とも、ニュースでも顔を見る極めて地位の高い人間である。流石にトップが来ているというわけではないが、これだけの人間が揃うと壮観だ。ちょっと緊張してきた。

 三人とも、それぞれに少し驚いた様子を見せて、近くにいる通訳に何か囁いている。真っ先にこちらに言葉を投げかけたのは、アシダ副総理だった。

「驚いたね。君は連合王国語は兎も角、央華語も話せるのか」

「はい。後はロマーナやヴァイマール、フィレンツなら、少しは」

 調子に乗ってあれこれ外国語を勉強していたのが役に立った。というか、こんな状況はまるで想定していなかったのだが。

『ミズ・カラスマ。聞いていた以上に聡明な女性のようだ。お会いできて光栄だよ。ここに君を呼んだ経緯は、説明されているかな?』

『いいえ、ミスター・レッドロック。生憎と目隠しをされてきましたので。我が国ではまだまだ、レディファーストの概念はクッキーの缶にしまわれているようです』

 ジョークと共に答えると、彼は愉快そうに笑った。

『結構だ!官の情報統制はそこそこに行き届いているようだね』

 満足げに頷いた老齢の白人の隣で、柔和そうな小太りの副主席が口を開いた。

『ミサキ・シャオジエ。礼儀正しい挨拶をありがとう。ヒノモトの料理は変わっているが、とても美味しいね。我が国でもヒノモト料理店は大人気だよ』

『ワンターレン。ありがとうございます。ですが、我が国で最も人気な国民的料理は、央華の伝統的ミェンですよ。央華の重厚な料理の歴史に、私達は敬意を払います』

 こちらもシェシェと笑顔で頷いている。彼らは一様に顔を見合わせて頷くと、代表してアシダ副総理が話し出す。副大統領と副主席の隣にいる通訳が、同時通訳を開始した。

「ミサキ・カラスマ君。君は随分と高い教養をお持ちのようだ。サメガイ君からの話だと、控えめなヤマト撫子だと聞いていたのだが……礼儀もしっかりしているし、何より外国語に堪能というのは素晴らしい。是非、私どもの側近に欲しいところではあるが」

 要点はそこではないのだろう。頷きながら黙って聞く。

「恐竜を殲滅したのは、君で間違いないね」

 そこだ。ここに呼ばれた理由は。

「間違いありません」

 円卓に座った二人も通訳の言葉を聞いて動揺した。眼の前の女と、血まみれや紙袋の女との整合性が取れないのだろう。

「よろしい。ここに集まった面子から推し量れるとは思うが……『竜災害』は、我が国で起こっているだけではない。世界中、あらゆる場所で発生しつつある」

 何だと。

 市役所とサクラダだけでなく、世界中で、あの惨劇が。

「そ、それは……しかし、各国の情報統制が行き届いている、という事でもあるでしょうが」

 アシダ副総理は渋い顔をして頷いた。つまり、我が国の情報統制のみが杜撰であった、と。

「央華は一党……集中だ。合衆国も大統領が強い権限を持っている。我が国だけが、甘いのだ。それは仕方がない。と、言っては怒られるが」

 ちらりと二人の方を見て、独裁と言いかけたアシダは苦笑する。

「実際に恐竜を屠っている所を動画に撮影されたのは君が初めてだ。それ以外は、まぁ、穏便に処理されている。しかし、隠し通すにも各国で限界が見えてきた。わかるかね」

 頷いた。分かる。つまり、ここいらで恐竜による世界的な災害を公にしようと言うのだろう。そして、それを殲滅した自分をここに呼んだ。各国、各国でだ。

「私以外にも、最低二人以上、恐竜を倒した者が?」

 三人は揃って頷いた。まさか、そんな。自分と同じ境遇の者が、他にも。

「流石に理解が早いね。そう、合衆国と央華にも、それぞれ一人ずつ、あの『文明の破壊者』を倒した者がいる。ただ……」

「ただ?」

 アシダは二人の顔色を伺った。渋い顔をした二人のナンバーツーは、仕方なく頷いた。

「ただ、彼女たちはまだ精神が幼い。君のように、礼儀を弁えて淑女的に話せる人間ではないのだ。それでも実力は間違いないと思われる。あの、恐竜どもを倒すのにはね」

 彼女たち、と言った。複数人、そして女性。自分はこの人達に、女性だと認識されている。つまり、まだ性転換前の事は知られていない、という事になる。他の、最低限二人の者たちもそう認識されているようだ。

「お話は概ね理解しました。それで、具体的にに、どのようにしろと」

 流石にここまで聞かされれば分かる。各国のトップではないにしろ、重要職がそろって一般人である自分の前に姿を現しているのだ。あの、忌々しいトカゲどもの災害をどうにかしろ、という事には間違いない。望む所だ。

 アシダはまた二人に目をやって、両肘を足にして顎を乗せた。

「君たちには、各地で発生する竜災害D・D、『ダイナソー・ディザスター』を潰してもらいたい。無論、相応の報酬は支払うつもりだ」

 予測できた事だ。だが、各地で、とは。

「行動範囲は?」

「央華から南西諸島、パシフィックを挟んで、合衆国と南部の全土だ。無論、オセアーノも含む」

 馬鹿な。アースの半分全てではないか。聞いた範囲を、たった三人で?無理だろう。無茶にも程がある。

「……私達以外に、それが可能な人員の補充は?」

「無い。正確に言えば、見つかっていない」

 待て、待て待て待て。央華、南西諸島各国、オセアーノに合衆国と南部。どう考えてもこの範囲で三人は無理があるだろう。オーバーワークにも程があるぞ。移動だけで一日かかるではないか。災害が発生してから飛んでいっても間に合わないぞ。

「現実的に、それが可能であるという試算はあるのですか」

 微妙に抵抗してみる。しかし、その答えは無情なものだった。

「可能だ。発生頻度を勘案すれば、音速機で移動して、全て半日以内に殲滅が可能、との結果が出ている。これはAIによる計算でもそのように出た」

 マジか。無茶振りにも程があるだろう。音速機で移動!?そんな国家予算を年間どれだけ投入するつもりなんだ。そこまで……そこまでこのダイナソー・ディザスターというのは切羽詰まっているものなのか?

「拒否権は?」

「勿論ある。君たちは人間だ。ただ……拒否した事で、相応の人的被害が出る事になる。それを君たちが許容できるのか、という話になるね」

 最悪だ。これは人質ではないか。全世界の人の命を盾にして、こちらをコキ使おうというブラック労働の最たるものだ。しかし……しかし。

「……考えさせて下さい。一度、身の回りの人間に相談したいと思います」

 通訳の言葉を受けたエルドリッチとシャーチンが難渋を示すのが見えた。

『大丈夫です。そんなに広い範囲ではありません。一人だけ、一人だけに相談させてください』

 連合王国語と央華語でそれぞれ伝えると、彼らはアシダに向かって、くれぐれも他に漏れないようにしろ、と釘をさしていた。

「わかった。三日後にもう一度使いをやる。その時までに決めておいてくれたまえ」


 その後、いくつか質問を投げかけた後、面会の終了後に再び目隠しをつけられて、駐屯地の中を歩く。来た道なので段差ももう覚えた。危なげなく外に出て、イケメン外務官の運転するクルマに乗り込んだ。

「受けられなかったのですか」

 受けるのは受ける。だが、心の準備が欲しい。

「即答できるとお思いですか」

 外務省の人間は黙った。彼がどこまで知っているか分からないが、世界の半分の人間の命を守れと言われて、断れる人間などいないと誰もが承知しているだろう。自身の過労と引き換えに。

「外務省勤務のあなたが送迎に遣わされた理由がわかりました。全く、とんでもない事ですね」

「出来れば僕も遠慮したかったんですけどね」

 気が抜けたのか、若い官僚は一人称を変えた。

「仕事は選べません。お互い様ですね」

「そうですね。貴女と責任の重さは比べようがありませんが」

 少しだけ、この性格の悪い官僚の事がかわいそうになった。



 ソウの部屋に戻ってくると、適当な男は丁度肉野菜炒めを電子レンジから取り出している所だった。

「お?お帰り。何だったんだ?」

 それには答えず、バッグを和室に置いてキッチンに戻り、前掛けをかける。

「それだけじゃ物足りないだろ。キクラゲと卵の炒め物も作るから、飲みながら待ってろ」

 皮を剥いた玉ねぎを切れ味の良いセラミック包丁で切り刻んで、油を敷いたフライパンにぶち込む。たちまち食欲をそそる良い香りが漂いだす。

「……何だったんだよ?」

 こちらの陰鬱さを感じたのか、ソウはしつこく聞いてくる。言わなければならない。こいつに伝えるために時間的猶予を貰ったのだ。

「あのな、あの恐竜の災害、ヒノモトだけじゃなくて世界中で起こってるんだと」

「はあああああ!?」

 椅子を蹴ってソウが立ち上がった。そりゃ、そういう反応になるだろう。

 あれだけの大惨事が、ニュースにもならずに世界中で起こっているというのだ。これは最早、人類に対するテロだ。隠している情報統制は大したものだが、立ち向かう為には公開の必要だってあるだろうに。

「それで、だな。その災害を抑えるために、手伝ってくれって、言われた」

 大分ソフトな言い回しだ。実際には、各国を飛び回って現れた恐竜をぶち殺せと、そういう話なのだ。

「行くのか?」

「行かざるを得ないだろうよ。合衆国ですら、兵器が効かないんだってよ」

 あの、世界最強の戦力を持っている合衆国までもがこちらをアテにしているのだ。最新鋭の文明の利器が効かないとなれば、もうどうしようもない。ぶっちゃけ核兵器すら効果があるかどうか怪しいという話だった。そもそも使えば周辺に甚大なる被害を及ぼすために、使いたくとも使えないというのが正確な所だろうが。

「世界中って、それ、飛び回るって事になるよな」

「……そうだな。今の所、頻度はそれほどでもないって話だけど」

 三人だ。世界の半分を三人で回せと。とんでもないブラック労働である。相応の給与が支払われることを期待するしかない。

「出ていくのか」

「わからない。でも、そうなる、だろうな」

 迅速に各国へ移動するとなると、空港のある場所に詰めておくしかない。当たり前の話だ。そうなると、自分はここを離れてそこへ駐屯する事になる。

「なんで、お前だけなんだ?ミサキだけなのか?」

「聞いた限りでは、何人かいるみたいだ。ただ、今日聞いた分では今の所三人だな」

 フライパンからきくらげと卵の炒め物を下ろして、大皿に盛る。ソウの所へと持っていった。

「三人……って。それで足りるのかよ?」

「央華から合衆国と南部までだ。まぁ、半分だな」

「足りるのかよって話だよ!」

 どうだろう。わからない。

「今の頻度なら計算上は足りるそうだ。三人いればな。ただ……今の頻度、って事だから。わかるだろ」

 ビールの缶を開けてグラスに注いだ。半分ほど減っていたソウのグラスにも注ぐ。

「意味わかんねえ。たった三人で世界の半分を?ばっかじゃねえの?各国の軍は何してんだよ」

「お前も見ただろ。ミサイルじゃアレを殺せなかったんだよ。けど、俺なら殺せた。そういう事だ」

 ソウは注がれたビールを一気に呷った。瞬く間にグラスが空になる。

「核は?バンカーバスターは?サーモバリックだってMOABだってあんだろ?いくらでも兵器はあるだろうに!合衆国ですらそれなのかよ!?」

 腰を浮かせて捲し立てる。

「合衆国ですら、それなんだよ。そもそも核は使えねえだろうが」

 核は単なる抑止力だ。使えば辺り一面に甚大な被害を巻き起こす。他の大火力兵器だって、使えば周辺はただでは済まない。そして、合衆国は恐らく、それを試した。その上で効果がなかったのだ。でなければ極東のこの地で、経済と軍拡で睨み合う央華と席を共にするはずがない。

 ソウはガクンとリビングの椅子に腰を落とした。自分だって同じ気持ちだ。積み上げてきた科学の結晶が、ただ破壊するだけに特化した火力が全く通じないなんて。悪夢としか言いようがない。

「いつ、出ていくんだ」

「最終返答は三日後まで待って貰った。それまでに、準備する」

 胸が苦しい。なんだってこんなに苦しいんだ。これは、ただ死地に赴くというだけの苦しさではないだろう。

 確かにブラック労働は嫌だ。地元の中小企業に勤めていた頃でさえ、可能な限り、中間管理職としてそれを排除しようと努力してきた。だが、それと引き換えに人の命が天秤にかけられていると言われたらどうなる?

 苦しかろうが、辛かろうがやるしかない。命は失われたらそれっきりなのだ。多少辛かろうが苦しかろうが、比較できるものではない。一人一人、何十年という重みがかかっているのだ。他に出来る者がいないというのなら、自分にそれを拒否する選択肢など、無い。

「分かったよ。今まで、サンキューな」

「それはこっちの台詞だよ、馬鹿」

 僅かな時間とは言え、安心できる場所を提供してくれたのだ。ソウには感謝の気持ちしかない。しかも、居場所どころか服や身の回りの物まで。

 俯いたこちらを置いて、ソウも俯いて風呂に向かった。テーブルのグラスの中には、残された炭酸の抜けきった酒が少し、置いてけぼりにされていた。



 沈黙の日々を通り抜けた。日常は変わらず、毎朝弁当を作ってソウに持たせる。帰ってきたそいつを手作りの夕食と制限した酒で労う。ただそれだけの、安定した日々。ずっと続くと思っていたそんな日々。

 翌朝には出ていく、そんな日の夜、ソウはこちらの作った肉豆腐を頬張りながら、苦しそうに言った。

「なあ、どうにかならないのか」

「わかんないよ。でも、人の命の事だから」

「そうか。そうだな」

 理屈っぽく、適当で、それ故に無駄に物わかりの良い馬鹿は、それっきり何も言わなくなった。お互い分かっているのだ。どうしようもない事だというのは。

 ソウは理性の強い人間だ。だからこそ、事態の重要性が理解できてしまう。強い理性で感情を覆い隠し、苦しみながら納得して前に進む。この世界の多くの人間がしている事だろう。あいつだけに限らない。けれど……けれど、どうしてこうなった。竜災害とは、一体何なのだ。

 風呂に入り、和室の布団に仰向けに転がりながら考える。これは、世界共通の敵だ。ある意味各国のわだかまりを捨てて協力する契機にはなるだろう。しかし。しかし、そこには礎となる自分たちのような犠牲があってという話になる。果たしてそれは、健全な事なのか。誰にも出来ない、属人的なものを誰かに押し付けて、それで解決するものなのか。

 眠れないまま何度も寝返りを打つ。そうしていると、足音が近づいてきた。襖が静かに開かれる。

「ソウ」

 暗闇の中、立っているのは紛うことなき親友。ここ数ヶ月の間、自分を庇護してくれた最大の恩人。

「ミサキ」

 彼は部屋に入ってきた。今日が最後の夜。そう、最後の夜なのだ。

「いいよ。お前の、ソウの好きなようにして」

 こいつはずっと我慢してきた。でもそれは、ずっと一緒にいるという事を前提として、いつかその時が訪れるとしても、もう少し先の話だと後回しにして、我慢してきた。でも、そのもう少し先、が、無くなってしまったのだ。

 自ら服を脱ぎ捨てる。ここで躊躇するような間柄ではもう無い。下着姿になって、立ち尽くしているソウに抱きついた。

「今更、やめるなんて言わないよな」

「うん」

 こちらの身体を優しく抱きとめた彼は、敷かれたままの布団の上にこちらを横たえた。暗くてお互いの姿があまり良く見えないまま、手探りでお互いの身体をまさぐる。

「ミサキの身体、すごい綺麗だ。今までずっと、こうしたいって思ってた」

「別にしても良かったのに」

 お互いに分かっていたのだ。けれど、理性でそれを抑えていた。今はもう、その理性は必要ない。少なくともこの時においては。

 ソウが寝間着の尻ポケットから、銀色の箱を取り出した。

「つけるのか?」

「できたらお前が困るだろ」

 必要ない、と思われた理性も、彼にとっては必要なものだったらしい。別に、いいのに。いっそのこと、孕ませてくれればお役目から合理的に逃れられる。そういう口実になるのに。

 ソウと一緒に選んだブラとショーツが、彼の手によってずらされる。露わになったこちらの胸を、ソウの手のひらが優しく包み込む。

「すげえな、でかいとは思ってたけど、触るとよりでかいって感じる。張りがあるのに、ふにふにしてて」

「あのなぁ、普通、もうちょっとムードとか気にするもんだろ。でかいでかいって……」

 嬉しそうにこちらの乳房を揉みしだいているソウに、少し呆れる。こんな時に、そんな事しか言えないのか、もうちょっと何か、あるだろうに。

「いいだろ、別に。俺とお前の仲なんだから。ほら、こっちも」

 胸から離れた彼の手が下半身に伸びてくる。ぴくりと緊張したが、太ももを撫でる彼の手は、こちらの後ろ側に回された。

「ああ、こっちも柔らかい。ミサキ、お前ほんとエロい身体してんな」

「馬鹿、おま、この期に及んで……もっとこう」

 文句を言おうとしたが、乳房の先端に吸い付かれて言葉が止まる。こちらの身体を貪っている大切な人に、どうしようもない愛おしさが芽生えてくる。

「馬鹿」

 それ以上、何も言えなくなった。ぎこちなくこちらを愛そうと必死な彼に、こちらもぎこちないながらもそれに応える。されるがままでなく、少しずつ彼の身体に全身を絡ませていった。


「あんだけ強くても、やるときは可愛いんだな、お前」

「いつだって、可愛い、だろ」

「そうだな、ミサキは可愛い。世界一可愛い」

 異様に跳ね上がった心拍数が制御できなくなる、なんだ、こいつ。なんでこんな事言うんだ。よりによって、こんな、こんな最後の夜に。

「馬鹿」

 思いっきりソウの背中を引き寄せた。もちろん、手加減はしている。こんなに愛しい恋人を、壊してなるものか。世の中の誰からも守ってやる。そのためになら、いくらでも世界を股にかけてやろう。

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