セフィロトの騎士
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第1話 エルティの夜明け
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ーーー
———少女は、空を見上げた。
地の底で偽りの空を見上げ、未だ見ぬ天上の世界に何があるのか、若き心を弾ませた。
光を見上げる少女は、両の手に仲間たちの手を握り、冒険の一歩を踏み出した。
その先にあるものが希望であると信じて疑わぬ、強い心を持って。
ーーー
ーーーーー
「……ソフィ、準備できてる?」
少女のささやき声が、うねる穂波のように美しくやわらかな金色の毛並みを持った獣耳を揺らす。人の形をしていながら、頭頂部に猫を思わせるそれと同じ耳を持つもうひとりの少女。
「うん。いつでもいけるよ、エルちゃん」
振り返る彼女の穏やかな群青の双眸には、対照的とも言える鮮やかな真紅の長毛を後頭部で結び、咲き誇る花のように毛先を分かれさせた———獣の耳を持たない少女の明朗快活な笑顔が浮かんでいた。
青々と茂った、高い木の葉に身を隠す彼女たちは何かを待っている。赤毛の少女は腰の後ろにかけたホルスターに二本のダガーを、金色の毛並みの少女は両手で身の丈半ほどの金属製の杖を。それぞれ得意とするものは違えど、武器を持っていることには変わりなく、まるでこれから獲物が通りがかるのを待ち受ける獣のようだ。
「……来た……!」
赤毛の少女がわずかに声色を弾ませる。
数メートル見下ろす先には、重厚な足音を響かせながら土を踏みしめる大きなシルエット。突き出た口吻とそれより短くも鋭い牙、頭から背にかけて山のごとく盛り上がった筋肉とそれを支える強靭な四つ足。今まさに狩りの標的と定めている獣———ランドボアと呼ばれる体長2メートルにも及ぶ巨大なイノシシが姿を現し、彼女たちはまるで呼吸すら忘れたみたく息を殺した。
『さん、に、いち、でいくよ』
『了解。わたしはあとに続くね』
口だけをぱくぱくとさせて、発声はしないまま話す二人。事前に打ち合わせた通り、あとは獲物が二人の待機する真下に来るのを待つばかり。
ランドボア種に関わらず、イノシシは警戒心が強く見慣れないものを見つけるとそれを避けようとする習性がある。だから地上に罠を張ることはせず、もっとも自然に近い環境で油断しているところに奇襲をかけるのが得策だと彼女たちは知っていた。
イノシシの視界では真上は完全な死角となる。地面に鼻先を寄せ、匂いを嗅ぎながらゆっくりと歩く獣がちょうど足下まで来るというタイミングに合わせて指で数字の3からカウントダウンをして———
「———とぉりゃあああぁぁぁーーーーーーッ!!!」
大声で叫びながら、飛びかかる。
イノシシは嗅覚の次に聴覚が優れた生き物だ。そして、聞き慣れない音を耳にした時、その出処が明らかになるまで硬直するという習性を持つ。つまり、低い視界に入らない頭上から、突然大声を上げて襲撃するという手段は非常に合理的だと言えるのだ。
「いよっとぉ!」
「—————!!?」
少女は木の上から一直線に降りてランドボアの背中に跨ると同時に、両手でダガーを抜いてガラ空きのそこへ刃を突き立てる。
突如として自分の身を襲う激痛に、獣はたまらずに甲高い鳴き声を上げて文字通りの猪突猛進を始めた。
「あははは、すっごいパワフル〜!」
全力で走り回るランドボアの背中で、特徴的な赤毛と身体をガクガクと揺さぶられながらも少女は平然と獲物の活きの良さに笑っている。突然現れた敵を振り落とそうと、その躯体を無茶苦茶に左右に振り回すも、少女の手は突き刺さったままのダガーに固定されているかのように離れない。
その刃渡りは40cmを超える、殺傷能力に優れたものではあるが、人間よりひと回り以上も大きい野生動物を急所への攻撃以外で仕留め切るには不十分だ。このまま背中から降りれば真正面から対峙することになるが———彼女"たち"の策はそれだけではなかった。
「ソフィ、今だよ!」
ランドボアが方向転換をしたところで、大声で合図を出す。すると、同じように木の上から飛び降りた金色の髪の少女が目の前に立ちはだかり、まっすぐに突っ込んでくる猛獣にも怯まずに両手で杖を構える。
「
そう呟くと同時に、少女の足元と周囲がにわかに発光し始めた。頭上に掲げた杖をクルクルと回せば、収束する光の粒が彼女の前を覆うように壁を形成する。それを振り下ろし、地面に突き立てる次の瞬間———
「
展開される、無数の光の六角形が蜂の巣状に連なり合ってできた障壁。一瞬にして目の前に現れるそれを、走り回ってトップスピードに乗った獣が避けられるはずもなく、すさまじい勢いのままに激突する。
それでもなお砕けるどころかヒビすら入らない障壁とその向こう側の少女。体格では圧倒的に勝っていながら、前足を高く上げてよろめいたのはランドボアの方だ。バランスを崩し、倒れ込みそうになる背中から離れて地面を転がり、相棒と足を並べる赤毛の少女は獲物が相当な衝撃を全身に受け、かなりのダメージを受けているのを確信する。
「エルちゃん、気をつけて!まだ動けるみたい!」
しかし、まだ終わらない。
ランドボアは立ち上がり、その怒りを示すかのように前足で地面を掻く動作を見せる。今にも突進を始めそうな怒れる獣を前に、赤毛の少女は恐れることなくダガーを逆手に構えた。
「ソフィは下がって、あとは私がやる!」
にっと笑いながら前へ飛び出す少女。示し合わせたように猛進し出すランドボア。このまま行けば、まず間違いなく少女が弾き飛ばされるという状況ですら動揺を見せなかったのは、彼女たちがお互いに全幅の信頼を寄せているからだ。
姿勢を屈めて駆ける少女、その鼻先に獣の牙が突き刺さるという寸前———
「それっ!」
身体を横に捻りながらランドボアの頭上を飛び越し、勢いのままに背中を切りつける。鮮血が飛び散り、痛みに鳴き喚きながらもすぐさま後ろへ振り返って頭突きを繰り出すも、少女は簡単にくるりと回り込むようなステップでいなしつつ体側を切り裂いた。
「せーの!」
回転の勢いに乗るかのごとく、片足の踵だけを軸にして、武器を水平に構える少女。よろめくランドボアは隙だらけ、その巨体が今ばかりは鈍重なだけの攻撃を避けられない格好の的になる。
「
回転することで遠心力の加わった斬撃。双剣によって重ねられるそれが二回、三回、四回転と一瞬にして繰り返されて一点に深い傷跡を残す必殺技。毛皮しか覆うもののない皮膚は容易に引き裂かれ、夥しい血を噴き出していく。それでもなお、ランドボアは立って少女たちを睨み据えているように見えた、が———
「お? お………おぉー…」
片足から崩れ落ち、ついにはそのまま倒れ伏す躯体。完全に戦う力を失った獲物を前にして、二人は武器を収める。
「やった……のかな?」
「うん、これだけ血が出たらもう立てないでしょ」
顔を見合わせる二人はどちらともなく笑みを浮かべ、片手を上げる。そして———
「イェーイ!」
「イェーイ!」
高らかに、ハイタッチを交わした。
これは二人にとって、敵を打ち倒した喜びを分かち合うお決まりのスキンシップだ。言葉に出さずとも、すぐにそれを行う以心伝心ぶりは彼女らの仲の良さを表す証左でもある。
その後すぐ、赤毛の少女は思い出したかのように数メートルほど遠くにある木の上に向かって大きく手を振った。
「おーい!もう出てきても大丈夫だよー!」
そう呼びかければ、木の幹を伝って降りてくるのは三人の子供。すぐさま駆け寄ってくる彼女たちは、地面に倒れ伏すランドボアを見て一斉に感嘆の声を上げた。
「わあ…!エルティおねえちゃん、ホントにこんなおっきいのやっつけちゃったの!?」
「そだよー、ソフィも頑張ったんだよー」
「ソフィアおねえちゃん、かっこいー!」
「ふふ、ありがとう。これでもう村の作物は荒らされずに済むね」
キラキラとした眼差しを向けられる赤毛の少女———エルティ。彼女は自分だけの功績ではないと、隣に立つ金色の髪の少女———ソフィアを褒め称える。彼女たちは、自分の住む村の作物を荒らす害獣を駆除しに外へ出ていたのだった。
「ソフィったらすごかったんだよ?このボインボインのおっぱいで、ランドボアの突進をボヨヨーンって跳ね返しちゃってさ!」
「えぇ!?ウソぉー!」
「エ、エルちゃん…さすがに無理があるよ…」
見え透いたエルティの嘘に呆れるソフィア。しかし、まだ幼い三人の子供たちは猫の耳と尻尾を動かして興味津々とばかりに聞いている。
当たり前のように話しているが、エルティとソフィアは種族が違う。獣の耳も尻尾も持たない、
そんな彼女たちがお互いの名前を縮めて呼び合うほどに親密な仲でいられるのは、産まれた頃からずっと一緒にいる、心で通じ合う親友同士だからなのだろう。
「ねえ、エルティおねえちゃん……このイノシシ、ホントに動かないの?」
垂れ目のおとなしげな子供がエルティの服の裾を引っ張りながら訊ねる。
「うん、まだ生きてはいるけどね。毒が全身に染み渡ったし、これだけ出血してればもう動けないよ」
そう言いながらダガーを掲げて見せるエルティ。外傷だけで致命傷を負わせるには不向きな武器ではあったが、彼女はその刃に毒を塗ることで傷付けた獲物の動きが鈍るのを待っていたのだ。
「長く苦しませるのも可哀想だから……エルちゃん、先にトドメを刺してあげて?」
「ん……そうだね」
子供にはショッキングだから、と言うエルティに頷き、子供たちを後ろに向かせるソフィア。地面に倒れ伏したまま、浅く呼吸を繰り返すランドボアの前でエルティは腰を下ろしてつぶやく。
「ごめんね、あんたも生きるのに必死なんだろうけど……作物を荒らした害獣は仕留める、それが村の掟だから。悪く思わないでね」
お互いに憎しみはない。ただ、生きるため。その生存競争に負けた、それだけの理由。弱肉強食の世界のルールを自分に言い聞かせるように、首の真下から心臓目掛けてダガーを突き入れた。
ーーーーー
「エルちゃん、返り血がついてるよ」
「え?うわ、ホントだ!服にまで結構ついちゃったな〜……あとで地底海の方で洗わないと」
狩りを行なった森林地帯から、ずっと離れた場所にエルティたちの住む村がある。加工した木材で作られた門を抜けて中に入れば、村人たちが働き回り、藁と木と土で作られた家屋が立ち並ぶ、見慣れた景色が変わらぬ安堵感をもたらしてくれる。右を見ても左を見ても、猫の尻尾と耳、尻尾と耳、尻尾と耳……そう、この村はエルティを除いた人口の全てが猫人で占められているのだ。
戻ってきたエルティとソフィア、そして三人の子供たちに気付き、見知った二人が声をかけてくる。片方は表情と声のトーンに抑揚のない、白く癖のある長髪の猫人、ジニア。もう片方は灰色の髪を後ろでくくって垂らし、肩に金属加工用のハンマーを担いだ猫人…ラスミスだ。
「エル、ソフィ。戻ってたんだ」
「おー、二人とも。怪我はねえみてーだな……って、リグレットにアラン、ルーノ、お前らまで行ってたのか?怪我してないだろうな?」
それぞれ呼ばれた三人組は元気よく返事をする。一番おとなしい垂れ目のリグレット、いつも元気に走り回っているアラン、勉強が好きなルーノ。彼女たちに限らず、村の子供たちはとても大切にされている財産そのものだ。
それゆえに、危険な場所に連れ回したエルティに怪訝な表情を向けるのも無理はない。
「また勝手に村の外まで連れ出して……ばーさまにどやされても知らねえぞ」
「平気だって!私たちがついてるし、村の遊びだけじゃ退屈でかわいそうじゃん!ねー!」
「「「ねー!」」」
顔を見合わせて同調するエルティと三人組に呆れたようにため息を吐くラスミス。しかし、彼女が強く叱責しないのはソフィアが子供たちの面倒を見てくれるのなら安心だ、と確信しているからでもある。
「エル、何か面白いものはあった?」
「ううん、今日はまだ作物を荒らしてたランドボアを仕留めただけ」
「そう………」
「うわ、すげえつまんなそうな顔してる!あの大物仕留めたって、村にとっちゃおおごとだろ!」
エルティとソフィアが狩ったランドボアは、持ち前の突進力で獣除けの柵を壊しては作物を荒らしていく村全体の悩みの種だった。それが解決したとなれば、誰もが大喜びするようなことだが村の中でも特に変わり者なジニアは特に興味を示さない。
彼女が興味を持つ物と言えば、外に出かけるたびにエルティが持ち帰る謎の機械の部品ばかり。村に住む人々の主な仕事は農耕や裁縫、食材の加工に家畜の世話など多岐に渡るが、ジニアは生まれついた頃から機械の部品にばかり興味を示し、そこから様々な機械を作り出してきた天才児だ。事実、彼女の発明で村の作業効率が発展した例はいくつもある。
「あとで地底海の方に行くからさ、また水辺に変な部品が落ちてたら拾ってくるよ!」
「ん…お願い」
と、やりとりをしているそこへ。
「これ、エルティ、ソフィア!」
「あだっ!?」
視界の外から伸びてくる、曲がりくねった木の棒がエルティの頭を叩いた。
「子供らの姿が見えんと思ったら、また勝手に連れ出しおって!怪我でもしたらどうするんじゃ!」
「いったぁ〜…!なんで私だけ!」
エルティと対面し、しかめっ面を見せるのは、村で一番の物知りで長生きな長老———村人たちにばーさまと呼び慕われる老いた女性。杖をつき、腰の曲がった彼女も例に漏れず、頭頂部に猫の耳と尾骶骨に尻尾を持つ猫人だ。
そんな二人の様子を、ソフィアは苦笑し、ラスミスは「だから言ったのに」とでも言いたげな呆れ顔を浮かべ、ジニアは無表情で見守っていた。
「おおかたおぬしがついてこいとでも言ったんじゃろう、子供らに聞かんでもわかるわい」
「ひどいよ、まだ聞いてもないのに!」
「ソフィア、どうなんじゃ」
「えっと……エルちゃんがみんなをこっそり連れ出しちゃって……」
「ソ、ソフィ〜!!」
ごめんね、と謝るソフィア。唯一無二の親友のためでも、嘘をつけなかったのは彼女自身も長老に多大な恩義があるからだ。
「まったく…おぬしら二人は戦えるからいいが、子供らはまだマナの基本的なコントロールすらも習熟しとらんのじゃぞ」
懇々と説き始める長老。
マナとは、大気中に含まれ、呼吸のたびに血液と共に人体で循環する力の源だ。普段は目に見えないほどに微細な粒子だが、ソフィアのように優れたマナ技術———
先の戦闘でエルティが見せた身のこなしもマナの作用によるものだ。彼女はソフィアみたく大気中のマナを操作することは苦手だが、自身の体内に存在するそれを使って身体能力を強化させられる。それぞれの体質で得意不得意は明確に決まっており、エルティとソフィアはお互いの短所を長所でカバーするように戦うのを得意としているのだが、長老は子供たちがまだ自衛の手段を持たないことを懸念していた。
「わ、私たちがついてれば大丈夫だって!それに、ほら!」
追及を免れたいのか、あるいは村の人々に朗報を伝えたいのか、エルティが取り出してみせたのは腕ほどの長さもある巨大な牙。受け取った長老の手が下に降りてしまうくらいずっしりとしたそれは、害獣の中でも類を見ないサイズの大物を斃した証だ。
「むう……おぬしら、あの大ヌシを仕留めたのか」
「そうそう!私たちだけじゃ重すぎて運べないけど、これなら狩った証拠になるでしょ!」
「なんとまあ、大したものじゃ…これでは叱るに叱れんでの」
村の生活を脅かしていたランドボア。食料を荒らすだけではなく、人に危害を加える可能性もあった害獣を仕留めたという話は、その場で聞いていた村人たちからすぐさま広まって、どんどん大きな人だかりになる。
長老も、多大な功績を上げてたくさんの人に囲まれる二人をこれ以上叱責するわけにもいかず、観念したように小さく息を吐いた。
「ともかく、他の獣に食い荒らされんうちに死体を運ばんといかんの。手の空いてる者は森の方に行っとくれ」
長老の指示で、獲物の解体と運搬の人員が決められる。その後ろで、エルティは得意げに後頭部で手を組みながら言う。
「えへへ……これでばーさまも認めてくれるでしょ?もうグランピアに行ってもいいって」
…が、しかし。
「ならん」
「えー!?」
目論見を一蹴する長老に大声を上げるエルティ。
そう、危険を冒してまで巨大なランドボアに挑んだのは、彼女の願いとも言える目的があったからだ。
「なんでさ!?今日は恵水節の生誕祭の日でしょ!私たち、十六歳になるんだからもう大人だよ!」
「ダメじゃ。地上に行くことは許さぬ」
「むうう……あれだけの大物を倒してダメなら、どうやったら認めてくれるの!?」
「……地上の世界は危険に満ちておる。おぬしらが外に出たとしても、すぐに死ぬるだけじゃ」
「そんなの、実際に出てみなきゃ分かんないでしょ!」
エルティは聞く耳を持たない長老にむむむ、と唸る。ソフィアもそれを難しい顔で見守っていた。
彼女らが住むのは、地底の村。見上げる空は「日天球」と呼ばれる光球で照らされているが、村のように人の手入れがされている場所以外は石や岩盤が剥き出しになっている土地。
「グランピア」と呼ぶ地上の世界が存在するのは知っているが、長老はそこに村の者が行くのを良しとしない。それも、このやり取りはエルティが今よりずっと幼い子供の頃から続けられていたものだ。
「……そんなに母親のことが気になるのか?」
「当然!私たちが子供の頃に村を出て行ってから、ずっと帰ってきてないんだもん!」
エルティの母親とソフィアの母親。その二人は彼女たちがまだ物心つく以前に村を出て地上の世界に行ったきり、帰ってくることはなかった。本当に長老の言う通り、地上は危険な場所でどこかで命を落としてしまったのか、あるいは帰れない事情があるのか。外に出ることを禁じられているエルティは、そればかりが気がかりだったのだ。
「尚のことじゃ。村の外ならまだしも、危険だと分かっていてみすみす行かせるようなやつはおらんわい」
「も〜!!ばーさまのわからず屋!スカポンタン!」
「ま、まあまあ…エルちゃん、ばーさまの言い分も正しいよ。わたしたちのことを心配して言ってくれてるんだし…」
「それは…分かってるけどさ…」
バツの悪そうな顔を浮かべるのを宥めるソフィア。エルティよりも穏やかで、落ち着きのある性格の彼女は人の機微にも聡い。子供の頃に母親が姿を消してしまってからというもの、親代わりとなって育ててくれた長老が危険な場所に行かせまいと案じているのを的確に汲み取っている。
「けどさ、ばーさま。私はエルの言うことも一理あるって思うぜ」
「む……」
くすぶるエルティを見兼ねてか、ラスミスが声を上げた。
「右に同じ」
それに続いて、ジニアも同意する。
「外は危険なのかもしれねえけど、二人があのランドボアを仕留めたのも事実だろ?少なくとも腕っぷしならエルもソフィも村じゃ一番だって、いつも組手に付き合ってる私が保証するぜ」
「私たち、今日で十六歳。自分で自分のやることを決めるのが大人だって言ったのはばーさま」
「むう……」
長老は顎に手を当てて考え始めた。エルティがごねるのはいつも通りとして、同じ節の生まれであるラスミスとジニアまで同調してくるのは初めての出来事だ。ソフィアは相変わらず行方を見守るだけだが、エルティが行くと言えば彼女もついて行くのは明白だ。
「しかしのう……村の掟として定めてある以上、おいそれと破るわけには……」
「そんな細かいことばっかり気にしてるからシワが増えるんだよ!」
その時、エルティの脳天で鈍い音が炸裂した。
「……おぬしらの言いたいこともわかる。若者にとっちゃあ村の暮らしが退屈なのもわかっとるつもりじゃ。じゃがの、すぐにはウンと言えない老いぼれの気持ちも分かっとくれ」
頭から煙を上げて地面に沈んでいるエルティを横目で見ながらも、長老の話に皆が耳を傾ける。結局のところ、村を治めるこの人が首を縦に振らなければ掟は変わらないのだ。
「そうじゃの……少しばかり、考えてみる必要があるかもしれんの……」
しかし、この日は違った。いつもよりもずっと好意的な返事を残してその場を後にする長老。ラスミスはいまだ床に伏せるエルティのたんこぶをつつきながら声をかける。
「おい、聞いてたか?」
「ちゃんと聞こえてたよ……あたたた……」
「なんだか、もしかしたら許してくれそうな雰囲気だったよね…ラスミスちゃんもジニアちゃんも、ありがとうね」
「はっ、体のいい厄介払いができそうだから協力したってだけだ」
「露骨に照れ隠し…」
ぼそり、と呟くジニアに「余計なこと言うな」などと声を大にするラスミス、それに乗じてさらにからかい始めるエルティ。なんだかんだ言っても、同世代の四人は腐れ縁とも言うべきか、長い付き合いに見合うだけの関係性ができていた。
そんな三人をにこやかに見守っていると、ソフィアはふとスカートを引っ張られている感覚に振り返る。
「ソフィアおねえちゃん、おさいほう教えて〜」
垂れ目でおとなしいリグレット。可愛らしくねだられるが、困ったふうに笑顔を浮かべながら頭を撫でてやって。
「ごめんね、この後地底海の方に行かないといけないから…また今度でもいいかな?」
「え〜…」
あやしたつもりがリグレットは不服そうな顔を見せる。しかし彼女たちは子供の相手も慣れたもので。
「今日の生誕祭のためにご馳走いっぱい獲ってくるからね!楽しみに待ってて!」
「ごちそう…おなかいっぱい食べられる?」
「もちろん!ランドボアの肉も好きなだけ食べていいからね〜!」
「ホント!?」
胸を張って言うエルティに、リグレットも、アランもルーノもみんな目を輝かせた。慣れているだけあって子供のご機嫌取りはお手の物だ。そして、そのいなし方も。
「あとはラスミスに遊んでもらって!それじゃ!」
「はーい!」
「あっ、おい!丸投げしやがったな!」
子供の世話を押し付けられたラスミスが振り返るが、すでにエルティは走り出している。
「ソフィ、行こっ!」
「う、うん!あと、よろしくね!」
それに続くソフィア。追いかけようとするが、遊んでもらえると思って目を輝かせている子供たちを前に、早々に諦めたラスミスは小さくため息を吐いた。
「まったく、しょうがない……よしお前ら、ランチキンでも追っかけ回すか!」
「やったー!!」
ランチキンとは、村で飼育されている家畜のことだ。その名前の通り、後ろから追いかけられるとひたすら逃げ回る習性のある鶏で、若いうちから追いかけ回して筋肉をしなやかに発達させると独特の旨味がついてくる。そのため、村の子供たちにとってランチキンは遊び相手であると共に、お祝いごとに欠かせないご馳走でもあるのだ。
「ジニア、お前も付き合え!」
「えぇ…走るのやだ…」
「やだじゃない、たまには身体動かせ!運動不足だろお前!」
肩を組まれ、ずるずると引きずられていくジニア。インドア派の彼女にとって、運動はまさに大敵だった。
ーーーーー
村を出て、森とは真逆の方面。ゆるやかな下り坂をずっと歩いた先に地底海がある。彼女らの住む村周辺は日天球によって照らされているが、地底にはその光が届かない場所も多く、水辺はほんのりと薄暗い。
「エルちゃん、水の中までは光が届かないから…日天球の欠片、着けるのを忘れないでね」
「うん、大丈夫!」
目の前には見渡す限りの広大な水溜まり。村に住むたくさんの人々はそれぞれの仕事があるが、エルティとソフィアの役割は専らの狩りだ。文字通り、獣を狩りに出かけるのはもちろんのこと、こうして水場で獲れる食料を探しに来ることもある。
その目的の半分は、外に出ないジニアの代わりに水辺に流れ着く機械の部品を拾いに行くことでもあるが。
「それじゃ…わたしはここで火を起こして待ってるね」
「あはは、ソフィもみんなも濡れるの苦手だもんね!」
ソフィアを含む、村の猫人たちは種族の特性ゆえか、冷水に濡れることを本能的に嫌がる。だから、魚介類の採取は実質的にエルティの専門だ。枯れ木を集めて火の準備をするソフィアをよそに、彼女はぽいぽいと服を脱ぎ捨て、獣の皮でできた簡素な下着だけになりながら水面へと駆け出して。
「いやっほーーーーーーう!!!」
勢いよく飛び込んだ。
地底の水は非常に冷たく、それこそすぐに低体温症になってしまうほど。そのため、水場での漁は一度潜って獲物を探し当て、上がって身体を温めてはまた潜っての繰り返しとなる。エルティは以前に水底に仕掛けていた罠を目当てに、腰布に括りつけた日天球の欠片を頼りにしながら潜水していった。
(……あった!中身は……おっ!)
水底に設置していた木筒の罠。内部にエサを入れ、入口は漏斗状にできており、一度入ったら出られないようになるという作りだ。格子状になっている覗き穴から見てみれば、中には透き通るように白い体色のエビが数匹。
ケイブプラウンと呼ばれるエビで、淡白な味わいながら食感がよく、塩を振るだけでも十分に美味しくいただける食材だ。特に、焼いたものは大人たちに人気がある。
(他に仕掛けたやつは……)
上物を手に入れ、気持ちを弾ませながら別の場所の罠を探そうとした時———
『———フフ……』
(え?)
どこからか響いた、誰かが笑うような声。
それは水中だというのに、やけにクリアに聞こえた気がした。
『真人様……ずっと……ずっと、あなたをお待ちしておりますわ……』
「……………?」
思わず周りを見回すが、当然ながら水中に人がいるはずもない。気のせいで片付けるのにはあまりに気になりすぎると思いつつも、そうしているうちに息が続かなくなりエルティは慌てて浮上する。
「ぶはっ!はー、はー…」
「エルちゃん、大丈夫ー!?」
気が付けばずいぶん長い間潜っていたのか、水面に上がるなり立ち上がって声をかけてくるソフィア。心配そうに眉を下げる彼女に「大丈夫!」と手を振って、エルティはついさっきの出来事について訊ねた。
「ねえソフィ、さっき何か言ってたー?」
「えっ?ううん、ずっとエルちゃんが上がってこないか眺めてたけど…」
なら、あれはいったいなんだったのか。珍しく怪訝な顔つきをしているエルティに、今度はソフィアが訊ねる。
「何かあったのー?」
「なんかね、誰かの声が聞こえたような気がしたんだよ!」
「声?」
「うん、私のことを待ってるとかなんとか…」
エルティもソフィアも、うーんと首を傾げる。そもそも水中に人間がいるはずがない、という意見は言わずとも一致するだろう。結局その結論が出ることはなく。
「まあ、考えてもしょうがないや!まだ見てない罠はいっぱいあるからさ、そのついでに誰かいないか探してみる!」
「う、うん…冷えないうちに上がってきてねー!」
再び潜水を始める。それからエルティは息継ぎをしつつ水底の罠を回収していったが、あれっきり謎の声が聞こえることはなかった。
……それから、しばらくして。
「おーい、そろそろ日天球が切り替わる頃だぞ……って、なんですっぽんぽんなんだよお前は……」
「しょうがないじゃん、服乾かさないと風邪引いちゃうし血もついてたんだから!」
エルティとソフィアを呼び戻しに来たのはラスミスだ。日天球は時間の経過によって「夜天球」と呼ばれる光量の少ないものに変わり、地底に住む人々に夜の訪れを感じさせる。
もともと日天球の光があまり届かない場所では時間の流れが掴みづらく、そのためにラスミスが迎えにきたのだが、彼女は焚き火のそばで休憩している素っ裸のエルティと棒にかけられた衣服を見て呆れていた。
「生誕祭の準備、もう始めてる?」
「ああ、ばーさまが戻ってこいってさ。さっさと服着て準備しろよ」
「オッケー!ケイブプラウン、いっぱい獲れたからラスミスも持って!」
水底から回収した罠を手分けして持ち運ぶ三人。ラスミス曰く、ジニアは子供たちのランチキンかけっこに付き合ってバテてしまったために置いてきたようだ。そして、村に戻ると夜に備えて火を灯した燭台が広場を照らし、そこでたくさんの村人たちが生誕祭の準備を進めていた。
エルティたちの村では、およそ30日で区切られた節ごとの半ばに、その節の生まれの村人をまとめて祝う風習がある。エルティ、ソフィア、ラスミス、ジニアの四人は同じ節に生まれた子供で、十六歳となるこの日のお祝いを楽しみに待ちわびていた。
「ふふ……エルちゃん、楽しそう……」
「ソフィは踊らないのか?」
ソフィアの隣に腰を下ろすラスミス。中を空洞にした木筒に獣の皮を張った打楽器や、四角形の平たい木の胴に竿を取り付けて弦を伸ばした弦楽器などの楽しげな音楽が奏でられる村の広場ではエルティがひときわ目立ちながら踊っている。彼女は踊ることが大好きで、音楽があれば周囲の誰かを巻き込んで踊り出してしまうほどだ。ソフィアはそんな彼女を微笑ましげに眺めている。
「わたしは今食べたばっかりだから…ちょっと休憩中」
「なら私と一緒だな、はは」
しばらく、踊っているエルティと付き合わされるジニアを眺めてからラスミスが口を開いた。
「あいつ……ずっとグランピアに行きたいって言ってるけど、行って何をするつもりなんだろうな。ばーさまの言う通りなら危険でいっぱいの場所なんだろ?」
「うーん……単純に村での生活に退屈してるとかじゃないかな……」
それもそうだな、とラスミスはこぼす。彼女たちの村は時々害獣が作物を荒らしたり、家畜を襲ったりなどの被害はあるが平和で長閑そのものだ。毎朝起きては畑と家畜の世話をし、作物の収穫をして、たまに編み物をする生活は若者にとって刺激のない退屈な日々だろう。だからこそ、エルティやジニアのような変わり者が出てくるのは仕方ない環境とも言える。
「あと……」
「あと?」
「……エルちゃん、お母さんに会いたいんだよ、きっと」
そう呟くソフィアの目はどこか物憂げだった。
それを聞いたラスミスもまたいたたまれない気持ちになる。同世代の子供として、友達として、早くから親と生き別れた寂しさは推し量っても量りきれないものだろう。
「…でもよ、もう十二年だろ?それだけ待って帰ってこないってことは…」
歯切れが悪いのは、エルティの親について素直に言及するのを申し訳なく思っているからだ。だからといって、ソフィアもそれを理解しているし、怒りを覚えることもなく返す。
「うん……それはたぶんエルちゃんも分かってると思う。でもね……エルちゃんは自分の目で、耳で確かめて納得したいんじゃないかな」
ラスミスは、きっと自分でもそうするだろうなと思った。帰ってこないことは分かっていても、どうしてそんなことになったのか、地上の世界にどんなものがあるのかを自分の目で見て納得したい。ソフィアのその推測は妙に説得力があって、ある憶測が浮かんだ。
「それってさ……ソフィもそう思ってるってことか?」
「あはは……バレちゃうよね」
ソフィアは苦笑をこぼす。彼女の母親もまた、エルティの母親と同じように幼少期に地上の世界に行ったきり戻ってきていない。性格は違っても、考え方は似たり寄ったりだと思うと二人の仲の良さについ表情が綻んだ。
「二人とも、なーに話してるの!せっかくなんだから一緒に踊ろうよー!」
「ラ……ラスミス…ソフィ……た、たす……たすけて……」
そこへやってくるのは、リズムに合わせてステップを踏んでいる楽しげなエルティとすでにへとへとになっているジニア。ただでさえ昼間子供たちに付き合わされて走り回ったせいで体力を使い果たしているのに、ノリに乗っているエルティに巻き込まれてもう限界とばかりに呻きながら倒れ込む。
「ぜぇ……ぜぇ……死ぬ……」
「あははは、次はソフィだよ!ほらほら、行こっ!」
「わっ!ま、待ってよエルちゃん、わたし、食べたばっかりだから……もう!」
腕を引っ張られ、困り笑顔を浮かべながらも立ち上がって小走りでついていくソフィア。彼女の背中を見つめながら、エルが地上に行くのならあいつもきっとついていくんだろうな、とラスミスは心の中でつぶやいた。
「……なんだかんだ、私らももう十六歳だもんな。この村を取り巻く景色が何も変わってないように見えても、少しずつ物の見え方ってもんが変わってくる頃だよな」
「こひゅー……こひゅー……」
「……お前、マジで体力ないのな……」
返事をする気力すらないジニアに、ラスミスは呆れながら水を渡した。
ーーーーー
その後、彼女たちは疲労困憊で動けないジニアを家まで運んでやっていた。
「ぐえっ……もうちょっと優しく下ろして……」
「運んでやっただけありがたく思え」
「元はと言えばラスミスがランチキンの追いかけっこに付き合わせたからでしょ……」
木で作られたベッドに下ろされるなり文句を言うジニアと、それに言い返すラスミスのいつものやり取りが始まる。そんな二人をよそに、家の中をしげしげと眺めるエルティとソフィア。
「しばらく見ないうちにまた物が増えてる……」
「これ、こないだ拾ってきた部品?これはなにに使う機械なの?」
ジニアの家は、いつだって村の中でも異質な空間だ。エルティが地底海で拾ってきた謎の金属のパーツを繋ぎ合わせたよく分からない四角い操作盤のような物体だったり、あるいはパーツとパーツを繋ぎ合わせる骨子のような部品だったり、そういったもので足の踏み場もないほど埋め尽くされている。それらの大半は彼女以外には理解できないもので、エルティたちはいつも興味津々に訊ねていた。
「……そこら辺のやつはあんまり面白いのない。そこの棚にあるやつなら珍しいかも」
「これか?」
寝転んだまま指を差した方向にラスミスが向かう。棚の上にあったのは、手に持てる程度の平たい鉄板に丸い車輪のようなパーツが四つくっついた箱状の機械と、同じくらいの平たい鉄板に何やら丸い突起が複数個ある機械のペア。
「そっちを床に置いて…操作機の方を貸して」
「ほれ」
「ちょっ……投げないでよ、機械っていうのは中身がデリケートなんだから。乱暴に扱ったらすぐ壊れるでしょ」
「なになに?なにが始まるの?」
見るからにわくわくしているエルティ、ゆらゆらと猫の尻尾を揺らして興味を示すソフィア、怪訝な表情を見せるラスミス。ベッドから身体だけを起こし、操作機と呼んだ機械をジニアが動かすと、触れてもいないはずの箱状の機械が車輪を回転させてひとりでに走り始めたのだ。
「うわっ!?動いた!?」
「うおおっ、すげえ!走ってるぞ!」
「ジニアちゃんが動かしてるの!?」
まさに三者三様の反応。どうやって動いているのか、床を走り回る車輪を目で追いかける三人がどこか可笑しくてジニアはしばらくそれを操作していた。
「ねえジニア、これってどうやって動いてるの?」
「……詳しい原理はまだ調べてる最中。分かってるのは、こっちの操作機が遠隔で機械を動かすセンサーみたいな役割を持ってることと…そっちの車には対応する受信機があること」
「目に見えない何かで動いてるのかな……マナだったら青い光の流れが見えるよね?」
マナによって触れずに物体を動かす、という技術はとても一般的なものだ。しかし、その場合は大気中のマナと人体から放出されるマナが反応を起こして青い光の流れという形で可視化される。それが見えない、ということは何か別の動力が存在しているということ。
「憶測の域を出ないけど、おそらく通常とは別のマナ変換が機械同士の間で発生してる。物体に宿り、可視化しづらい属性のマナ……個人的には電気が関係してると思うんだけど」
「電気って、布を擦ったりした時にたまにバチッてくるあれ?」
「そう。エルがたまたま拾ってきたのが生きてる部品だったからそれが分かった。今までは外板の中に基本構造となる盤面があっても、どうやっても動かすことができなかったから…これは大躍進だよ」
「そうなの?よくわかんないけど、すごいね!」
エルティは自分よりもずっとジニアの方が賢いと理解している。彼女の説明する理論が分からなくても、自分にできないことをできる相手はすごいものだと褒める純粋さは周囲の人々を惹き付ける愛想と言える。
「それはそれとして……エルに機械の部品を集めてもらって、最近確信したことがある」
「確信?」
「うん。この部品のほとんどは……グランピアに居るとされる、機械兵のものだと思う」
「それって……!!」
エルティが目を輝かせ、ソフィアとラスミスもにわかに目を見開いた。
「機械兵って……伝承に伝わるアレか?」
「えぇっと……グランピアにいて、人間の仕事を代わりにやってくれるってやつだよね?」
立てた人差し指をくるくると回しながら、改めて一同の認識を共有すべく説明するソフィア。彼女たちの村に伝わる伝承においては、地上の世界であるグランピアにはたくさんの真人が暮らしており、地底の世界———アガルピアよりもずっと多くの緑に溢れているという。労働は人間の代わりにたくさんの機械兵が行なっているものとされ、そして、世界の中心にそびえ立つ「生命の樹セフィロト」からは毎日マナの恵みが降り注ぐ楽園と言われている。
その伝承の裏付けとして、機械兵の存在が証明されれば、グランピアに行くことを夢見るエルティにはより大きな希望となるだろう。
「これまでたくさんの部品を集めてもらったけど……そのほとんどがひとつでは完結していない機械ばかり。何かとくっついていた形跡があるものを、それぞれ一致する規格の部品同士で繋ぎ合わせていってみると……私たちよりひと回りもふた回りも大きい、人型の機械になることがわかったんだ」
「おおおおお!!人型っていうことは、やっぱり人間に代わって仕事をするための機械なんじゃない!?」
「エ、エルちゃん、しーっ……もう遅いんだから、大声出してばーさまに見つかったらまたどやされるよ?」
口の前で人差し指を立てるソフィアに窘められ、慌てて口を押さえる。しかし、エルティの目は輝いたままだ。
「はああぁ……機械兵ってホントにいるんだ……!グランピア、どんな世界なんだろう…やっぱり伝承通りなのかな!」
「エルもそうだろうけど……私個人としてもグランピアでどんな機械が動いてるのかは気になる。もう少しサンプルが欲しいところだから……これからも地底海に何か流れ着いてないか探しておいて」
「もっちろん!ジニアは私の心の友だよ!大好きだよ〜愛してるよ〜!!」
がばり、と全身を使ってエルティはジニアに抱き着く。大好きなエルティが遠慮なく人に大胆なスキンシップをしているのを見てソフィアはおろおろするが、それ以上咎めるようなことはせずにいた。
ーーーーー
それから、もう夜も遅いということで解散したいつもの四人組。エルティとソフィアは二人で住む家に戻り、獣皮でできた簡素な下着に着替えて寝支度をしていた。
エルティのものは肩を出して裾はお腹の上までの丈のトップスとハーフパンツ、ソフィアのものは半袖で上下の繋がったオールインワン加工のものだ。村の子供たちの間でも好みは分かれるところだが、どちらかと言えばエルティが着ている方が若者人気があるらしい。
「っはぁー!いや〜、疲れた疲れた…今日はどんちゃん騒ぎだったね〜」
「うん、十六歳の生誕祭だから…それにエルちゃんはずっと踊ってたし」
寝床にごろんと転がるエルティ。それを微笑ましく見つめながらソフィアも自分の寝床に腰を下ろす。
「……エルちゃん、ご機嫌だね」
「んふふ、わかっちゃう?」
「やっぱり、さっきの機械兵のこと?」
そう聞くと、にんまりと笑いながら振り向く。エルティのことはソフィアにはなんでもお見通しだ。
「だって…ずっと憧れてたんだもん、グランピアの世界に!その伝承の証明でしょ、ジニアの言ってた機械って!私、もうワクワクしちゃって……!うっひゃ〜!コーフンして眠れないよ〜!!」
「あはは……」
枕を抱えながらゴロゴロ、ゴロゴロ。ジニアの家で見た機械の興奮が抑えられないのか、大騒ぎするエルティを困ったふうに笑いながら眺める。
「ホントに……グランピアってどんな世界なんだろうね。もしかしたら、アガルピアよりよっぽど暮らしやすくて楽しいからお母さんは私たちのことも忘れたんじゃない!?」
「まさか。いくら楽しくてもそんなことはないよ、きっと」
「もしホントにそうだとしたら、会った時絶対一発ぶん殴ってやる!」
笑っていたかと思えば、拳と手のひらを合わせて怒り出す。コロコロと忙しいエルティの表情を眺めているだけでも楽しかったが、すぐさまその顔からは色が消えて。
「……それならまだいいんだよ。でも……会いに来てくれなかったり、手紙もないっていうことはさ……お母さん、私のこと……嫌いになっちゃったのかな……」
「……………」
ソフィアは知っている。いつも明るく朗らかに見えて、エルティの内面はひどく繊細で傷付きやすく、寂しがり屋であるということを。
今よりずっと昔、二人を置いて村を出ていったエルティの母親とソフィアの母親。あの日、母親がいなくなって泣いてばかりだったエルティのことをソフィアはいまだに忘れることができない。
「……ソフィ?」
「エルちゃん、今日は一緒に寝よっか」
「え?急にどうし……わっ!?」
「ふふ、いいからいいから」
だからこそ、積極的に寄り添おうとする。もうエルティが泣くことのないように、寂しがることのないようにと。背を向けるエルティを抱きすくめるように同じ布団に入り、ぴったりとくっついてひとりじゃないことを体で伝える。
「もう、狭いよ〜」
「だったらもっとくっついちゃえばいいよ、えいっ!」
「うひゃ!?ちょっ、くすぐった、やめっ、あはははは!」
エルティにはずっと笑っていてほしい。
自分にできることで元気付けようというソフィアの優しさは、エルティにとって紛れもなく大きな心の支えになっていた。
ーーーーー
「………わああああん!!やだああーー!!やーーだーーーー!!おかあさーーーん!!行っちゃやだあああーーー!!」
それは、幼い日のおぼろげな光景。
涙で滲んだ視界に映るのは、長く、赤い髪の女性と金色の髪の猫人。隣では、それを小さくしたような猫人の子供が手を強く握り締めている。
「ごめんね、エル。私たち、行かなきゃ」
「う〜……!!なんでっ、なんでぇ!おかあ゛さぁ゛ん!!」
優しい手が頭を撫でてくれた。
その優しい手が大好きだった。
大好きだったから、お別れするのが悲しくて、寂しくて、たくさん泣いた。
「リヒティ、そろそろ行かないと…あの子、待ってるわ」
「…ごめん、リディア。もうちょっとだけ時間取っていいかな」
赤い髪の女性はしゃがみこんでぎゅっと抱き締めてくれる。そうしてくれれば、いつだって胸の中が温かな気持ちで満たされた。
「エル、ごめん……お母さんたち、どうしても行かなきゃいけない用事ができちゃったの。だからお留守番、お願いしてもいい?」
「ぐすっ…うっ、あう」
「大丈夫、すぐに帰ってくるから!そしたら地上の世界のお土産もたくさん持ってくるし、面白い話も聞かせてあげる!だから…ちゃんとソフィアと仲良くするんだよ。ばーさまの言うこともよく聞いて、元気で暮らすんだよ」
言いたいことはたくさん。でも、しゃくりあげてうまく話せない。そのうちにその人は手の届かないところまで離れていってしまう。
「それじゃばーさま、エルのこと…お願いね」
「うぅ゛…おかあさん!おかあさああん!!」
遠ざかる後ろ姿。
それが、彼女にとって最後の母の記憶だった。
ーーーーー
「……ん、んん」
ランチキンの甲高く、よく通る鳴き声が響き渡る。誰が決めたわけでもない、村の起床の合図に目を開くと、涙が頬を伝っていた。
(……またあの夢だ。最近よく見るな……)
身体を起こし、ぐしぐしと目元を拭うエルティ。彼女にとってその夢は珍しいものではないが、最近はやけに頻度が多い気がする。
そんなことを考えながら、後ろから抱き着いたままのソフィアの腕をするりと抜けて、窓に取り付けられた仕切りを開けば日天球のまぶしい光が家中を明るく照らした。
「ぅ……う〜ん……エルちゃん……?」
「おはよ、ソフィ」
「おはよぉ……」
相変わらず寝起きには弱く、ゆらゆらと眠たげにしたりお尻を高く上げて大きく伸びをするソフィアを見ていると思わず笑みがこぼれる。
やがてランチキンの鳴き声に村人たちの穏やかな声が混ざり出した。村に朝がやってくる。今日もまた、平穏で退屈な、代わり映えしない日々が始まっていく。
その日の仕事を早々に終え、いつものように村の外に出かけたエルティとソフィア。二人が向かった場所は村の子供たちが「砂降りの丘」と呼ぶ草っ原。ここには危害を加えるような害獣もおらず、のんびりと時間を過ごすにはうってつけの場所だ。
「ふあ〜あ……やることなくなっちゃったね……」
「うん、この時期はいつもこんな感じだよね。お弁当でも作ってきた方がよかったかな」
「お弁当かぁ〜…でも、もうご馳走はなくなっちゃったからな〜……」
大きなあくびをしながらぼんやりと答えるエルティ。日天球のぽかぽかした陽射しと草木の匂いはどこか心地良い眠気を誘う。この砂降りの丘では上に見える天井が地上のどこかと繋がっている穴があるのか、その名の通り時折キラキラした砂が降り注ぐことがある。
子供たちの間ではキラキラが見えた時に願い事を三回念じればそれが叶うという噂があるが、いまだにそのお願いを叶えられた人はいないらしい。
「…私たち、ずっとこのまま、この村で生きていくのかな。ばーさまも昨日から考え中って言うばっかりだし」
「気持ちはわかるけど…結論を急ぎすぎるのもよくないよ?村の掟にもちゃんと理由があるからだろうし」
「そりゃそうだけどさぁ…もう村の若い子だってみんな言ってるんだから、ちょっと見に行くぐらい許してくれてもよくないかな?」
寝そべりながらぼやくエルティに苦笑を返しながら手元の本に視線を戻すソフィア。それはもうずいぶん使い古されているのが分かるほどにボロボロだ。
「それ…ソフィのお母さんが作ってた本だよね?」
「うん、わたしたちが生まれるより前から作ってたんだって。お母さん、村で唯一のお医者さんだったから…たくさんの人が困らないようにって残してくれたんだと思う」
糊で貼り付けた部分を閉じただけの簡単な本だが、ソフィアはそれをとても大事にしていた。母の残した、人体に関するアプローチや怪我の処置、村で採れる薬草の種類や効能などが事細かに書かれた医学書。誰かを想う優しい心遣いが載せられたその本はソフィアの宝物であり、まだまだ未熟な自分を支えてくれる母の教導でもあったのだ。
「ソフィは勉強家でえらいね!私だったら最初のページでもう眠くなっちゃう!」
「あはは…ジニアちゃんには敵わないけどね…」
そう謙遜しているが、医学の知識で言えば天才と持て囃されるジニアであってもソフィアには及ばないだろう。彼女もまた生まれた時からずっと、母の背中を見て育ってきた芯の強い少女だ。
「……あぁ、そんな話してたらホントに眠くなってきちゃった……」
「お昼寝?いいよ、わたしはまだ読んでるから」
「んん……」
目を閉じて寝そべっているエルティ。その隣で座り込んで本を読むソフィア。この光景は二人にとって幾度となく繰り返してきた日常で、そのうちソフィアもエルティに寄り添ってうたた寝を始めるのが普段通り……だったのだが。
「……………?」
ソフィアの頭頂部で、猫の耳が跳ねた。
目を細めて見つめる先には、大きな石つぶてのような何かが。
「エルちゃん…ねえ、エルちゃん。なにか…落ちてきてない?」
「ん〜?どうせ石ころかなんかでしょ…?」
それはどんどん大きくなって……否。
こちらに近付いているように見える。
「エルちゃん、見てくれない?わたし、あんまり目がよくないから…」
「え〜…?」
気だるげに上体を起こし、目を擦るエルティ。ソフィアの視力はあまりよくないが、エルティの目は村一番の良さを持っている。
ソフィアが指差す先。そこには確かに何かが落ちてきていて、やがてそのシルエットが日天球の光に照らされて明らかになる。それは石つぶてなどではなく、巨大な鉄の塊のように見えた。
「あ、あれ…なんか…ここに向かって落ちてきてない…?」
「お、落ちてきてる、よね…!?」
しかも、それはちょうど二人の頭上目がけて落下していて———
「うっ…うわあああ!!にっ、逃げろーーーーっ!!!」
「きゃあーーーーーっ!!?」
慌てて駆け出し、悲鳴を上げながら這うようにその場を飛び退く二人。一拍遅れて、彼女たちのいた場所には巨大な落下物によって鼓膜がびりびりと痺れるほどの轟音が響き渡り、身長を大きく越す土煙が噴き上がった。
倒れ込むようにして飛び退いた姿勢のまま、起き上がることすら忘れて土煙が晴れるのをおそるおそる覗き込む二人。そこには、ゆうに人を越える巨躯を持った人型の機械が横たわっていた。
「こ、これって…!」
「きっ、機械兵だーーーー!!??」
大声を上げるエルティ、驚きを露わにするソフィア。ついさっき、敵が現れたばかりの草食動物のごとく逃げ出したというのにその駆け足は落下した機械の巨人に向かう。
くすんだモスグリーンの外装に腕や脚などのマッシブなパーツ。それらがジニアの家で見たような機械の部品と一致するのは違いなく、エルティはひどく興奮した様子だ。
「ほ、本物だ!本物の機械兵だ!!やっぱり伝承はホントだったんだ!!」
間近で観察して、より興奮を露わに大騒ぎするエルティ。その時、機械兵の頭部にあるひとつの四角い眼のような部分が緑色に発光した。
「ま、待ってエルちゃん!この機械兵、まだ動くよ!」
「うぇ!?ほ、ホントだ…!?」
動くたびに全身を軋ませながら、機械兵は地面に手の部分をついて立ち上がる。その異様な姿と騒音は彼女たちの生活のどこにもないもので、ある種の畏怖めいた感覚すら走らせ、思わず後ずさりするのは本能的な反応だと言えるだろう。
「で……でっか……」
思わず息を呑む。
二本の足で完全に起立したその機械兵は、実にエルティの二倍ほどにもなる巨躯で二人の前に佇んだ。
そして、向けられるのは頭部から発せられる緑色のライト。それはまるでエルティを見下ろしているかのようで、もしかすればこの出会いは運命的な出来事となるのかもしれないと…そう思った時。
「ーーーーー」
途端に、バチバチと音を立てて燐光が散り、やがて頭部のライトが明滅と収束を繰り返し始める。
「な、なに!?」
次に点灯するのは真っ赤なライト。
そして、その巨体は重厚な足音を立てながら近付き出して。
「エ、エルちゃん…機械兵って、伝承だと人間の味方なんだよね…?」
「そ、そのはず…だけど…」
「でも、どう見てもこれは……!」
「味方って感じじゃ、なぁぁーーーい!!!」
振り上げた熊よりも太く大きな腕。エルティ目がけて一直線に振り下ろされる剛腕は、転がるようにそこから飛び退いていなければ土煙の代わりに夥しい血煙が舞い上がっていたことだろう。
人に恐怖心を抱かせるには十分すぎる破壊力の拳だったが、いつだって力を合わせてたくさんの害獣を退けてきたエルティとソフィアはその限りではなかった。背後に回り込むようにして合流し、改めて機械兵と対峙する。すぐに振り返り、真っ赤な眼差しで見下ろす鋼鉄の巨人が彼女たち———引いては村の人々———にとって"敵"であることはもはや疑いようのない事実だ。
「エルちゃん、戦おう!」
「うん、ここでやっつけないと村が危ない!」
それぞれ武器を構えて戦う意志を露わにする。
村で戦える人はそう多くない。マナの扱いに長けている村人もいるが、せいぜい火を起こしたり風を操作したりする程度だ。ここで迎え撃ち、村を守らなければと思うのは二人のまっすぐな正義感から来るものだと言っていい。
「とはいえ……どこを狙えばいいんだろうね!」
しかし、相手は肉からなる獣ではなく、全身が機械でできた敵。初めて対峙する容貌の相手に弱点らしき弱点は見当たらない。
「ともかく、まずわたしが攻撃してみる!」
「わかった、じゃあ引き付けるよ!」
そういう時、もっともやり慣れた方法で攻撃してみるのが彼女たちの通例だ。エルティが敵の前に飛び込んで引き付け、ソフィアがその隙に攻撃の
機械兵の前に躍り出るエルティは、かつて村を襲った、巣篭りできずに気性の荒くなった熊と相対した時のことを思い出していた。
(パンチがメインの攻撃なら予測はしやすい…!かわすのは簡単なはず…!)
爪、引いては腕を使った攻撃は軌道を読みやすい。それが鈍重な相手なら尚更だ。先ほどとは違い、腕を横に薙ぎ払う攻撃でもエルティには慣れたもので、その場でくるりと飛び上がることで回避する。機械兵を引き付ける彼女の背後では、杖を横向きに構えたソフィアが周囲に可視化したマナの淡い光を集めていた。
「我、此処に来たりて彼の者を敵と見定めん…」
己が繰り出すマナの変換と操作を言葉に結びつけることでイメージを確固たるものにし、それを具現化させて打ち出すためのルーティーン。
詠唱をしなくとも術の発動自体は可能だが、完全詠唱に比べると大きく精度が落ちる。特にソフィアの場合、防御や支援を主とした
「
浮かび上がる三つの火球。収束するマナによって生み出されたそれは、勢いよく杖を前に掲げる動きに従うように放たれる。
「
目の前の敵に向き直ろうとした機械兵はその鈍い動きが仇となって全ての火球が直撃し、爆風が炸裂した。
……が。
「くっ、効いてない…!?」
爆煙が晴れてなお、その機体は煤けて少しよろめく程度でダメージになったようには見えない。すぐさまカメラの赤い眼差しがエルティを捉え、再び腕を振り上げる。
「エルちゃん、危ない!」
「うわっ!? ……え!?」
しかし、その剛腕はエルティが避ける方向とは真逆に振り下ろされた。地面がめり込むほどの衝撃に鼓膜をびりびりと震わされながらも、腕の下にあるソフィアの
「あ、危なかったー…!あんなの食らったらひとたまりもないよ!」
「ど、どうしようエルちゃん…わたしの
「どうにかして弱点を探さないと……って、え?」
距離を離したから大丈夫だろうと高を括っていた。しかし、機械兵の胸部のハッチ部分が開き、内蔵された二門の砲塔じみたパーツ———それはいわゆる機関砲と呼ばれるものだがエルティたちには知る由もないもの———がスピンアップを始めると同時に。
「うわあああああっ!!?」
「きゃあああああっ!!?」
聞き慣れない、危機感を煽るような騒音と共に地面が削り取られていく。逃げる自分たちに向かってくるそれはあまりにも未知の攻撃だったが、"何か"を撃たれている遠距離攻撃であることはかろうじて理解できただろう。
「くっ、この……!」
どうやらその遠距離攻撃には次までに若干のラグがあるようで、瞬時にそれを察知したエルティは大きく回り込んでソフィアと挟撃する形を取る。執拗にエルティを追いかけようと、一歩、一歩と鈍重ながらも力強く踏みしめる機械兵。
「我、此処に来たりて彼の者を敵と見定めん…!」
背後でソフィアは先ほどと同じ
「———!?」
だが、視界の端に映る予想外の存在。
それはとても長い、焦げ茶色の耳を持ったアナウサギ。長い耳を巣穴の天井にくっつけ、外敵の襲来を感知する生態を持ったそのウサギは、機械兵の攻撃によって巣穴を揺さぶられて危険を感じて出てきたのだろう。そこには、ひと回りも小さなウサギの子供の姿もたくさんあった。
「バカ、今出てきたら…!」
エルティは思った。
自分の予想が正しければ、ここで退けば次に狙われるのはこのウサギたち。直感的にそう思ってしまった身体は、自然と機械兵の前に立ち向かっていく。
(退けない……!!)
無益な殺生は好まない。村の掟で「食べることや皮をいただくこと以外で無闇に命を奪ってはならない」と教えられたからだ。だから、躊躇わずに前に出て、振り下ろされる鋼鉄の拳を完全に見切り、小さく跳んで躱すと同時に腕を伝ってボディへとしがみつく。
「エルちゃん!?」
「……!ここだ!」
間近で組み付くことでようやく見えた勝ちへの糸筋。頭部のてっぺんについたヒビ割れは落下の衝撃によるものか。その傷を見た時、脳裏にジニアの声が響いた。
『———機械っていうのは中身がデリケートなんだから』
「———うりゃあっ!!」
脳天へ突き刺したダガーは手応えと共に深くにまで埋まる。直感は正しかった。そこをこじ開ければ、中身に衝撃を与えられればきっと倒せるに違いない。ダメ押しにもう片方、左手のダガーを押し込もうとした時。
「うわ、わッ!」
まとわりつくエルティを振り落とそうとしてか、身体を左右に揺さぶる機械兵。慌てて両手で右腕に触れてぶら下がるが、すでに空いた左腕は振りかぶりを終えていた。
「しまっ———」
咄嗟に、間に挟むようにして剣を構えて少しでもダメージを減らそうとする。
だが、盾でもなければ刃渡りの短い刀身で人間を遥かに上回る鋼鉄の腕を受け切れるはずはなく。
「ッぐ、あぁっ!!」
まさに剛腕。ランドボアの突進を真正面から受けた時よりもずっと重い衝撃と共に吹き飛ばされるエルティは、ボールのように地面を跳ねて数メートルもの距離まで弾かれた。
「エルちゃんっ!!」
詠唱を中断し、血相を変えて駆け寄るソフィア。
「だ……大丈夫、ぐっ、ううぅ…!!」
エルティはすぐに立ち上がろうとするが、横腹に走る激痛がそうさせてくれなかった。全身に軋むかのような鋭い痛みに歩くどころか立ち上がることすらままならず、呻き声すら上げている。
「エルちゃん、触るよ!」
「い゛っ…!!い、いたたた!!」
そばにしゃがみこみ、触診を始める。ソフィアの医者としての腕は村随一と言っても過言ではない。こうして服の上から触るだけでも、患部の状態がわかるのだ。
「肋骨が折れてる…!今ここで治さないと!」
「だ……ダメ……ごほっ…ソフィ、逃げて……」
こうしている間にも、機械兵は重厚な足音を鳴らして一歩、また一歩と距離を詰めてくる。このままでは共倒れになると考えて逃げるように言ったが、ソフィアは力強く首を横に振った。
「大丈夫、高速詠唱でやるから!」
「そ…それ、ただの早口…」
「いいから、じっとしてて!」
痛みで呼吸すら苦痛に感じるのか、苦しげに喘ぐエルティの前に杖を突き立て、胸の前で手を組む。すると杖は支えもないのに地面に直立し、淡く輝くマナ粒子の光が集まり始めた。
「我、此処に来たりて彼の者の支えとならん…!」
その詠唱は先ほどとは違う口上。これはソフィアがイメージする、支援のための詠唱だ。
「そこは名も無き無垢なる妖精たちの箱庭。それは時の流れ弄ぶ邪気無き純真たる戯れ。楽園の光よ集え、今こそその奇跡の御業と共に時の理を打ち破り、半歩遠き過去へ遡らん!」
すでに機械兵はすぐ背後にまで迫っていた。
詠唱の終わりと、敵が剛腕を振り上げるのは同時のタイミングだった。
「
収束した光が弾ける。
その瞬間、折れていたはずの骨は何事もなかったかのように元に戻り、痛みすら完全に消え去った。まるで、局地的な時間遡行でも起こしたみたく。
それと同時に、すんでのところで弾かれたように飛び退く二人。再び距離を取ってから合流するエルティとソフィアの目には、力強い闘志が浮かんでいる。
「ありがと、危ないところだった!」
「ううん、平気!それよりあれを止めないと…!」
「大丈夫、そのことでちょっと聞いてほしいんだ!」
「何か分かったの?」
そう言うと、機械兵を指差す。その先には、頭部に突き刺さったままのエルティのダガー。
「アイツの頭にヒビが入ってたんだ。だから、あの剣を押し込めばきっと中まで届く。ジニアの言う通りなら、機械の内部は脆いはずだよ!」
「でも、下手に近付いたらまたさっきみたいに吹き飛ばされちゃうよ?」
「それも大丈夫!アイツはきっと…熱で敵の場所を探知してる!」
そう、エルティが見た光景。それは目の前にエルティという攻撃対象がいるにも関わらず、ソフィアの
「じゃあ、わたしの
「うん、その隙に私が頭をぶっ叩く!ソフィ、もっかいいけるよね!?」
「なんとか…!」
攻撃の
つまりは、次が最後のチャンスということ。
「来ぉい!!がらくたァー!!」
「我、此処に来たりて彼の者を敵と見定めん…!」
囮になるという役割を遂行するため、エルティは臆することなく声を張り上げて真っ向から突っ込んでいく。背後では詠唱を始めるソフィア。機械兵はすでに胸部の砲身が機能しなくなっているのか、変わり映えすることなく大きく腕を振り上げた。
「当たらないよ!」
前髪の先を巨大な質量が掠める。
しかし、一直線だ。たったそれだけでもエルティが攻撃の軌道を見切るのには十分すぎて、すれ違いざまに機体を切りつけることすらできる。
(硬い…!やっぱり、狙うならあそこしかない…!)
だが、その斬撃は甲高い金属音を鳴らすくらいで機械兵の動作にもなんら変わりはなく、まるでダメージになっている様子はない。対して、ダガーが刺さったままの頭部ではパチパチと火花が散っていた。
「———
「エルちゃん、今だよ!!」
「ま・か・せ……てッ!!」
想像通り、機械兵は地面に落ちたマナの火種に向かって両腕を振り下ろしていた。前のめりになっている機体の背中へ飛び乗り、手をついてあっという間に駆け上がるエルティ。
彼女にはソフィアのように大気中のマナと自分のマナを変換し、術として放つ技術はない。だが才能とは誰もが違っているもので、彼女だけが持つ能力もある。
それは、自分の手や足で触れた物体に対して非常に強い引力を発生させる力。この力は自分に向けて対象を引き寄せることもできるし、逆に自分が対象に向けて吸い付くこともできる。だからこうして自分より遥かに大きな暴れる相手にしがみついても振り落とされることはない。
「もう……一発!!」
再び頭部まで登ったエルティは、弱点へとダガーを突き立ててグリグリと抉ってみせる。激しく散る火花がそのダメージの大きさを物語っていたが、機械兵はなおも抵抗するように手を伸ばした。
「エルちゃん、危ないっ!!」
「なんのっ、と!」
機体を踏みつけるように蹴り、その掌握から逃れるエルティ。彼女の能力はもうひとつ……それは、手や足で触れた物体に対して非常に強い斥力を発生させる力。
「これで決める…!」
これは対象を吹き飛ばすこともできれば、自分が大きく距離を離すこともできる。その力を使って、エルティは高く、高くにまで跳躍した。
「
そして、自分と機械兵の間に発生させた引力によって始まる急速での降下。
「
全体重を乗せた、超高速のストンピング。
その瞬間的な衝撃と重量は約300kgにもなるだろう。鋼鉄をも拉げさせる足蹴りもさることながら、内部へ押し込まれた二本のダガーはその勢いを乗せて構造物を破壊していく。
やがてその巨体はバチバチと眩く火花を散らし、轟音と共についに倒れ伏した。
「や……やっつけた……?」
…かと思えば、点灯する頭部の発光体。
「ひゃあ!?エ、エルちゃん、もう一回!」
「プ、
今度こそ動かなくなるまで、徹底的に。
何度も踏みつけ続けて、ようやく鋼鉄の巨人は完全に機能を停止した。
ーーーーー
「ん゛ーーー!!うーーー!!ふっ、ふっ、んーーーーーっ!!!」
「うわあ、ジニアがかつてないくらい興奮してる!」
表情こそあまり変わっていないように見えるが、よくわからない唸り声を上げながらよくわからない身振り手振りをぶんぶんと繰り返すジニアが興奮しているのは誰の目にも明らかだ。
あの後、村に戻った二人の報告を受けてたくさんの村人たちが砂降りの丘に集まり、倒した機械兵を囲んでいた。そこには当然、長老の姿もある。
「むう……本当に機械兵というやつじゃな……」
「そう!そうだよ!なんで襲ってきたのかはわからないけど…これがグランピアから落ちてきたものであることは間違いないよ!」
エルティの話を聞いた時の長老は半信半疑だったが、こうして目の当たりにすれば信じざるを得ないだろう。そして、それを二人で倒したという事実も。
「ねえ、ばーさま!これでわかったでしょ、グランピアに出てこいつに襲われたとしても、私たちならやっつけられるって!グランピアに出ても平気だって!」
「まあ……それは確かに認めるが……」
「だったら、グランピアに行ってもいいよね!?」
ソフィアだけでなく、ラスミスも、周りの村人たちもエルティと長老の問答を見守っていた。それをそっちのけにしているのは機械兵の残骸に興奮が収まらないジニアだけ。
「……ばーさま!」
力強く、頼み込んだ。
もう、抑えてなんていられない。実在すると分かって、この目で見てしまったのなら、膨れ上がる願望を止めることなどできない。今すぐにでもグランピアに出たいという気持ちを、率直にぶつけた。
「…………むう」
長老はしばらく考え込むように顎に手を当てていたが、やがて。
「………仕方あるまいの」
その返事に、エルティは花が咲いたように表情をぱあっと明るくする。
「それって…!いいってことだよね!?ね!?」
「まあまあ、まあ落ち着きんさい…わしの許可は出すが、あとはおぬしの決心が本当につくかどうかじゃの」
「へ?どういうこと?」
「あとでわしの家に来るがええ。見せたいもんがあるからの」
その詳細はともかくとして、地上に出る許可が出たエルティは長年の愁眉を開くかのように両腕を広げ、喜びを分かち合おうとソフィアを抱き締めた。
「っわーーーい!!やったやったーー!!グランピアに行ける!!わーーーーい!!」
「あはは…よかったね、エルちゃん」
抱き返し、ポンポンと背中を叩くソフィア。
相棒の夢が叶った瞬間に少なからず感動じみた思いが押し寄せる……暇もなく。
「よーーーっし、ソフィ、お風呂行こっ!」
「えぇ…!?もう、エルちゃんってば急すぎるよ!」
興奮冷めやらぬままのエルティにぐいぐいと手を引かれていくソフィア。困ったふうに眉を下げながらも、その表情にはやわらかな笑みが浮かんでいた。
……その後。
「いやっほーーーーーーう!!!」
「うわ、バ、バカ飛び込んでくるんじゃ……どわぁ!!?」
勢いよく上がる水飛沫にラスミスが悲鳴を上げる。
村のすぐ近くに湧き出ている天然温泉、そこは村人たちの憩いの場だ。一日の仕事を終えた村人はもちろん、綺麗好きの若者にも大人気でエルティたちは毎日入りに来るほどだ。
「っこのバカ!飛び込み禁止だっていつも言われてるだろーが!!」
「えへへぇ、水場を見るとついやっちゃうんだ〜」
頭から水滴を垂らしながら脳天をはたくラスミスだが、それも意に介さずにすいすいと泳ぎ始めるエルティ。誰がどう見てもテンションが高いのは、ついに長老直々にグランピアに行ってもいいという許可が降りたからだろう。
「でも、ほんとにびっくりだよね。いきなりあんな大きな機械兵が天井から降ってくるんだもん…」
「しかも襲われたんだろ?グランピアにはそんなやつがうようよいるんじゃないのか?」
「どうなんだろう…伝承では人間よりも多くいるって聞くけど、それだったらもっと早くにあの機械兵が落ちてきてたと思わない?」
湯船に肩まで浸かり、立てた人差し指をくるくると回しながら話すソフィアに「確かに」と相槌を打つラスミス。
「あいつ、その辺のこと分かってんのかな…」
「うーん……分かってないんじゃないかなぁ……」
「えー、なにー!なんの話ー!?」
楽しそうに犬かきをしているエルティを見て、二人が頭に浮かべた言葉は一言一句違うことはなかった。
「…だとしたら、地上の世界ってやつは私たちの知ってるもんとはまるっきり違う可能性もあるよな」
「うん……わたしはむしろ、そっちの可能性の方が高いかなって思ってる……」
ほんの少し、ソフィアには不安だった。
エルティは明るいように見えて中身は繊細だ。そんな彼女が自分の思い描くグランピアとあまりにも違う世界が広がっていたら、ひどく落胆してしまうのではないかと。
「……そういえばジニアちゃんは?」
「機械兵の調査だとよ。さっき何人も人使って家まで運ばせてたぜ」
「あはは…また徹夜コースかな…」
こうなってしまった時、ジニアは周りのことが見えなくなる。時に寝食を忘れて研究に没頭してしまうほどに。特に今回はその対象が丸ごと一機の機械兵だから、過去に類を見ないほど長い間そうなることだろう。
「ねえねえ、ラスミスは行かないの?グランピア」
「私は別に興味ねえからなぁ…ただ、ジニアは絶対行きたいって言うだろ。そしたらその時はついてってやるけど」
「私たちとは一緒に来ないの?」
「どうせしばらくはあいつのお守りだよ。まったく、なんでこんな手のかかるやつなんだか……」
とは言いつつも自分からジニアの面倒を見るあたり、まんざらでもないのだろう。村の中でソフィアに次いで世話焼きな面を持つラスミスに、エルティとソフィアは顔を見合わせて笑った。
「さてさて、体もあったまってきたし…」
「そろそろ上がる?」
「いやぁ〜?そろそろお楽しみの時間だな〜って!」
「そ、それって……!」
立ち上がり、手をわきわきと動かすエルティに嫌な予感を覚えて腕で体を隠すソフィア。そんな二人の様子を、ラスミスはまた始まったとばかりに呆れた顔で見ていた。
「ソフィのおっぱいがどれくらいおっきくなったかチェックだよ〜ん!」
「い、いやあ〜〜〜〜!!」
「あはは、待て待て〜!」
ざぶざぶと水飛沫を上げて逃げる。
ざぶざぶと水飛沫を上げて追いかける。
なぜかは知らないが、エルティは三度の飯より大きな胸が大好きだ。だから、こうしてソフィアがいつもターゲットにされる。
「エルちゃんもけっこうおっきいでしょおー!?」
「自分の揉んでもつまんないもんねー!観念しなさーい!」
「きゃあ〜〜〜!!」
「お前らがいるとぜんぜんくつろげねえよ…」
大きなため息。
それをかき消すように、温泉中にエルティの楽しそうな声とソフィアの悲鳴が響いた。
ーーーーー
温泉で十分に疲れを癒した後、エルティとソフィアは言われた通りに長老の家に上がっていた。村で一番偉い立場にも関わらず二人が暮らす家よりも小さい家に住んでいるのは、エルティとソフィアの母親が村を出て以来、毎日寂しがって泣いてばかりいたエルティのためにソフィアと一緒にいられるように自分の家を明け渡したからだ。
「おお、来たかおぬしら」
「で?ばーさま、見せたいものってなに?」
「はて、どこにしまったかの…確かこのあたりに…」
「先に探しときなよ……」
ごそごそと棚を漁ったり、麻袋をひっくり返したりと探し物を始める長老。手伝おうかと提案しようとしたところで、最終的にひとつの
「なにそれ?わざわざそんなところに入れてたの?」
「万が一にもおぬしらに見つからんようにする必要があったからのう…」
「それは…どうして?」
「なぜなら……これはあの二人が残した遺書だからじゃ」
それを聞いて、二人は顔を見合わせる。
渡されたのは三枚の紙で、そのうち二枚はそれぞれエルティの母親とソフィアの母親が娘に書き記したもののようだ。
「遺書、って……」
「村を出る前、自分たちの身に何かあった時のためにおぬしらに渡してほしいと頼まれたんじゃ」
一拍おいてから、長老は口を開く。
「単刀直入に言って、おぬしらの母親……リヒティもリディアも、もうこの世にはおらんものだと考えた方がええ。辛いことじゃろうが……」
「……うん。分かってる、分かってるよ…ばーさま」
「気を遣わなくても平気だよ。わたしももう…そういうものだと思ってたから」
寂しげに笑いながらも、二人に落ち込んだ様子は見られない。きっと、これまでの暮らしで精神的にも強く成長したのだろう。母親に代わって二人の面倒を見てきた長老も、我が子のことのように静かに喜びを噛み締めた。
「おぬしらが成人して、それでもどうしても地上に出たいという願いを捨てていなかったら渡せと言われておっての。読む権利はおぬしらにあるぞ」
「そっか……じゃあ、読んでみる」
その手紙には、こう記されていた。
ーーー
親愛なるエルティへ。
まずは、何も言わずにエルを置いていったことを謝らせてください。そしてあなたがこれを読んでいるということは、おそらくお母さんは何らかの理由でもうこの世にはいません。ばーさまにはそう伝えてあります。
私たちが村を出て地上に行くのには、ある大切な理由があったからです。詳細を書くことはできませんが、命の危険があったのは覚悟の上のことです。だから、どうか村のみんなやばーさまのことは恨まないであげてください。
地上の世界はあなたが思うよりもずっと危なくて、時に過酷な目に遭うかもしれない場所です。きっとあなたにはたくさんの苦難が降りかかるけれど、あなたがそれでも地上に出ることを望むのなら止めることはしません。私自身もそうだったから、あなたもあなたの好きなように生きてください。
そして、最後にひとつ。
約束、守ってあげられなくてごめんね。もしも私が生きていてどこかで会えたのなら、その時はうんときつくぎゅって抱き締めるから。
お母さんはずっと、エルを愛してるよ。あなたの旅の無事を祈ってるからね。
リヒティより
ーーー
「……お母さん……」
ソフィアも沈痛な面持ちを浮かべていることからして、同じような手紙の内容だったのだろう。何らかの理由ですでに亡くなっていること。娘の身を案じていること。旅の無事を祈っていること。長い月日を越えて届いた母の想いが、じんわりと胸を打った。
「……ばーさま、もうひとつの手紙は?」
「これかえ?」
そう言って渡されたのは手紙……というよりも紙切れに近いほどのサイズのものだ。そこにはひと言だけ、こう記されている。
———地上に出たら、ノアという人物を探してください。
「ノア……?誰のことだろう?」
長老に目をやっても首を傾げているということは何も知らないのだろうか。当然ながら、村にはそんな名前の人はいない。
「…ソフィ?」
「……え?ああ、うん……誰のことなんだろうね、ノアって……」
ソフィアは何か気にかかることでもあるのか、さっきの手紙と紙切れを交互にまじまじと眺めている。
「それで、改めて聞くが……どうじゃ?地上の世界とやらには向かうのかえ?」
「もちろん!私、地上に何があるのかを見てみたい!お母さんが何を成し遂げたかったのか、それをこの目で見たい!」
間髪入れず、息を巻いて答えるエルティの瞳は輝いていた。
「…死ぬようなことになっても、か?」
「うん!私、後悔はしたくないんだ!どうせ死ぬのなら、後悔せずに死にたいから!」
「…ソフィアは?」
「…うん。わたしもエルちゃんと一緒に行きたい。死ぬ時はエルちゃんと一緒がいいから」
ずっと昔から決めていることのように迷わず答える二人を見て、これは止められるはずもないと長老は思った。
「……わかった。おぬしらがええのならそれでええ。もうわしから言うことは何もありゃあせん、好きなように地上を目指すがええ」
「やったー!!ソフィ、死ぬ時は一緒だよー!!どこまでも一緒に行こうねー!!」
「あはは……大げさだよ、エルちゃん……」
がばりと抱き着く直情的なスキンシップに、口ぶりでは呆れながらもまんざらでもなさそうな笑顔を見せるソフィア。ついに決心のついた二人は、翌日の旅立ちに備えて早々に休むことにした。
ーーーーー
……翌日。いつも通りの時間に起きた二人は、皮から編んだ大きな鞄に荷物を詰め込み、地上に出る準備を進めた。
「うん、これでよし…エルちゃん、そっちは準備できた?」
「よ……よーしっ、だ、大丈夫…!」
「う、うん…どう見ても大丈夫じゃないよね…」
膨れ上がった鞄に震える足。明らかに詰め込みすぎで持ち歩くには重すぎるそれを見て、ソフィアは苦笑を浮かべる。
「ほら、いるものといらないもの、見繕ってあげるから」
「えー!?全部必要なんだけどなぁ…」
改めて二人は荷物の整理を始める。地上の世界で何が待っているかわからない以上、荷物は多すぎてもいけないし少なすぎてもいけない。
「ん〜…まず食器は全部木製で大皿と小皿を二つずつ、鍋だけは鉄…あと鉄板もいるかな…エルちゃん
、持てる?」
「ぜんぜん平気!」
「ふふ…なんだかこういうのって今までにないからワクワクするね」
「えへへ…今のでちょっと安心した。もしかしたら、私ばっかりグランピアに行きたいって言ってるだけでソフィはそんなことないんじゃないかって思ってたから」
不安がないわけではない。でも、それ以上に楽しみな気持ちで満ちていた。胸いっぱいに広がる、緊張にも似たドキドキする感覚が収まらない。必要な食糧や飲み水は保存に適した動物の胃袋などに入れて、万が一の怪我に効く塗り薬は小さい麻袋に詰め、背負えるだけの荷物の取捨選択を終えた二人はついに家を出る。
「……エルちゃん?」
ふと、後ろを見るとエルティがじっと家を見つめていた。
「いや……出発するってなったらなんだか名残惜しくて」
「…そうだね…ずっと二人で暮らしてきた家だもんね…」
「帰ってくるのは当分先になるかな。でも、もう決めたことだから…サヨナラしないとね!」
そう言って、未練を残さないようにきっぱりと前を向いて歩き出すエルティ。小走りで追いつくソフィアも、もう後ろは見ないようにしていた。
「む……二人とも、もう行くのかえ?」
村の外に出るために通った広場で長老と出会う。周囲にはたくさんの村人たちもいる。
「うん!また明日、また明日ってずっと言ってたら決心が鈍っちゃいそうだし!」
「ばーさま、たくさんお世話になりました。きっと元気で帰ってくるから、心配はしないでね」
「ほほ、律儀なことじゃの」
恭しく頭を下げるソフィアを見て、エルティは目を丸くした。
「ほら、エルちゃんも」
「えぇ、なんで?別に他人行儀にしなくてもいいじゃん」
「いいから。こういうのはちゃんとしておく方がいいんだよ」
「…まあ、ソフィがそう言うなら…」
同じように頭を下げるエルティ。そんな物珍しい姿を見てか、あるいは娘同然の二人の旅立ちを心嬉しく思っているのか。長老は満足気にうんうんと頷きを繰り返した。
「おーい、エル!ソフィ!」
「あ、ラスミスだ。ジニアもいる」
「行くなら一声かけろよ、ったく!」
「あはは、見送りに来てくれたの?」
普段なら嫌味のひとつでも言うところだが、ラスミスはぶっきらぼうに「そうだよ」と答える。もしかしたら、これが今生の別れになるかもしれない。再三、それを認識させられる瞬間だ。
「エル…寂しい…」
「おわわ…ジニア、そんなに寂しがらなくてもラスミスがいてくれるよ」
「もう君に機械の部品を拾ってもらえないなんて…」
「そこかよ!!」
相変わらずジニアらしい変人ぶりだが、エルティだけでなくソフィアにもぎゅっと抱擁を交わすあたり、寂しいと思うのは本当のことなのだろう。だから二人も力いっぱい抱き返したし、照れて渋るラスミスにもちゃんとハグをした。
「エルティ、もう行くの?」
「アランのお母さん。ごめんね、急な出発になって」
「いいのよ、ずっと追ってきた夢でしょう?それより、無事に帰ってきてね。アランが寂しがるから、また遊んであげてね」
「うちのリグレットも、ソフィにお裁縫を習いたがってるから。必ず、ここに帰ってくるんだよ」
そうしているうちに集まってくるたくさんの村人たち。ひとりひとりに挨拶をして、寂しがって大泣きするアランとリグレットとルーノを宥めて、改めて自分たちは温かい人たちに愛されて育ったことを実感すると共に、帰るべき場所はここであると決意を固める。
「そうだエル、これ持ってけよ」
「これって…砥石?」
「お前ひとりでも剣の手入れができるようにな。いつまでも私が世話するわけにもいかねえだろ」
「へへ…なんだかんだ言って優しいんだから、ラスミスは。ありがとね!」
そう言うと照れ隠しにそっぽを向くのはいつも通り。変わらない姿に自然と笑みが零れる。
「エル、ひとつだけ伝えておきたいことがある。あの機械兵の残骸を調べていてわかったことだけど…熱源を探知して襲ってきたのは、おそらくメインのセンサーみたいなものが落下の衝撃か何かで壊れてたから」
「じゃあ、普通は火で誘導したりもできないってこと?」
「そう。それと、もうひとつ……あの機械兵、ずっとエルを優先して狙ってたみたい。だから…気をつけて」
「私を……」
狙われる理由は定かではないが、ひとつだけ頭に浮かんだものは「真人だから」。それが正しいのかは分からなくても、友の忠告には素直にお礼を告げた。
「それじゃ!みんな、行ってくるね!」
「絶対帰ってくるから!」
旅立ちの時。見送ってくれる村人一同が見えなくなるまで、二人は手を振り続けた。
「えへへ…やっぱりみんないい人だね」
「うん、こんなにたくさん食べ物もらっちゃった」
「うわ、いつの間に!?」
「結局大荷物になっちゃったね、あはは…」
たくさんの野菜や果物、ランチキンの肉まで。なんとか鞄に詰め込んで、二人は地上に繋がってるという道を進んでいく。
その道中、ぽつりとソフィアが口を開いた。
「そういえば…エルちゃん、気付いてた?」
「ん?何が?」
「ばーさまに渡された手紙…ノアという人物を探してくださいって書いてたのがあったでしょ?」
「うん、それがどうかしたの?」
少し間を置いて、ソフィアは口を開く。
「あれだけ筆跡が違ったんだ。私のお母さんとも、エルちゃんのお母さんとも違う。あの紙切れだけは、まったく別の誰かが書いたものだよ、きっと」
「え、そうなの!?ぜんぜん気付かなかった!というかよく覚えてるね、筆跡なんて…」
「うん…それにしても誰なんだろうね、あれを書いたの…」
そんな話をしているうちにやがてだんだんと道は狭くなり、日天球の明かりも届かなくなってくる。取り出した日天球の欠片を頼りに、凹凸の激しい悪路を進むこと三十分ほど。
「……あっ、エルちゃん、あれ!」
「わっ!なんだろこれ、鉄製の……箱?」
それは箱というよりも、たくさんの人が入れそうな部屋のような場所だ。岩肌を切り出すように作られているその場所は仕切りで区切られ、中には入れないようになっている。
「エルちゃん、これ…第6号昇降機って書いてるみたい」
「昇降機?つまり…これでグランピアに上がれるってこと?」
「そのはずだけど……動かないみたいだね」
文字は掠れていたがかろうじて読むことができる。その昇降機という聞き慣れない設備は相当古いものなのか、動力らしきものが生きている気配はない。
ふと、ソフィアがすぐ隣にある、手でめくる形式のパネルのようなものを見つけた。こちらは字がはっきりと残っていて読み取るのは簡単だ。
「A.G.D.3142……06.25?なんの数字だろ、これ……?」
「さあ……?」
だが、その意味までは解読できない。
ここで考えていても仕方ないので、二人はさらに奥へ向かって歩き出す。すると、行き止まりにあるのは非常に長いハシゴだった。
「上に続いてるってことは…ここがグランピアへの入口なのかな?」
「きっとそうだよ!ソフィ、上がってみよう!」
長く、長く、ひたすら上に登っていく。
その先は、ハシゴを中心にした広い円形の足場。天井は蓋のようなもので閉ざされている。
「これ、いかにも上に通じてるって感じ!開けてみようよ!」
と、エルティは勇んで天井の蓋に手を突っ張ってみるが。
「ふんっ……!!んっ、ぬぬぬぬぬ!!」
蓋はびくともしない。ソフィアも手伝い、一緒に唸るがやはり開く気配はない。
「ぜぇ……ぜぇ……ぜんぜん開かない……」
「やっぱりさっきの昇降機が正しい出入口になってるのかなぁ……」
「でも動かなかったし……私たちの旅、ここでおしまい?そんなぁ〜……」
がっくりと肩を落とし、大きくため息を吐くエルティ。しかし、辺りを見回していたソフィアが壁面に貼り紙を見つけた。
「待って、エルちゃん。ここに何か書いてあるよ」
「なになに?えーと……エアタンク?」
どうやらここにある設備の説明書のようだ。そこに書かれた文章をソフィアが読み上げていく。
「経年によって地表に砂塵や土石が堆積している場合、エアタンクを起動して障害物を空気圧で吹き飛ばします。地表に大規模な風のマナによる爆風が発生するので、使用の際は状況確認を必ず行うようにしてください……だって」
「状況確認って言ったって…ここからじゃ地上の様子なんて何も分からなくない?」
「確かに……あ、これかな?力強く引っ張ってください、って書いてる」
天井の隅っこにぶら下がる紐がエアタンクなるものと繋がっているのだろうか。もし地表に誰かがいたら、という可能性が懸念されるがここで立ち止まっているわけにもいかず、意を決してその紐を引っ張ってみることにした。
「ん……思ったより固い…!んっ、おりゃ!」
体重を前にかけて紐を引っ張る。
すると、大きな地響きと轟音が鳴った。
「い、今ので開くようになったのかな?」
「た、たぶん……エルちゃん、試してみて」
高鳴る胸。落ち着くよう自分に言い聞かせ、天井の蓋に触れてみる。その感触からしてさっきよりもずっと軽く、上に積もっていたであろう障害物がなくなっているのがわかる。
「そ、外だ……!!」
重たい蓋を開くと、眩い光が視界を遮った。
それでも、見たい。外の世界をひと目見たい。その一心で大きく蓋を開いて、身を乗り出した。
「─────」
息をすることすら忘れるような世界。
広がっているのは、赤褐色の砂や土ばかりの荒野。伝承にあるような、たくさんの自然に溢れたグランピアの世界とはかけ離れている。
遅れて顔を出したソフィアもそれを見て、呆気に取られたような顔をしていた。
「ここが……グランピア……?」
「機械兵も……いないね……」
周囲には人はおろか、機械兵の姿すら見えない。ただただ、荒れた土地が地平線の向こうまで続いてるだけだ。
だがそれでも、自分たちの知る世界とはまるで違う姿に胸の高鳴りは収まらない。
「すごい……天井がこんなに高い……ううん、天井なのかな?ずっと遠くまで続いてるみたい……」
「あれは……日天球?あんなに遠くに浮かんでるのに、こんなにまぶしいなんて……」
二人とも、上を見上げて初めて見るものに驚きの声を上げる。"空"という概念も地底に住む人間にとっては存在しないものだ。
「ねえエルちゃん、あのふわふわした白いのはなんだろ?煙?それとも……綿?」
「もうちょっと近付いてみたいけど……あ、ソフィ、こっち!」
すぐ近くの岩壁をひょいひょいと飛び上がっていくエルティ。その上から見下ろす景色は今までになく、彼女の心を大きく突き動かした。
「うわあ……!こんなに広いんだ、グランピアって……!」
興奮を露わにするのも無理はないだろう。
地底の世界は四方八方を壁に囲まれた狭苦しい場所だ。そこで生まれ育ったのなら気にはならないだろうが、こうして地上の世界を見ればそれがどれだけ開放感のある場所なのか、その実感もひとしおというもの。
少し大げさに胸を張って空気を吸ってみると、爽やかな風が肺を満たしてくれた気がした。
「……あっ!エルちゃん、あれ!生命の樹セフィロトってあれのことじゃないかな!?」
「えっ!?」
ソフィアが指差した先。その遥か遠くには天高く、先が見えないほどにまで伸びている建造物が見える。だが、それは。
「……樹?というよりは……」
「鉄の……塔?」
あまりに遠すぎて全容は把握できないが、遠目からでは樹木からなるものではなく、鉄の塔がそびえ立っているように見える。
「どうする?セフィロトまで行ってみる?」
「でも、ノアって人を探した方がいいんじゃ…」
「う〜ん……とは言っても、周りに誰もいないし…人がいそうな場所も見当たらないしなぁ……」
地上に出て早々、行動の指針に迷う二人。
少しくらいなら人もいるだろうと想像していたが、そうじゃなかった以上、自分の足を動かすしかあの手紙の手がかりを掴む方法はない。
すると、ソフィアの猫耳がぴくりと跳ねた。
「……待って、何か聞こえる……これは……駆動音……?」
耳に手を当てて可聴域を広げ、顔つきを険しくするソフィア。また機械兵がどこからかやってきたのかと、エルティは警戒して周囲を見回す。しかし、下の方に映るのは。
「……ん?あ、あれって……もしかして……!」
「……ーい!おーーーい!!」
「「人だ!!」」
見慣れない、駆動して陸を駆ける機械に乗った二人の人間が手を振っている。それは先にかかるほどブラウンのグラデーションの入った短い白髪の少女と、頭頂部に犬のような耳を持つ、やや長い白みがかった灰色の髪をなびかせた獣人で、初めて村以外で人を見たエルティとソフィアは揃って声を上げた。
ーーーーー
……遥か、地表を見下ろす深淵と星の海の塔。
「……フフ。ようやく始まる……私の悲願が動き出す時だ……」
その頂上。仮面とローブの女が、ひとり呟いた。
「もうすぐだ、リヒティ……この星の命運がどう転んでいくのか……ああ、楽しみだよ……フフフ……」
全てを知る者は静かに笑う。
この荒廃した星を統べるかのように、もっとも高い場所から彼方の旅人を見下ろしながら。
セフィロトの騎士 @text72P
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